宇波彰現代哲学研究所

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第二回ラカン研究会「報告」

さる昨年の11月17日と18日の両日、駒澤大学会館246にて、宇波彰現代哲学研究所主催による、第二回ラカン読書会が開催された。前回に続き、『精神分析の四基本概念』第Ⅴ章から第Ⅶ章までを精読した。前回読んだ部分では基本概念である「無意識」が論じられたが、今回は「反復」が論じられる。

「反復」という概念においては、「現実界との出会い」=「テュケー」が問題となる。「テュケー」とは「幻想」=「オートマトン」のかなたに位置づけられる「出会い」のことである(※1)。
「反復」概念の中心には失敗がある。つねにすれ違う出会い、逃したチャンス、という「隠れた力」が「反復」の本質にある。「出会い」という場において主体が引き裂かれることそのもののなかに「反復」が基礎づけられる。「反復」とは、本質的に「不運な出会い」=「デュステュシア」である(※2)。

ラカンは「反復」を説明する最中、突如「眼差し」について論じはじめる。故人であるメルロ・ポンティに触発されてのことである。

「(セミネールのあった)今週、我われの友人モーリス=メルロ・ポンティの遺作となった『見えるものと見えないもの』という著書が出版されて手に入るようになったのは、純粋の「ティシック」という次元のまったくの偶然では決してありません。」

ラカンのいう「テュケー」とは、「まるで偶然のように」あらわれる筋書きであり、死者も生者もひとしく「出会い」うる場である(※3)。「伝統的哲学」の道と「精神分析」の道との交差する「十字路」に、「幸運な出会い」=「ユーテュシア」がうまれる。

議論の「脱線」がおこったようで、その実ラカンは一貫して「出会い」を問題としている。「眼差し」を論ずることも、「視覚的把握」の領野における「テュケー」について考えることである。周囲から浮いてみえる「シミ」という違和感に、「視る機能」における「ティシックな点」が位置づけられる。ラカンの造語により、「出会い=テュケー」は「出会い的な事態=ル・ティシック」として、精神分析の経験内部で一般化される。「分析が明らかにした心的発達という概念にとってはつねにティシックな事柄が中心的だから」である。

メルロ・ポンティの遺作『見えるものと見えないもの』は、ラカンにとって、「伝統的哲学の到達点」を示すものである。デカルト的「コギト」という形に「哲学者たち」が依拠しつづけてきた、主体と意識の基本的様式の「到達点」である。
だがまた、この「未完のテクスト」は、「分析のおかげで可能となる主体についての新たな次元の省察」の出発点でもある。逃れさる「眼差し」を自身の消滅ととりちがえる、消えゆく主体の考察へと向かう。
そのために、「デカルト的コギト」=「遠近法」を逆用した、「アナモルフォーズ」の機能をラカンは利用する。「アナモルフォーズ」とは、いわば「無化された主体」を見えるようにするための仕掛けである。「去勢」という「-Φ」を像によって実体化するものである。「対象a」としての「眼差し」が、「去勢」においてあらわれる「欠損」を「象徴化」する。

ラカンは、「視覚」と「眼差し」とのズレのなかに、「視る欲動」が出現する、という。別の言い方では、「真実と見かけとの間の弁証法」となろう。「視る欲動」とは他の「欲動」とは異質な、特別ものであるとすでにフロイトが指摘している(※4)。「視覚の機能はもっと先まで探求しなくてはなりません」。次回は「象徴」や「ファントム」ではなく、「眼差しそれ自体」をとらえることになる、とのラカンの予告である。「脱線」はまだしばらくつづく。

なお、「私の講義はフロイトの再解釈であって、本質的にはフロイトが筋道をつけた経験の固有性に中心を置いている」ため、ラカンの議論をフォローするためには、当然、フロイトのテキストを参照する必要がある。今回ラカンが「一行一行」読むことをを指示するテキストは次の四つである。

※1 症例『狼男』
※2『快感原則の彼岸』第五章
※3『夢判断』第七章
※4『欲動とその運命』

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