宇波彰現代哲学研究所

多種多様な「知」の交流を通じ文化創造との実践的な橋渡しをめざし、新たな学問分野の開拓を行う研究機関のブログです。

手紙の魔力

18世紀に活躍した有名な国学者の賀茂真淵は、私の故郷である浜松の人である。偉い人を「神様」にしてしまうわが国の習いに従って、賀茂真淵も県居(あがたい)神社に祀られている。この神社の境内に賀茂真淵記念館がある。すでに30年ほど昔のことであるが、この記念館を訪れたところ、たまたま賀茂真淵と本居宣長の往復書簡が展示されてあった。本居宣長は賀茂真淵の弟子ということになっていて、二人の出合いを描いた「松阪の一夜」という文章が、戦時中の小学校(当時は国民学校と呼ばれた)の国語の教科書に載っていた。私のかすかな記憶では、面白くもない文章であった。そのとき記念館に展示されていた二人の「往復書簡」は、巻紙に墨で書かれた宣長の質問の行間に、真淵の答えが朱筆で記されているという形式のものであった。江戸時代の手紙にそうした形式のものがあると聞いてはいたが、実物を見たのは初めてであった。ところが、そのころつきあいのあった原田力男さんという方が(すでに故人である)、私の送った手紙の行間に赤インクで返事を書いてきたことがあった。原田さんはピアノの調律をしながら、いろいろ音楽の世界で仕事をしていたひとで、「坂本龍一は私が発見した」といっていた。あるいは彼も、送られた手紙の行間に赤字で返事を書くという江戸時代からの形式を知っていたのかもしれない。原田さんの手紙は郵便で送られたものではなく、本人が直接に私の家のポストに入れていたが、それも彼独特の「手紙」の送り方だったのかもしれない。
フロイトが数多くの手紙を書いていたことはよく知られている。ユングやフリースとの往復書簡は邦訳されていて、そのなかにはフロイトの重要な考え方が示されているものもある。ラカンやデリダが重視したフロイトの「事後性」という概念も、フリースあての手紙の中で示されている。(2007年8月に論創社から刊行された拙著『力としての現代思想 増補改訂版』の「増補」の部分は「事後性論」である。)フロイトは2万通の手紙を書いたといわれ、そのうち1万通が残っているという。しかしまだ公開さていないものもある。それは、いまのことばで言えば「個人のプライヴァシー」にかかわるものがあるからであろう。
ベンヤミンもまた多くの手紙を書いた。ベンヤミンはレターペーパーにも気を遣っていて、友人のアルフレット・コーンから送られた特製のレターぺーパーを使っていたと、アドルノが書いている。(アドルノ、大久保健治訳『ベンヤミン』河出書房新社、1991)ベンヤミンは多くの手紙を書いたが、そのなかには相手のアドルノやショーレムの手紙と同じく、非常に長文のものがあり、手紙であると同時に論文でもある。実際ベンヤミンは、1935年1月7日にサンレモからアドルノにあてて送った手紙の中で、「私はあなたの手紙を読んだだけではなく、研究した」と書いている。ベンヤミンにとって、年下の友人アドルノの手紙は「一句ずつ考察されなければならない」対象であった。
手紙に関連して書いておきたいのは、2007年に刊行された大塚信一の『山口昌男の手紙』(トランスビュー)である。大塚信一は岩波書店の社長だった方であるが、1970年代には、山口昌男に信頼されていた編集者であった。山口昌男は海外から多くの手紙を彼に書き送ったが、この『山口昌男の手紙』は、それらの手紙を紹介しながら、しだいに疎遠になっていく二人の関係を描いたものである。著者と編集者の関係という面白いテーマが展開されていることは事実であるが、私にはどうも気になることがある。ひとつは、大塚信一がこの本を書くにあたって、手紙の筆者である山口昌男の十分な了解を得ていないということである。また、引用されている山口昌男の手紙の「伏せ字」も大塚信一の恣意的な判断によっている。「伏せ字」になっているのは主として人名である。しかし「伏せ字」になっていても前後関係から誰であるかわかるばあいもある。私信であるから、時には他人の悪口が書かれるのは自然なことであろう。しかし、手紙を書いた本人の了解なしに勝手に「伏せ字」にしたり、実名を出すのはよくないことである。たとえば、久保覚という編集者が、当時の山口昌男の手紙ではかなり批判されている。この本を読むと、久保覚は四方田犬彦の『先生とわたし』(新潮社、2007)で描かれている、すぐれた編集者、あるいは集団の組織者としての久保覚とはまったく異なった人物になる。私には大塚信一がなぜ「久保覚」を「伏せ字」にしなかったのかわからない。大塚信一は久保覚ともつきあいのあったひとである。彼自身の久保覚についての評価を書きそえるべきではなかったか。

2007年11月初旬のある快晴の日に、東京の地下鉄浅草線を西の終点である西馬込駅で降り、そこから少し歩いたところにある大田区立郷土博物館で、川瀬巴水展を見た。川瀬巴水は、1957年になくなった版画家で、没後50年を記念する大規模な展覧会が、彼が住んでいた大田区の博物館で開かれたのである。川瀬巴水の版画展は、2005年にも赤坂見附にあるニューオータニ美術館で開かれたことがあるが、彼はそれほど著名なひとではない。それでも、関心のある人がいるらしく、会場ではかなり多くのひとが熱心に見ていた。地元の小学生の一団が見学にきていたが、賑やかな彼らも作品の前でしきりにメモを取っていた。子どものころからすぐれた芸術作品に接するのは大切なことである。私は、中学生のころに美術担当の大城という若い先生が、北斎の版画を教室に持ってきて見せてくれたことを鮮明に覚えている。大城先生はその版画を浜松の内田六郎というコレクターから借りてきたのだといっていた。
以前に私はこの時評で、「これからスピノザを勉強する」と書いたことがある。ピエール・マシュレーの『エチカ注解』を頼りに『エチカ』を読み直し、フランスやアメリカのスピノザ研究をいろいろ調べているところである。岩波文庫版のスピノザ『国家論』(原タイトルは「政治論」)で、「民衆」とか「多数者」と訳されているものが、ネグリ、ハートに受け継がれた「マルチチュード」の概念の前身であることもわかってきた。知らないことがとても多い。

(付記。本稿は、2007年11月30日刊行の「千年紀文学」に載せた「文化時評」に加筆・訂正をしたものである。2008年1月23日)

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反省は思い出を傷つける

 大塚信一という人の書いた『山口昌男の手紙』という本は、奇妙な書物である。たとえば、高山宏の書評(参照)と、宇波彰のブログの記事(参照)を読んでみると、それぞれが、この本について、とても困惑していることが伝わってくる。 山口昌男の手紙 文化人類学者と編集者

思考の種子 Une germe de la pens? 2008年05月24日(Sat) 14:40