宇波彰現代哲学研究所

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米盛裕二『アブダクション』を読む

「アブダクション」(abduction)は、19世紀末から20世紀初頭まで活躍したアメリカの哲学者チャールズ・サンダース・パース(1839~1914)の認識論・記号論のなかで重要な役割を演じている概念である。私が最近の著作『記号的理性批判』に収めたパース論のタイトルも「アブダクションの閃光」である。つまり、私自身もアブダクションをパースの思想の中心になる概念として考えているということである。パースは科学的・学問的な(scientific)認識の基本になる方法として演繹・帰納・アブダクションの三つをあげているが、本書で特に論じられているのは帰納とアブダクションである。それは両者が対立した思考方法であるからである。著者はこの二つの方法に関するパースのことばを反復して引用するが、それによると「帰納」は「われわれが事例のなかに観察したものと類似の現象の存在を推論すること」であり、集めた事実・材料から推論することである。これに対して「アブダクション」は「われわれが直接観察したものとは違う種類の何ものか、そしてしばしばわれわれにとって直接には観察不可能な何ものかを仮定すること」である。わかりやすくいうと、アブダクションは結論を先に提示して、あとからその原因を推論する方法である。したがってそれは遡及法といわれることもあり、本書では「仮定」とほぼ同じ意味で使われている。あらかじめ結論を推定するのであるから、その作業を実行するときには、ばあいによっては「閃光」(flash)のようなひらめきがかかわることもある。私がパース論に「アブダクションの閃光」というタイトルを付けた理由である。(パース自身が「閃光」ということばを使っている。)
「アブダクション」(abduction)という英語は、もともと「拉致・誘拐」を意味することばであり、結論を一気に持ってくる思考の方法である。そのため、ばあいによってはその推論が間違っていることもありうるのであり、またパースの認識論そのもが、きわめて特異なものであり、認識には誤りがありうるとする「可謬性」(fallibilism)の概念さえも提示した。またその推論があいまいで、ファジーなものになることも認めていた。哲学において、誤りやあいまいさを最初から容認する考えは、厳密な学問的立場からいえば、「異端」のそしりを免れないであろう。パースは大学で教えたこともあったが,正規の教授にはなれなかった。それには、彼の人格的な問題も絡んでいたといわれるが、哲学思想としての異端性も理由であろう。
最近、パースとラカンの関係が論じられているが、このアブダクションは、フロイト、ラカンから、さらにデリダへと継承されている「事後性」の概念とつながっている。「事後性は」は現在が過去を構成する操作である。本書第6章で示されている「仮説が事実を作る」という考えは、「事後性」の概念にきわめて近い。
本書はパース論であるが、著者の考察はパースひとりに限定されてはいない。帰納・アブダクションを論じていくプロセスのなかで、ミル、フランシス・ベイコンなど、関連する哲学者の思想に言及し、さらに現代の科学哲学の成果にも触れている。また、言語・記号の役割を無視するデカルトの思想に対する批判も展開されている。つまり、本書では、認識論・言語論の基本的な問題が、哲学の著作としては例外的なほどきわめて平易なことばで語られていて、読者は単にパースの思想だけではなく、関連する多様な哲学的問題へと導かれていくであろう。
米盛裕二はすでに1982年に『パースの記号論』を公にし、また同時にパースの重要な論文の邦訳も行ったが、それはわが国におけるパース研究の先駆的な仕事であった。2006年に雑誌「大航海」がパースの特集を組んだとき、原典に当たらずに邦訳だけに頼ってパース論を書く研究者がいることに、私は疑問を感じたが、逆に考えれば、米盛裕二の翻訳の価値が大きいということにもなるであろう。しかも米盛裕二は、その仕事の多くを沖縄において行っていた。アカデミシャンの多くが「東京へ」をスローガンのようにしている今日においては、きわめて注目すべき態度である。いまパースは、アメリカにおいて21世紀半ばごろまでに完成が予定されている膨大な年代順著作集の刊行、レヴェルの高い多くのパース研究によってしだいに再評価されつつあり、伝記も書かれている。フランスでもパース研究はしだいに深まりつつあり、たとえば、2005年に刊行されたロランゾ・ヴァンシゲーラ(著者はイタリアのピサの生まれというから、ヴァンシゲーラではなく、ヴィンチゲラかもしれない)の『スピノザと記号』(Lorenzo Vinciguerra,Spinoza et le signe,Vrin,2005)は、スピノザの思想をパースの記号論を媒介にして解釈しようとする試みである。ただし、このスピノザ論においてパースが十分に理解されているか否かについては、判断を留保しておきたい。フランスにおけるパース研究は、まだアメリカのパース研究のレヴェルに達してはいないように思える。また、ジョン・マラーのように、アメリカのラカン研究者のなかにはラカンの三領域論をパースの三分法と関連させて考えるひともいる。この『アブダクション』をひとつの媒介にして、パースへの関心の高まることを期待する。

付記
この書評は、2007年12月14日付の「週刊読書人」に掲載されたものに大幅な加筆訂正を行った「研究所版」である。(2007年12月12日)

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