宇波彰現代哲学研究所

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エイゼンシュテインの建築と映画

『戦艦ポチョムキン』(1926)、『アレクサンドル・ネフスキー』(1938)などの名作によって知られている映画作家セルゲイ・エイゼンシュテインが、若いころ建築家を志したことはよく知られている事実である。エイゼンシュテインの父ミハイル・エイゼンシュテインは、ドイツ系のユダヤ人で、ラトヴィアの首都リガの建築主任であった。エイゼンシュテインは、リガで中等教育を受けてから、父が学んだペテログラードの土木専門学校に学び、そのあと演劇・映画の世界へと入っていくことになる。
エイゼンシュテインの映画は、モンタージュと呼ばれる方法によって作られている。映画史ではエイゼンシュテインはそれをアメリカの映画作家グリフィスからも学んだとされているが、私はエイゼンシュテインの映画を観るたびに、そこに全体を構成しておいて、部分をテクスト状に織りなしていく建築的なものがあるように感じる(それが本当に建築的なことなのかどうか自信がないが)。

エイゼンシュテインは1898年の生まれであるが、それより少し早く1885年に生まれた文学理論家のミハエル・バフチンの思想と、エイゼンシュテインの映画の作り方には、どこかで共通したものがあると思われる。
バフチンは重要な概念をいくつも提示したが、そのなかで最近特に注目されているのが<アーキテクトニクス>という考え方である。バフチン論としてよく知られている『バフチン再考』(Rethinking Bakhtin,Northwestern University Press,1989)に収められたモーソンとエマーソンの論文によると、アーキテクトニクスはシステムの対立概念であり、システムが単に部分を集めて組み立てられるものであるのに対して、アーキテクトニクスは、バフチンによると、「具体的で、個別的な部分と局面とを、焦点が作られ、不可欠で、恣意的でないやり方で配分し、関係づけること」として定義されている(p.21)。システムという考え方がなぜ不十分であるかというと、システムには、「それがかならずしも人間存在を含んではいない」という問題点があるからであるとされている。アーキテクトニクスとは、建築的な関係の作り方という意味を持つ概念であると考えられるが、それがいま再評価されつつあるのは、そこに現代思想のキーワードとしてしばしば使われてきた<アジャンスマン>や<リゾーム>といった概念との親近性があるからであるとも考えられる。モーソンとエマーソンによると、アーキテクトニクスという概念は、バフチンが主として文学に関して生涯を通して追求し、作り上げていったものであり、『バフチン再考』では、プーシキンの詩についてのバフチンによるアーキテクトニクス的な解読が論じられている。エイゼンシュテインが映画において求めていたものも、このような意味でのアーキテクトニクス的なものであったのではないだろうか。

すでに述べたように、エイゼンシュテインはラトヴィアの首都リガに生まれた。ラトヴィアはロシア、スウェーデン、ドイツに囲まれた小さな国で、民族と国家のアイデンティティを維持するのが困難な地域であった。エイゼンシュテインがこのラトヴィアに生まれ、その父はドイツ系のユダヤ人であり、母はロシア人であったというが、そのことがすでにエイゼンシュテインの思想にとって多様なものを内在させる要素であったように思われる。そこには、バフチンの作った概念のなかでこれまできわめてしばしば言及されてきた<ポリフォニー(多声)>という考え方とつながるものがある。
リガは人口100万の大都会である。いわゆる旧市街には、古い教会や道路が残っていて、ハザ同盟に加わっていたころの商業都市の面影を認めることができる。旧市街を抜けて西北の住宅地に行くと、エイゼンシュテインの父が作った高層住宅をいくつか見ることができる。1905年ごろに建てられたもので、すでに老朽化し、廃墟に近い状態のものもある。いずれも極度に装飾的な部分が多い建築であり、外壁には動物や人物像などさまざまなものが付けられている。入口のところに、日本の神社の狛犬のように一対の獅子の石像が置かれてあるものがあった。しかしその建物のなかに入ると、荒れ果てていて、人の住んでいる気配はなかった。
ミハイル・エイゼンシュタインが建てた高層住宅のうちの一棟が、最近スウェーデンの援助で修復・復元されたが、周辺のくすんだ建築物のなかで、ひときわ鮮やかに輝いている。すでに荒廃してしまった建物も、復元・修復されて輝いている建物も、私にはなんとなく、セルゲイ・エイゼンシュテインの映画の土台であるように見えた。

私はむやみにたくさんの新聞・雑誌を講読しているが、そのひとつが、バルト三国が共通で発行している英字の週刊誌『バルチック・タイムズ』である。それを読んでいると、リトアニアに「国家社会主義統一同盟」というナチス(「国家社会主義ドイツ労働者党」)まがいの名前の政党が作られたことがわかったりして、なかなか面白い(1996年12月16日号)。今年の1月20日号には、リガの近代建築の写真展についてのベトリス・ブルムスという人の署名記事が載っているが、それによると、第一次大戦前のリガには、ロシアの役人・職人、ユダヤ人の商工業者、ドイツ人のエリートたちなどがリガの西北区部に住むようになり、そこにユーゲントスチル風の建築群が生まれたと書かれてある。
私はエイゼンシュテインの映画作品の根底にあるものは、このような多様な要素が、バフチンのいうアーキテクトニクスとして存在していたリガの情景ではなかったかと想像したである。

付記。
ここに示した「エイゼンシュテインの建築と映画」は、「建築雑誌」(1997年5月号)に掲載されたものである。この文章は発表当時のままのもので、訂正などをしてはいない。「建築雑誌」は30000人を会員とする日本建築学会の機関紙であるが、私は数年にわたってこの雑誌の編集委員をしていたので、このエッセーを書く機会を与えられたのである。ほかに「映画のなかの未来建築」というエッセーを書いた記憶があり、またこの学会の主催で、オーギュスタン・ベルク氏と建築会館のホールで討論したこともある。
私が「建築雑誌」の編集員をしていたときの編集長は若山滋氏だった。かなり以前のことであるが、名古屋で井上章一氏と私が討論することになり、その時に司会をしてくださったのが若山氏だった。その関係で、私が「建築雑誌」にかかわることになったのである。
リガはベンヤミンの恋人であり彼にマルクス主義への眼を開かせたという、アーシャ・ラティスの出身地である。ベンヤミンは1924年にカプリ島で彼女と知り合い、1925年にリガを訪れている。そのことはベンヤミンの『一方通行路』にちらりと描かれている。私はベンヤミンがエイゼンシュテインの父が設計した高層アパートのあたりを訪れていたのではないかと想像している。アーシャ・ラティスもそのあたりに住んでいたと思われるからである。(2007年12月22日)

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