宇波彰現代哲学研究所

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書評:岡田斗司夫『ぼくたちの洗脳社会』、そしてアルチュセールとの比較(2)

 これから、アルチュセールの社会分析理論との比較に入れる。
岡田斗志夫は「モノ」や「時間」や「情報」が不足したり余ったりする状況が、人間の意識に影響を与えている過程を描いてきた。この、人間を取り巻く状況が人間の思考や欲望を決定するというのは、哲学で言えば「構造主義」の考え方に近い。
 しかし、「豊富なものをたくさん使うことを格好よいと感じる美意識と、不足なものを節約するのは正しいことだと信じる倫理観」という「やさしい情知」があらかじめ、どんな人間にも備わっているというのは構造主義的ではない。岡田が描くのは、あくまで人間の意識と、人間を取り巻く構造との相互作用である。
 アルチュセールは構造主義的マルクス主義者である。岡田は「モノ」が不足したり余ったりする中で、人間に備わった「やさしい情知」がそれと結びつき、その時代その時代の「当たり前」が変化していく歴史を描いた。しかし、アルチュセールには、「モノ」しかない。モノが人間の意識の全てを決定しているのである。岡田(もとは堺屋太一)が人間にあらかじめ備わっているとした「やさしい情知」も、アルチュセールからしたら、モノがどんな状況かによって、人間に与えられたり与えられなかったりする派生物、でしかないだろう。人間にあらかじめ備わった意識など、厳密に構造主義的立場に立てば、ありえないのである。
 アルチュセールがこの世の基盤=下部構造(infrastructure)としたのは「物質的諸関係」であり、岡田が「モノ」と呼んだものにかなり近い。しかし、岡田が「モノが不足したり余ったりする」という変化にだけ注目したところを、アルチュセールは物質の流れ、人間と物質との関係性にまで広げて見ている。たとえば、原始狩猟制の社会なら、獲物はみんなで平等に分配することになる。日本の鎌倉時代なら、土地と領主の関係は将軍によって保証され「御恩と奉公」によって結ばれている。アルチュセールが実際に挙げた具体例ではないが、こうした「物質的諸関係」が私たちの社会の実態、つまり土台=下部構造である。現代においては、経済的諸関係、つまり工場で作られる製品やその原材料、そこで働く労働者、賃金として支払われたり商品の代金として支払われたりする貨幣の流れ、雇用者と被雇用者の労使関係、それらの関係性や流通の過程を全て含む。マルクス主義者であるアルチュセールにとっては、そこには「搾取される者と搾取する者の関係」も当然含まれる。
 それに対して、上部構造(superstructure)と呼ばれるのが、国家(つまり国の仕組みそのもの)、法律、イデオロギーである。ここで注意を払わなければいけないのがイデオロギーである。これは世界観のことであるとアルチュセールは明言している。
つまり、「世界はこういうふうなものだ」「こういうあり方が人間としてまともだ」という、我々にとっての「当たり前ってのはこういうことだ」という思い込みのことだ。それらは当たり前すぎて、普段ならいちいち確認もされないし、疑問にも思われない。イデオロギーから外れたことや人に出会ったときに、「あんなのありえない!」と我々は初めて自分のイデオロギーをむき出しにする。岡田がパラダイムという言葉で呼んだ、その時代その時代での人々にとっての当たり前、これとイデオロギーは似た意味を持っている。
アルチュセールから見れば、真の科学や哲学を学んでいる者から見れば、イデオロギーなどというのは「未開の部族の神話」、つまり原始人の思い込みと大して変わらない。これは、人間は真面目に労働するのが当たり前だとか、派手に遊んでない奴はイケてない、というこれらの世界観(イデオロギー)は、土台を維持するために我々に埋め込まれるものだ。派手に遊んでいない奴はイケてない、という思い込みは世の中にお金を回していくために必要だ。今の時代、遊ぶことは結局、消費活動なのだから。だからその前に、それぞれの人間は金を稼がなければならない。だから、人間は真面目に労働するものだ、という思い込みも必要になる。ブランド物のバッグを買えば、買う前より自分はマシな人間になれる。あるいは、みんなが持っているんだから、自分も持たねば。このとき起こっていることは、長時間かけて稼いだ金を、貧乏人がすでに金を持っている者(ブランドを販売する企業)にせっせと渡して、格差を維持するために貧乏人みずからが努力しているという現象だ。全ての思い込み、イデオロギーは、この世を再生産するために必要だからという理由で、我々に埋め込まれたものにすぎない。
現代思想の解説者として有名なテリー・イーグルトンはこう語っている。

イデオロギーが存在するとき、かならず、語ることはおろか、思考することすら禁じられたものが存在する。ただ、そうした禁じられた思考が存在することを、わたしたちがどうしたら察知できるかは、論理的にみてやっかいな問題をはらむ。たぶん、わたしたちは、考えるべき何かがあるということをうすうす感ずるのだろう。ただし、それがなんであるか皆目見当もつかないとしても。*(4)

 岡田斗司夫のもうひとつの柱、洗脳社会について考えてみよう。アルチュセールによれば、人々にイデオロギーを与えるための道具(岡田の言葉を使えば「洗脳装置」)は国家のためのものでしかなかった。巨大な存在だけがイデオロギー装置(=洗脳装置)を持っていたのである。アルチュセールは「国家のイデオロギー諸装置」(Les Appareils idéologiques d’Etat、略してAIE)という呼び名を与えている。それらは様々なものがある。宗教的AIE(さまざまの教会制度)、学校的AIE(さまざまの公的私的な「学校」制度)、家族的AIE、法的AIE、政治的AIE(政治制度、さまざまな政党)、組合的AIE、情報的AIE(新聞、ラジオ‐テレビ、等々)、文化的AIE(文学、美術、スポーツ、等々)……。*(5)
 岡田によれば、インターネットの発達などによって、誰もが「洗脳装置」を使うことができるようになったということになる。これは、「国家のイデオロギー装置」が「個人のイデオロギー装置」になったということだ。

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