宇波彰現代哲学研究所

多種多様な「知」の交流を通じ文化創造との実践的な橋渡しをめざし、新たな学問分野の開拓を行う研究機関のブログです。

「三蔵法師、経を読む人類学者」 前田耕作『玄奘三蔵 シルクロードを行く』書評

前田耕作氏の岩波新書「玄奘三蔵、シルクロードを行く」は渾身の力作である。前田氏は玄奘の生い立ちに始まって『具舎論』『摂大乗論』など玄奘が若き日に読んだ経まで微に入り細に入り辿りなおし、玄奘がこれらの経を読んだが漢訳ゆえに真義に至らないもどかしさで天竺への求法の旅へ駆り立てられたことを伝える。玄奘三蔵は当時の中国仏教界のアヴァンギャルドなのだ。唐代の初めに長安を出てシルクロードを行く玄奘が見たもの、聞いたものを前田氏はありありと追体験してゆく。他者の意識に物事が立ち現われる瞬間を先入見なしに記述できるかは現象学の根本的な問いであるが、若き日に現象学研究会の中心的メンバーであった前田氏は今や当然のごとくに玄奘の眼を借りて見、玄奘の耳で聞く術を会得している。寄り道の多い長年の学究と知見の賜物である。玄奘は鳩摩羅什の故国、トカラ語を話す亀茲で男根切断と男根復活の伝説を人類学者さながらに書き記している。難関の凌山を越え、キルギス領に入り、イラン系ソグド人の地で拝火教やネストリウス派キリスト教の景教徒もいる「諸国商胡雑居」のタラスを経て拝火教のサマルカンドで説法をして仏法の足跡を刻み、アレクサンドロス大王も東征で訪れた突厥の南端の鉄門を抜け、西洋世界に名高い古代バクトリアの地に足を踏み入れる。ヘレニズムとペルシア文化の影響の上に仏教が伝来していたバクトリアのテルメズで仏寺を巡り、仏縁に感激の涙を流した。大雪山を越えてようやくバーミヤンに至る。バーミヤンで歴史的に貴重な三体の大仏を仰ぎ見て、カーピシー、ランパーカを経て仏都ガンダーラへ出るところでこの書は幕を閉じる。中野美代子氏の「西遊記、トリック・ワールド探訪」では、女性を知らないが故に神聖な長寿の源として三蔵法師の肉体が道教の魔物たちの食欲・性欲の欲望の的になっている構図が描き出されているが、そのような西遊記のフィクションとしての面白さに加えて、前田氏の追体験する大唐西域記の玄奘のリアルさも大いに魅惑的だ。見るもの、聞くものを無心に書き記す、経を読む人類学者、三蔵法師の面目躍如たる姿を著者は活写している。エノケン演じる孫悟空に夢を馳せた私の父にも読んでほしい一冊である。

PageTop

コメント


管理者にだけ表示を許可する