宇波彰現代哲学研究所

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書評:岡田斗司夫『ぼくたちの洗脳社会』、そしてアルチュセールとの比較(1)

 現在、岡田斗司夫と哲学者・内田樹がTwitter上で議論し、それが書籍化されそうな動きがあるということだ。その内容とかかわりがあるかどうかは分からないが、岡田斗司夫の著作について書評したい。

 岡田斗司夫『ぼくたちの洗脳社会』を読んで、哲学者アルチュセールを連想した。
 正確に言えば、似ていると思わせるところと、正反対なところが交互に混じりあっている。どこが似ていて、どこが違うか整理してみれば、より両者の内容が分かりやすく見えてくるのではないだろうか。
 では、まず岡田斗司夫の著作『ぼくたちの洗脳社会』(朝日文庫)の概略を紹介したい。

『ぼくたちの洗脳社会』(以下、『洗脳社会』と書く)ではまず、堺屋太一の「人間のやさしい情知」という考え方に注目する。その「やさしい情知」とは、「豊富なものをたくさん使うことを格好よいと感じる美意識と、不足なものを節約するのは正しいことだと信じる倫理観」*(1)だそうだ。つまり、たくさんあるものは派手にバーッと使う。足りないものは大事にする。そのやり方を正しいと思うのは、人間(人類)にとって時代も場所も問わず普遍的なのだという。
 この「やさしい情知」という感じ方・考え方に、その時代や場所で、何が豊富で何が不足しているか、という状況が結びついて人は文化を作っていく。文化といったが、『洗脳社会』では特にパラダイムという言葉が使われている。パラダイムとは、考え方の基準であり、私たちが「世界はこういうものだ」「まともな人間はこうでなければならない」という、これこそが当たり前だと考える基準のようなものだ。
『洗脳社会』では、具体的に例をあげて人類の歴史の発展と、それにともなってパラダイムが変化していく様子を説明している。
 原始狩猟社会。この時代は、「モノ不足・時間余り」の時代である。人々はその日食べる食料にも事欠き、食料以外にもあらゆる物資が不足していた。しかし、時間はある。その時間を人々は思索に費やした。そして、カミの概念が生まれ、素朴な芸術が生まれ、原始的な宗教が生まれた。
 次に、農耕社会。農業のおかげで、食糧事情が飛躍的に改善され、人口が爆発的に増加した。すると、食糧の管理、翌年の収穫のための種籾などの管理、農地の整備、増えた人口に対してどのように食糧を分配するか、など、マネジメントが必要となってくる、こうして、必然的に管理社会が生まれ、それにともなって役割分担が必要となり、身分社会が生まれてくる。原始的な封建社会の誕生である。この「モノ余り・時間不足」の時代にあっては、労働こそが善であり、また身分を持っているとは、社会の一員として保証されているということでもあっただろう。この時代の人間からすれば、身分を持たない人間は「蔑むべき未開人」でしかない。我々現代人から見たらこの時代の人間は「身分に縛られた不自由な人たち」に見えるとしても。
 この時代はなにせ物資が余っているのだから、これを管理することが大事だったと著者は主張する。今の時代から見れば、年貢を取り立てるのは悪い領主、というイメージだが、著者によれば、この時代の実態はそういうものではない、ということだ。食料が余っても領民の間で揉め事のタネになるだけだし、下手に食料を与えて人口が激増したら数年後には飢饉になるかもしれないし、余った食料や労働力を用いてバカでかい城や墳墓を作った方が上手い管理の仕方であった、というのが著者の主張である。*(2)
 しかし、農業がもたらしたこの発展も行き詰まりを見せる。開拓できる領土には限りがあるからだ。どうやっても農地にならないような荒地や熱帯雨林など、どんな国も領土の限界にぶち当たる。それまで無限の発展が約束されていたような状態から、今まであるものを大事に使いながら現状を維持していく状態への転換が求められる。これが成熟した封建制であり、中世の時代である。同じ農業革命以降でも、中世になれば、また「モノ不足・時間余り」の時代になったというわけだ。著者によればこの時代の人々は何かと理由をつけて休んでばかり。働かないことよりも、休むべきときに働くことの方が悪だったのだという。しかし遊ぶわけでもない。遊ぶ、というのは食べたり飲んだり着飾ったり旅行したり、とにかく消費をともなうからである。モノ不足のこの時代にそんな余裕はない。そんなわけで、この時代の理想像は「清貧な思想家」である。修道院にでもこもって質素な生活をして、神について考えをめぐらしている神父様などが立派な人だったのである。他にも、詩人だとか。
 そして、産業革命の時代がやってくる。この時代は科学が神に取って代わった。かつて農業が狩猟に取って代わったように。それは、「合理的思考」と「定量化」の思考をもたらした。それまでは、全ての自然現象も病気も人生の出来事も「神様の思し召し」でしかなかったのが、「物事には必ず原因があり、ゆえに予測もできる」というように考えられるようになる。もう一方の「定量化」は、すべての労働はお金に換算できて、そのお金は何にでも交換できるという発想を生んだ。ある量の何かをきちんと測れば、別の量の何かと交換できるのだ。一時間の労働はある量のパンと交換でき、ある量のパンはある量の布と交換できる、というように。
 こうして、誰もが労働力として換算可能な存在になり、都市に出かけてさまざまなものを手に入れることが可能になった。身分によって社会の中での位置を保証される必要はなくなり、誰もが金持ちになれる可能性、色々なものを所有できる可能性がでてきた。蒸気機関などの発達もあり、「モノ余り・時間不足」の時代がやってくる。これに科学への信頼が加わり、近代のパラダイムは決定された。自由経済競争社会である。
 この時代の人々から見れば、中世の人々の「当たり前」は哀れなものにしか映らない。「身分制度と無知が支配していた暗黒の中世」「『本当の自由』を知らない、かわいそうな貧乏人たち」*(3)である。
 この時代は、つい最近の我々の時代まで続いていた。科学万能主義、自由な自我の確立。神様の代わりに自由な自我を手に入れた我々は、様々なストレスにさらされることになった。それまでは、自分が何者であるかも、運命も、一生の仕事も、神様が決めてくれたのだ。しかし、いまや原因と結果に基づく合理的思考と、自由がある。自分は自発的に立派な人であり続けなければならないし、自分の人生の責任は全て自分にのしかかっているのだ。こうして私たちはさまざまな社会的ストレスにさらされることになった。
 そして、現代にまで続く「大量生産・大量消費」もこの時代の特徴である。「モノ余り・時間不足」がかつてないスケールで到来したのだ。我々は、勤勉な生産者であると同時に、消費者でもある。よく働き、よく遊ぶのが正義なのだ。
 しかし、著者によれば、この時代も変革期に差し掛かっているのだという。著者は、我々が科学への信頼を失いつつあることを手がかりにこの推論を進めていく。
 様々な公害や戦争、環境問題によって、科学は人を幸せにするわけではないということが見えはじめてきた。治せない病気もある。そして、資源が有限であるということも見えてきた。
 この有限感が、再び「モノ不足・時間余り」の時代をもたらすのだという。そしてさらに、著者は「情報余り」という事態を指摘する。メディアの発達によって、ある一つの事件が報道される際、それはあっという間に世界を駆け巡り、その事件についての価値判断、「解釈」もとてつもない量でばら撒かれる。これは一つの事件を中心に、無数のイメージが飛び交うことになる。我々は知らず知らずのうちに、そのイメージのどれかを選択し(選択させられ)ている。また、ソニーやアップルのような、実際の製品以上に、企業イメージを売り物にしている会社の例を挙げている。その企業の新製品ならとりあえず買うという、企業を応援するサポーターのような消費者はイメージを購入しているのだという。
 そして、我々はイメージや解釈を受信するだけではない。インターネット(『洗脳社会』発表当時はまだパソコン通信が主流だが)の発達によって、我々はある事件や物事についてのイメージや解釈を、自ら発信することができるようになったのだ。従来はマスメディアや政府や大企業のものでしかなかった「洗脳装置」は、我々にも使えるものになりつつあるのだ。こうして、我々は、相互にイメージや解釈を発信しあい、お互いの価値観に干渉しあう。
著者はこれを「自由洗脳社会」と名づけている。「経済から洗脳へ」、これが我々の直面している変化なのだという。そこでは、我々にとっての「当たり前」は今までに無い変化をこうむるだろう。
ここまでが、『洗脳社会』の大枠を説明である。

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@Tomabetchy | URL | 2013年05月10日(Fri)10:38 [EDIT]