宇波彰現代哲学研究所

多種多様な「知」の交流を通じ文化創造との実践的な橋渡しをめざし、新たな学問分野の開拓を行う研究機関のブログです。

「地獄のセミネール」の報告

宇波彰現代哲学研究所の主催によるフーコー『言葉と物』読書会が、6月4日(金)、5日(土)の二日間にわたり箱根で行われ、7名が参加しました。会場には温泉があったので、何はともあれ、温泉でリフレッシュしようということになりました。私は熱めの温泉につかりながら、内心はドキドキでした。この読書会のお知らせメールに、「地獄のセミネール」になると書かれていたからです。しかし、スタートしてみれば、和やかに進んでいきました。
 今回の範囲は、序、第1章「侍女たち」、第2章「世界という散文」、第3章「表象すること」でした。これを5名が分担して発表し、あわせて疑問点や問題点などを討議しました。ザックリと言えば、序と第1章が本書のまくらの役割を果たし、第2章と第3章がそれぞれ、ルネサンス期と古典主義時代のエピステーメーあり方の紹介となっています。
 私自身の感想としては、今回の読書会で、本書の難しさを再認識できました。ちょっと大袈裟に言えば、自分が属しているエピステーメーから自由になることは、非常に難しい、あるいは不可能かもしれないということです。
たとえば、ルネサンス期の思考を基礎づけていたのは類似であり、その類型として、適合、競合、類比、共感の4つが紹介されます(第2章)。パッと見て、どこか怪しい項目立てにも見えるのですが、丁寧に読めば、フーコーの説明は理解できなくもありません。しかしだからといって、リアリティーを感じることもないでしょう。むしろ、そこにあるのは、違和感、あるいは「困惑」(序)に他なりません。
 この困惑を出発点として、私たちの思考(の土台としてのエピステーメー)に揺さぶりをかけることが、フーコーの戦略となります。しかし、この困惑は、惰性の思考にとっては、笑いの経験であるどころか、逆に、自らの存立基盤をあやうくする不快な経験なのであり、否定したくなりがちです。この否定への誘惑に、本書の難しさが潜んでいるのだと思います。
そこで、次回以降の課題としては、この困惑の不快さを通じて、自分が属しているエピステーメーの歴史性を再確認することでしょう。さらに、この歴史性の構成要素や動因は何かという問いを立てたくもなるのですが、そもそも、その答えが本書で与えられるかどうか、もう少し深く読み込む必要がありそうです。

(付記。箱根でのこの合宿研究会は、きわめて有意義でした。もちろんひとりで読んだり、考えることも重要ですが、ときには集団で同じ問題を考え、話し合うことがどれほど大切かが、改めて痛感されました。会場は、芦ノ湖に近い森のなかにあり、ホトトギス、ウグイスがしきりに鳴いていました。自然に触れ、いい空気を吸って、頭を鍛えるよい機会でした。参加された方々にお礼を申し上げるとともに、秋に予定されている次回の研究会に期待したいと思います。この報告は、参加者のひとりである千葉義仁さんにお願いしました。2010年6月17日 宇波彰)

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