宇波彰現代哲学研究所

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松本卓也「人はみな妄想する」について

ラカンとガタリの着想の親近性

『現代思想』6月号(特集フェリックス・ガタリ)掲載の松本卓也氏の「人はみな妄想する-ガタリと後期ラカンについてのエチュード」は、僕にとっては待望していた、画期的な論文、僕自身、ラカンとガタリの着想の親近性(ガタリは滅茶苦茶ラカンの影響を受けており、発想、概念構成自体がラカンの嫡子という印象すら受けていた)をもう少し読み取るべきだと思っていたので、かなりスッキリしたところがあり、まさに体内に詰まっていた「残糞」を一気に吐き出してくれた感じであります。

このように論じる論者は少なくとも日本の「ドゥルーズ・ガタリ派(研究者)」にはほとんどいなかった。今さらいっても仕方がないけれども、ラカンとの「精神療法」の捉えかたの親近性(及び差異)を検討することなくガタリを語っても、ガタリの「実践者」、「運動家」としての実像には迫れない。また、この論文でドゥルーズ・ガタリの『アンチ・オイディプス』のあまりに「品の悪い」精神分析批判(それに基く資本制批判)に基いた、これまでの歪んだ理解はだいぶ矯正されるでしょう。

松本論文は、ラカンの発言の含意-とりわけ70年代ラカン-を的確におさえることで、ガタリの問題意識の優れたところを見事に引き出してくれています。次の指摘などはその白眉でしょう。「60年代のラカン理論では、対象aは自由の機能を担う「分離」と関わっていたが、そこで得られる自由は、「自由か死か」のどちらかを選ばされた際に、自分が自由であることを示すために死を選ぶような強制的な選択(疎外)という不自由性を前提とした括弧つきの自由であった。いわば、対象aは因果性の安全装置の役割を担っていたのである。一方、ガタリの機械-対象aは、因果性のなかの爆弾であり、そのような自由とはまったく異なる自由をもたらす。機械の本質は「因果性の切断としての一つのシニフィアンが離脱すること」であると述べている。つまりガタリは、因果性を切断する機能を機械-対象aの中に読み込んでいるのだ」(P116、著者の傍点省略)、並びに「ガタリは、意味作用を生産するようなプラス方向の解釈とは反対に、数学において用いられるような無意味性を特徴とする記号を重視する(記:まさに『分裂分析的地図作成法』はその典型である)。つまり、患者の語りの意味作用を支えていたシニフィアンを削り取り、「記号を墓から「掘り起こす」ことを目指すのである。すなわち、スキゾ分析は精神分析の解釈とは反対に、意味作用をマイナスの方向に向かわせる。後に、ガタリはこの方向性を非シニフィアン的記号論と名づけ、現実界を取り扱うことが可能な理論として位置づけている」(P120、著者の傍点省略)という論述は全てを言い当てている。対象a をめぐる両者の、理解の同質性(差異)の指摘により、ガタリが特異性の臨床-集団的アジャンスマンを強調する意味合いがそこからよく見えてくる。また、松本論文で、オイディプス的な主体の問題を過度に強調する旧来のラカン認識には抵抗感を覚えていた僕にはその点でもスッキリしたところがあり、両者のつながるところがよくわかった感じです。

「ひとはみな精神病である」(ラカン)という本論文の紹介は、「分析家とは一体何ぞや」という、去る5月4日-5日の第三回ラカン読書会での古川さんの突っ込みに対する、特別ゲスト・向井雅明さんの応答と見事に符号しています。この論文が、旧来の「ラカン派」と「ドゥルーズ・ガタリ派」の不毛な垣根を取っ払ってくれた感じで、後者の旧来の論者に、もう少しきちんとした勉強の刺激剤になることを願っています。

なお、ラカンとガタリの着想の親近性という点では、同上の対談「分裂分析哲学-ガタリは何を解放したのか」の中の千葉雅也さんの、江川隆男さんに対する問いかけ、応答に、松本論文と通底するシンパシーを覚えたことを記しておきます。

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