宇波彰現代哲学研究所

多種多様な「知」の交流を通じ文化創造との実践的な橋渡しをめざし、新たな学問分野の開拓を行う研究機関のブログです。

フーコー読書会報告

 宇波彰現代哲学研究所の主催によるフーコー『言葉と物』読書会(第3回)が、8月30日(火)、31日(水)の二日にわたり開催されました。駅からバスで20分ほどの奥湯河原の閑静な温泉宿を会場とし、のんびり温泉につかったり、おいしい料理を頂いたりしてリラックスしながらも、しっかりとした議論が展開されました。
 今回は、主に古典主義時代を対象とする第1部を読み終え、近代が問題となる第2部に入りました。すなわち、第6章「交換すること」(一部)、第7章「表象の限界」、第8章「労働、生命、言語」(一部)を読みました。ここでは、古典主義時代から近代への転換期が問題となります。
 この転換は、突然に起こったとフーコーはいいます。しかし、なぜ突然に変化するのかという問いには回答を用意していません。知の考古学にとっては、この転換は、分析の対象ではあるとしても、説明の対象ではないからです。考古学は、「いかにして」という問いに答えようとはしますが、「なんで」という問いには答えてくれません。なので、歴史についても「なんで」という問いを立てがちな私にとっては、少々モヤモヤとしたものが残ってしまいます。
 ちょうど今回は、古典主義時代と近代のエピステーメーを対照することで、「表象」のあり方を自分なりには明確なものとすることができました。古典主義時代におけるいては、物の体系は表象それ自身のうちに根拠をもっていたが、近代に入るとこの表象は「外部から支配され」ます。言わば、表象(の体系)の自立性が失われ、表象が表象だけで完結しなくなるのです。そこに登場するのが、欲望あるいは人間です。今回は、まだ近代の導入部ということで予告的に扱われているだけで、人間は次回以降のテーマとなります。
 私の感想としては、表象の自立性(それとも自律性か?)という視点で古典主義時代を再検討する必要を感じています。今までは個別の論点を追うので精一杯でしたが、総括的な観点から、第1部を読み直してみようと思っています。最後になりましたが、参加されたみなさん、お疲れさまでした。次回もよろしくお願いします。(千葉義仁記す)

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こんな楽しい企画が行われていたとは!

教養の道 | URL | 2011年10月13日(Thu)01:10 [EDIT]