宇波彰現代哲学研究所

多種多様な「知」の交流を通じ文化創造との実践的な橋渡しをめざし、新たな学問分野の開拓を行う研究機関のブログです。

戦後日本社会の出自…(1)

 石田憲『敗戦から憲法へ-日独伊憲法制定の比較政治史』を読んで私には「旧日本社会党は天皇制のタブーの前に結局沈められた…」という思いが更に強くなった。それほどはっきりとした確証はないにもかかわらず、いつも冗談半分にそのことを周りの論者たちに語ってきた。それは、旧日本社会党は、語源の響きと異なりヨーロッパ型の分配的正義の社会民主主義政党では全くなく(それは残念ながら自民党が「ばら撒き」の形で一手に引き受けてきた)、平和主義政党なのに、なにゆえに憲法第9条に基づいて平和主義・「非武装」は主張するのに、第1条「象徴天皇制」にまつわる天皇制の正統性の根拠をなぜ問わないのか、昭和天皇の戦争責任を根本からなぜ問わないのか、そのことが平和主義政党として実に不整合・不合理だと感じていたからである。それならば、一層のこと戦後ドイツのようにナチスドイツの侵略行為を国家の戦争責任としてはっきり認め、それを世界に謝罪し、その上に立って国民国家としての「主権」を確保するための手段として再軍備を認める方が、はるかに筋が通っている。戦後日本においては天皇制の存続(あり方)を問題に付し、いかなる国家を構築するのか、そうした議論は全くなされなかった。この議論の不徹底さこそ、戦後日本社会において軍備をめぐる議論の争点(イッシュー)が常に「もやもやとした(曖昧となる)状況」となる要因をなしている。日米安保条約の条約事項の解釈、軍備の増強の問題(自衛隊「派兵」の問題も含めて)が持ち上がるたびに、この議論のもどかしさを我々はモロに味わってきた(もちろんそれは、軍備の問題にとどまらず、社会保障も含む社会全般の問題にわたっている)。
思えば、旧日本社会党は、「護憲」を謳いながら天皇制に伴う戦後日本社会の根幹的問題を社会に問うことはなかった。とはいえ、旧日本社会党は共産党に対する出自のコンプレックスゆえに共産党より逆説的にラディカルな面もあり、当然その中には「天皇制」のありようを根本的に問う指向性もあったはずである。ところが実際には冷戦構造の現実主義(リアルポリティクス)の前に軍備化の既成事実を積み重ねられると(今日では主権国家の役割分担という「国際貢献」の名のもとに)、「戦争に巻き込まれる」という被害者的な発想でしか「防衛論議」に対処できないこともあり、旧社会党系の主張は無力化された。旧日本社会党の一見した「非現実主義的」な思考(政治体質)に問題があると受け止められたが、問題の本質はもっと悩ましく、深い。
そこには「天皇制という(隠匿された権力の)タブー」が働いていて、分かっていてもそこに踏みこめず、彼らの「平和主義」は戦後(戦争)の記憶が薄れるにつれてそのタブーの前に徐々に窒息・沈没させられた、ということである。その意味で存在根拠を掘り崩されたのは当然の成り行きであった。タブーがタブーであるためには、ある政治力学(機制)が機能しなければならない。つまり「コンフォーミズムconformism」という帰属上位集団の価値基準(規範)に自ら進んで順化しようとする日本人の精神風土である。「天皇制という(隠匿された権力の)タブー」はその「コンフォーミズム」(俗に言えば自分の会社でもないのに「ウチ」(の会社)を連発する日本のサラリーマンのあの言動)とうまく嵌って不可侵の棚上げされた規範-日本人の内面を機制する論理-として機能する。その構造の摩訶不思議さ。「天皇制のタブー」と「コンフォーミズム」の結びつき-ともかくもこれが日本社会の編成原理-こそ、旧日本社会党の前に立ちはだかった大きな壁であった。もちろんそこには当然人々の「天皇制のタブー」への畏怖の機制が働いている。そのために自動的に窒息・沈没させられる運命にあった。旧日本社会党のそのいきさつを見ると戦後日本社会の出自の「秘密」をどうしても知りたくなる。その点でさまざまな示唆を与えてくれたのが、ともにイタリア政治史研究者である、豊下楢彦『昭和天皇・マッカーサー会見』(岩波現代文庫2008年)と石田憲『敗戦から憲法へ-日独伊憲法制定の比較政治史』(岩波書店2009年10月)である。

「政治的リアリスト」で『畏るべき昭和天皇』(松本健一の本の題名でもある)は「自らの連合国側の裁判を免れて“生き残る”ことが、長い伝統を誇る皇室を守り抜く唯一の道であり、それを獲得するためには、なりふり構わずあらゆる手段を講じる、という方向に踏み切ったのであろう。[…]かくして昭和天皇の「東条非難」は、皇室を守り抜くための天皇の徹底したリアリズムの表現であった、と捉えることができるのである」(豊下)。そのためにそれと呼応して「「先手を打って、既成事実を作ってしまおう」ということこそが、46年2月上旬のマッカーサーによる憲法の“押し付け”であり、これによって天皇制は維持されることになったのである」(同 傍線:吉沢)。そして、共産主義への強い警戒心から「天皇は、共産主義から日本を防衛する体制を確保することが講和に進む条件と主張しようとし」、「51年に入って開始された日米交渉は、“自発的で、無条件的”な日本の基地提供という帰結をもたらした。これは実質において「天皇外交」の勝利を意味していた、と言えるであろう」(同 傍線:吉沢)。この点で天皇の「政治的リアリスト」としての能力は遺憾なく発揮され、吉田外交との二重外交のもとで「不平等条約」といわれる安保条約の骨子がほぼ形成された。つまり、それは「何よりも、日本には米軍に基地を提供する義務があるが、米軍の日本駐留はあくまで権利であって、米軍には日本の防衛が義務づけられていない。しかし、その一方で、米軍には日本の「内乱」に介入する権利がある」(同)というシロモノであり、「[…]日本の基地提供は無条件的に「日本側からオファー」されるべきものというのが、天皇の一貫した立場であった」(同)。豊下氏の意図は「占領下において昭和天皇が「天皇外交」とも称すべき「高度に政治的な行為」を展開することによって、戦後日本の安全保障体制の枠組み形成に重要な役割を果たした」(同)ことを立証することにある。昭和天皇が戦後においてもいわば「公然と」上記の政治的行為を展開したのであれば、そのことは単に「安全保障体制の枠組み形成」にとどまらず、戦後日本社会の枠組みそのものを決定したとも見なすことができるくらいである。この事実をある程度は知っていたものの、これじゃ「戦後の日本社会は何もないに等しいじゃないか」という愕然とした思いに改めて駆られる。

PageTop

コメント


管理者にだけ表示を許可する