宇波彰現代哲学研究所

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武田 好『マキャベリ-君主論』(NHK出版 2012年8月)

武田 好様
 
ペーザロのロッシーニ・オペラ・フェスティバル(8月10日-23日開催)から8月26日帰ってきたら、貴著『マキャベリ-君主論』が届いていました。早速読んで今日に至りました。ありがとうございます。

感想を述べる前に、ペーザロのことを一言。
オペラは猛烈によかった。言うことなし。オペラの感想の一端は、イタリア近現代史研究会の辻昌宏さんのブログ「イタリアに好奇心」で垣間見ることができます。ご覧ください。

一回しか会っていないのに、それも数分間の立ち話なのに、昔からの友人という錯覚を覚えました。それは、まずは、NHKのラジオ「イタリア語講座」をテープにとって聞いていたから、その独特の「甘苦しい」口調が文体に滲み出ていて、凄く親しい存在に感じたこと、マキアヴェッリ像が僕のそれとほとんど一致していて、限りない親近感を覚えたこと、武田さんが故藤沢道郎氏の弟子であることがわかって僕とかなり近い距離にあること、によります。

マキアヴェッリ像のことは後で触れるとして、故藤沢道郎氏とはお目にかかったことはないけれども、合同出版刊行の『グラムシ選集』、デ・フェリーチェの翻訳、『ファシズムの誕生-ムッソリーニのローマ進軍』(中央公論社)でかなりの「学恩」を彼には感じています。それと、武田さんも参加された『外交使節報告relazioni』の翻訳作業です。今、イタリア近現代史研究の仲間とともに「手垢にまみれたグラムシ像」の再構成を目指して、著作にまとめることを試みてみます。僕のテーマは「1922年-24年におけるグラムシのファシズム認識の問題点」です。それは、上述のデ・フェリーチェの論述から示唆を受けたのですが、当時のグラムシは、その認識がやや揺れ動く(ジグザクする)ところがあって、ファシズムの登場の評価に対して結果的に甘いところがありました(やや「甘く」見ていた…)。それは、その後左派陣営がファシストに付け込まれ、蹂躙されることに繫がったと受け止めています。もちろん、グラムシの責任などとは到底いえないが、ファシストとのやり取り・抗争の動態の中で、それを多少とも明らかにすることが目的です。その点では、『ファシズムの誕生-ムッソリーニのローマ進軍』が何かと役立つでしょう。

さて、マキアヴェッリ像ですが、10年近くにわたって、『君主論』に始まり、『ディスコルシ』の原書読書会をやっていて(文京区・男女平等センター、第3金曜日18:30)、我々はかなりの程度マキアヴェッリ主義者machiavellistaで、彼のことを「マキアヴェッリ先生」と呼んでいるくらいなので、武田さんがマキアヴェッリに惚れ込むモチーフはほとんど理解できます。今、『ディスコルシ』第3部第8章まで読了したので、原文のマキアヴェッリ節、文体の魅力はかなりの程度体得していると受け止めています。その多少の知識から本著の感想を述べることにします。

この本を読む限りでも、武田さんがsincera(注:「裏表のない」、「真摯な」を示すイタリア語で、この場合女性形)であることに限りない共感を覚えました(僕の知り合いのイタリア政治史研究者のメールアドレスがsinceroであり、それが彼の生(ナマ)がたくて、率直な気質を物語っているように…)。マキアヴェッリの表現、彼の職業上の役割からマキアヴェッリ像の再構成を試みていることに、bravissima !と叫びたい気持ちです。「権力(オトコ)の美学」の観点からマキアヴェッリのイメージをもっぱら喚起する塩野七生さん(70年代には彼女の役割は大きかったと評価しますが…)や、「権謀術数」の書として読み込む俗流解釈と異なり、真摯にマキアヴェッリの足跡を位置づけ、マキアヴェッリの含意を抽出する姿勢にまず共鳴します。
『君主論』が「再就職活動のための書」であるという見立てはその通りでしょう。技術的なことから言うと、図解はすでに読んだ(学んだ)者からすると、逆に、皆素晴らしい。P69のマキアヴェッリ先生の訓戒の図解の箇所はその通りで、『ディスコルシ』を読んでいるとき、常にそのことを念頭においています。我々が学んだ、マキアヴェッリ思想(哲学)の諸点は、「狐とライオン」の逸話を初めとして、実に目配りよく網羅されている。第25章のvirtù(力量)とfortuna(運命、幸運)の解説はその通りで、ここを強調するのが最大の主題ですが、僕は『君主論』ではこの箇所がもっとも気に入っています。それと、原文を引用することを意識的に避けているけれども、論法(記述)の特徴として、「~か、あるいは[oppure]、~か」を指摘しているのは、嬉しくなりました。「これは読者に選択の余地を与えるものです」(P106)。その通りです。それと同様に、マキアヴェッリが「Anche se …, nondimeno」(注:「…ではあるけれども、だがしかし」の意味)を多用するのは、一旦、読者の、あるいは従来の主張を認めながら(それを活して)、自論を展開していく、彼一流の議論のテクニックであり、その意味で「ディスコルシdiscorsi」なのでしょう。

以上、述べたように武田さんのマキアヴェッリ論にはほとんど賛意を表するのですが、ただ、「「政治思想の書」ではなく「政治実践の書」である」という主張には、やや留保したい気持ちです。確かに『外交使節報告relazioni』の読解から「政治実践の書」をあえて強調したい気持ちはよく分かります。しかし、その一方で、『君主論』は政治哲学上の含意に溢れている。「慎重であるより果敢であれ」とは、まさに『君主論』が「決断」の政治哲学の書であり、それがvirtù(力量)とfortuna(運命、幸運)及びoccasione(好機)と一体のものであることに言及する必要があると感じています。それは、ある意味カール・シュミットの決断(主義)の考え方にも繫がるものがあります。ご指摘のような「時代の流れと自分のやり方を一致させること」は、実践家(軍事アドバイザーでもある)・マキアヴェッリの真骨頂です。その一方で、occasione(注:好機)あるいはopportunità(注:時宜に適すること)、necessità(注:必然性-運命)の考え方とも繫がっている、と思うのです。その点、僕もわからないところがあるのですが、もう少しその点に言及してくれればよかった、というのが率直な印象です。

いずれにしても、本著は極めて平易なスタイルで書かれているけれども、その指摘は急所を捉えており、僕のマキアヴェッリ仲間にも是非推奨したいと思います。ありがとうございます。

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