宇波彰現代哲学研究所

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書評 ディディ=ユベルマン、江澤健一郎訳『イメージの前で』(法政大学出版局、2012年)

 ディディ=ユベルマンは、1953年生まれのフランスの美術批評家である。1990年に刊行された本書は、著者の若い活力を感じさせる力作である。なぜ力作といえるのか。それはディディ=ユベルマンが、美術史もしくは美術批評におけるパラダイム転換を提示しているからである。
 どういうパラダイム転換か?転換を求められた過去のパラダイムは、ヴァザーリから始まり、パノフスキーにおいて頂点に達したかに見える系譜にあり、そこにはカント、カッシーラーという理論的支柱が背後にあると著者は説く。このパラダイムの特性は、本書の第3章のタイトルに含まれている「単なる理性の限界」の内側にあるということである。この領域を支配しているのは、ミメーシス(模倣)の論理であり、美術作品というシニフィアンには、実在・現実というシニフィエが対応しているという前提である。例えばフェルメールの「デルフト風景」は、現実に存在していたはずのデルフトの風景との同一性・差異性が論点となって解釈され、鑑賞される。
 ディディ=ユベルマンは、それとはまったく異なるパラダイムを提示する。美術史もしくは美術批評において、「更新された問題設定、つまり理論的な転換」(p.50)が求められた。新たなパラダイムの理論的支柱は、フロイト、ラカンであり、キーワードは「徴候」である。カント、カッシーラー、パノフスキーが作り上げたパラダイムでは、「見えるものの専制」(p.80)が支配していたが、ディディ=ユベルマンが提示する新たなパラダイムでは「表現されないものの解明」(p.276)が要求される。
 それでは「表現されないもの」(l'inexprime)とは何か。その例はディディ=ユベルマンが、フラ・アンジェリコの「影の聖母」の下半分において発見した「色斑の投擲」(p.339)である。原文はjet de taches coloreesであり、「色の付いたシミの噴射」でもある。このような「支持体に投げつけられる絵の具」(p.337)を、カッシーラー、パノフスキーは見ることができない。それを見ることを可能にしたのは、フロイト、ラカンの思想である。この新しいパラダイムによって、フェルメールの「レースを編む女」に存在する「赤い絵の具の流出」(une coulee de painture rouge)が見えてくる(p.421)。
私にとって『イメージの前で』は、興奮させるような魅力に溢れた著作でああった。江澤健一郎の翻訳は、すみずみまで配慮の行き届いたすぐれた仕事である。(2012年4月13日)

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