宇波彰現代哲学研究所

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二つの無限――スピノザの無限とレヴィナスの無限

「無限」ということについて考えてみたい。様々な哲学者や思想家が、「無限」という言葉を用いたが、その中でも今回は特に、スピノザとレヴィナスの二人について考えてみたい。なぜこの二人かといえば、同じ無限という言葉を用いながらもその意味は徹底的に違っていて、かみ合わない。そのかみ合わなさをあえて対置してみようと思う。

 スピノザは第一部定義6において、神を「絶対無限の存在者」と定義している。その定義6の説明では、「私は絶対無限といい、自己の類において無限とはいわない。」と述べている。この、「絶対無限」と「自己の類において無限」との対比に注目して、この言葉にたどり着くことをとりあえずの目的として考えを進めてみたい。
 スピノザの世界観は機械論的な因果の連鎖によってできあがる世界である。その姿勢は徹底している。

あらゆる個物、あるいは有限でかぎられた存在をもつあらゆるものは、自分と同じように有限でかぎられた存在をもつ他の原因から、存在や作用へと決定されることによって、はじめて存在することができるし、また作用へと決定されることができる。さらにこの原因も同じように有限で限られた存在をもつ他の原因から、存在や作用へと決定されることなしには、存在することもできないし、また作用へと決定されることもできない。このようにして無限に進む。
(第一部:定理28)

 その本性からある結果が生じてこないようなものは、何一つ存在しない。
(第一部:定理36)

 全ての個物が外的原因によって作用を受け、また他の個物の原因となって作用をもたらしている。この機械論的な世界観は、実体の定義と照らし合わせたとき、大きな意味を持つ。「実体とは、それ自身において存在し、それ自身によって考えられるもののことである。」(第一部:定義3)のだから、それぞれの個物は実体ではありえないことになる。では何が実体と言えるのだろうか。次の箇所を参照してみよう。

 個物とは、有限であり、限られた存在をもつもののことである。もし多くの固体〈あるいは個物〉が、すべて同時にある一つの結果の原因であるかのように、一つの活動において協働するならば、そのかぎりにおいて私はそれらすべてを一つの個物と見なす。
(第二部:定義7)

 協働するかぎりにおいて、一つの個物と見なされるような、多くの個物。これこそが実体に他ならない。つまり、この世の個物とその連鎖反応の合計、それら全てをひっくるめたものが「実体」なのだ。そして、「それ自身において存在し、それ自身によって考えられるもの」が実体なのだから、この定義は「自己原因」としての神の定義と重なり合う。神は他に依存することの無い完全者であり、他から産出されるものではないのだから、実体=神でしかありえない。
 そうなると、この世の因果の連鎖の総体、この世を構築するネットワークの全体こそが、神ということになる。
 創造者としての神があり、被造物としての世界が存在するのではないのだ。そういう二項対立はありえない。この定義は、絶対無限にして完全な神の定義とも一致する。造物主としての人格神を想定すれば、それは、神と、神によって創られた世界があるということになる。これは、神は自らが創った世界から隔てられているということになる。神に外部があるということになる。ゆえに、絶対無限の完全者である神の定義と反してしまう。だからこそ、世界の総体こそが神であるという定義は合理的である。
 そこで次のような定理が導き出される。

 神は、あらゆるものの内在的原因であって超越的な原因ではない。
(第一部:定理18)

 これは、神の外部を否定したということに他ならない。そして、「私は絶対無限といい、自己の類において無限とはいわない。」(第一部定義6)という定義に立ち返ろう。「絶対無限(absolute infinitum)」であって、「自己の類(suo genere)において無限」ではないのだ。なぜ、類における無限が否定されなければならないのか、ここまでの議論で明確だろう。あるひとつの類において無限であっても、他の類があれば、外部が存在するということになる。すなわち、スピノザにおける無限とは、外部性の否定に他ならない。
 外部を持たない、内的に完結した自己原因。これこそがスピノザにおける「無限」である。

 いささかスピノザに紙幅を割きすぎた。次はレヴィナスに話を移したい。
 レヴィナスの主著『全体性と無限』のタイトルからも明らかなように、レヴィナスにとって「無限」は全体性と対置されるもの、すなわち外部性に他ならない。レヴィナスの他者論、自己と他者の関わりについて述べる内容を考慮すれば、単純に外部と言うのは無防備かも知れないが、とりあえずは全体性に含まれないもの、外部としての無限という姿勢で話を進めてみたい。
 この場合の無限は、「比較不可能なもの」「考量不可能なもの」としての無限である。これは、レヴィナスが他者(autrui、他人)について考える際の根本となる図式である。他者の他性について徹底的に考える。つまり、私とあなたは違う、ということを徹底的に突き詰めて考えれば、「比較不可能なもの」「考量不可能なもの」としての他者が現れる。この結果として、レヴィナスは「存在の一義性」を拒絶する。私も存在、あなたも存在。こうした思考は、すでに自己と他者を「存在」というものに回収して一緒くたにしてしまったという点ですでに暴力的なのだ。

 少し唐突だが、ここでレヴィナスからもスピノザからも離れて、孔子の『論語』衛霊公(えいれいこう)篇にある、有名な箇所を見てみよう。弟子の子貢に「一言にして以て身を終うるまで之を行うべき者有りや(一生涯実行すべき一語がありますか)」と問われた孔子は答える。「其れ恕か。己の欲せざる所を、人に施すこと勿れ。(それは恕(じょ)である。自分がして欲しくないことを、他人にしてはならない)」。
 これは中学校の教科書に載るほどに有名な箇所である。自分がされて嫌なことは他人にするな、というのはしごく真っ当で常識的な道徳観だろう。

 しかし、レヴィナスにとってみれば、それすら暴力だろう。目の前の他者を、「もう一人の自分」としてとらえることは、すでに他者から他性を収奪している。他者はつねに考量不可能で比較不可能な無限であり、その中で関わりを持ち、選択し決断していくことが、人間の自由と責任である。その答えの無さを引き受けることがレヴィナスの倫理である。正解の無い状況で決断をする私には、私の固有性が出現する。「他者だけが私に意味を与える」とはそういう意味で解されなければならない。
 レヴィナスの倫理学に照らし合わせれば、多数決による民主主義はすでに不可避の暴力をはらんでいる。無限Aと無限Bは比較することができない。無限はそもそも量的に決定することができないからだ。しかし、無限であるはずの他者を、一人一票という形で等値化してしまっているのだ。

 外部性の無さ、内的な完全性を持って「無限」としたスピノザ。外部性、他者の他性を徹底するために「無限」という表現を用いたレヴィナス。
 この二つの「無限」は、まったく交わらないように見える。同じ「無限」という言葉を用いながらも、絶対に架橋不可能な、比較することすら馬鹿げた距離があるように思える。しかし、この文章ではその無茶を少しばかりやってみよう。

 スピノザの因果の連鎖としての世界観は、以下のように人間の自由意志の否定へと通じる。

 自分が自由であると思う〈すなわち、彼らが自由意志によってあることをなしたり、またしなかったりすることができると思う〉人がいるとすれば、その人は誤っている。このような意見を述べることは、ただ、彼らが自分の行動を意識し、自分がそれへと決定される諸原因を知らないからである。それゆえ彼らの自由の観念は、彼らが自分たちの行動の原因を何も知らないことにある。なぜなら、彼らが人間の行動は意志に依存するというならば、それはたんにことばだけにすぎず、その意味については何も理解していないのである。なぜなら彼らはみな、意志が何であるのか、また意志が身体をいかにして動かすかを知らないからである。そして、それを知っていると口ばしり、魂の座席や住居を考えだす人は、嘲笑か不興を買うのが常である。
(第二部:定理35:注解)

 すなわち、人々が自由であると確信している根拠は、彼らは自分たちの行為を意識しているが、その行為を決定する原因については無知であるという、ただそれだけのことにある。(…)したがって、精神の自由な決意によって、しゃべったり、あるいは沈黙したり、あるいはまた他のことをする自由があると信じこむ者は、目を見開いたままで夢を見ているようなものである。
(第三部:定理2:注解)

 これは無意識を発見したフロイトの精神分析にも通じるようなところがあり、それをさらに徹底したラカンの「欲望とは〈他者〉の欲望である」というテーゼにも通じるように思われる。また、ラカンは自らの講義録(セミネール)の中でスピノザをしばしば高く評価している。
 我々は無限の因果の連鎖の流れの中にいるのだが、人間個人の知性は有限である以上、自らの行動の原因について無知である。その結果として、自らに自由意志があると思い込んでいるにすぎない。この無知から逃れ至福へと至る方法をスピノザは『エチカ』の中で示してもいるが、それをここで述べることはよそう。

 スピノザは自由意志を否定し、自らを自由だと思う人間の無知を指摘する。レヴィナスはその他者論において、把握不可能なもの、また把握が許されないものを示した。
 両者は共に、人間の思い上がりを否定しているように思われる。
 いささか詩的な言い方だが、哲学や倫理学に「魂の成熟」という目的があるならば、それは幼い万能感を捨て去る過程を含むだろう。暴論ではあるが、幼稚な万能感を捨てるという観点で見れば、すり合わせることが不可能に思えた二つの「無限」に、どこか通じるものが見出せないだろうか。これが本論の一応の結論である。

 しかし、この論旨と姿勢はスピノザからもレヴィナスからも許されはしないだろう。二者間の考えを調停しようという立場は、自らを特権的なメタ・レベルに置いている。スピノザの見地からすれば、それは存在しえないはずの外部だし、レヴィナスからすれば他者を把握しようという暴力をふるっているということになる。
 この文章は蛇足になることも許されていないのだ。無限は厳しい。

(文責 土佐巌人)

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