宇波彰現代哲学研究所

多種多様な「知」の交流を通じ文化創造との実践的な橋渡しをめざし、新たな学問分野の開拓を行う研究機関のブログです。

モランに誘われて

若いときに、フランスの思想家・社会学者エドガール・モラン(1925~)の仕事に関心を持ち、法政大学出版局から『プロデメの変貌』(1975年)、『自己批評』(1976年)、『時代精神Ⅰ、Ⅱ』(1979年、1982年)などの翻訳を刊行した。『プロデメの変貌』は、モランがブルターニュ半島の半農半漁の町(コミューン)に長期にわたって滞在し、その町がしだいに変化して状況を分析した名著である。ブルターニュ半島はケルト文化が残っていて、ことばにもケルト系のものがあり、この本には普通のフランス語の辞典には載っていないことばがあった。そのころたまたまブルターニュに旅行するという友人の調佳智雄(しらべ・かちお)さんに頼んで、ブルターニュ語の意味を現地の人に尋ねてもらったりした。すると調さんは、モランが実際に調査した町がプロデメではなく、プロゼベであることさえ教えてくれた。そして『プロデメの変貌』に載っている写真と同じ情景の写真を撮ってきてくれた。(現在この本の原書は『プロゼベの変貌』というタイトルになっている。)私がその後、ケルトのことに関心を持つようになり、ヴェネチアの大運河沿いにあるパラッツオ・グラッシ(イタリアの自動車メーカーであるフィアットが運営しているが、日本の企業が母胎となる美術館と違ってその会社名はほとんど見えない)で開かれていた「大ケルト展」を見に行ったりしたのもモランのこの著作から始まっている。(会場で買ったそのカタログはいまでもとても役に立つし、同時に求めたビデオも面白いものである。)ゴーギャンの描くブルターニュの女性たちはコアフという白い帽子をかぶっている。そのコアフが、地域によって少しずつ違っていることも知ることができた。つまりケルトに関する私の関心はモランから始まっている。そのほかにも、モランは主なもののように見える潮流の底に、かならずそれとは反対の方向に動いている逆の流れがあるのであり、それを無視してはならないことも教えてくれた。
『プロデメの変貌』は、けっして「アンケート調査」に頼ってはいない。モランがその土地のひとたちと直接に交わした対話が基礎になっている。つまりモランはこの著作で、「数」を重視するアンケート調査というものを否定している。あくまでも生きている人間と直接に話すことが、「調査」の基本であるというのがモランの立場であった。この本は、近代化の問題をブルターニュの町を舞台にして考察したものであり、非常に価値が高いと私は考えている。しかし、一向に売れず、刊行後30年たったいまでも初版が東京駅に近い八重洲ブックセンターの棚にある。それは「古本化した新本」であるともいえるだろう。
私はモランに二度会ったことがある。最初はホテルオークラのロビーで待ち合わせたが、『プロデメの変貌』の重要性を私が主張すると、彼は嬉しそうにうなずいた。二度目に会ったときは、ほかの邦訳者の方々といっしょであった。そのときモランは「生まれ変わったら日本人になりたい」といい、それは日本が黒沢明を生んだ国だからという。それ程モランは映画が好きであった。私が訳した『時代精神』も、『スター』(山崎正己、渡辺淳共訳、法政大学出版局、1976)も映画を中心に論じている。1960年代のアメリカ映画に「スター」がいなくなったという考えが示されている。「スターからタレントへ」というモランの見解は、映画の領域だけではなく、政治や学問の世界にも通用する。10年ほど前、私は塚原史氏に依頼されて早稲田大学法学部で教えていたが、その帰り道に大学近くの小さな古本屋の店先で、この『スター』の英訳を見つけて買った。新書版の小さな本であるが、原書にも邦訳にもないスターたちの写真が豊富に収められている。ベンヤミンは現代の複製技術による芸術にはアウラが消滅したといった。英訳の『スター』は、まだアウラを保っていた時代のスターたちの姿を見せてくれる。私は自慢できるような「古本」を持ってはいない。しかしこの『スター』英訳は大切な私の古本である。
完全に「モランに誘われて」というわけではないが、私がピエール・ブルデュー(1930~2002)に関心を持ってきたのも、モランと関連する。ブルデューは、若いときにアルジェリアにいて、彼がそのときの経験も踏まえて書いた著作のなかに『アルジェリアの社会学』(クセジュ文庫)があるが、残念ながらまだ訳されていない。(以前からアルジェリアに行きたいと思って参考文献を集めてきたが、そのうちの一冊である。しかしどうも治安が悪く、まだ行く機会がない。)最近、藤原書店から刊行された『結婚戦略』は、南フランスのコミューン(共同体)におけるフィールドワークと、法制史などの理論的方法とを重ね合わせて、現代の農村の変化を論じたもので、モランの『プロデメの変貌』と共通する問題意識がある。モランのこの著作の原タイトルは「フランスのコミューン」であるからである。『結婚戦略』については、また詳しく論じたいが、ここにもモランの誘惑があるといえる。
 
中山公男『絵の前に立って』(岩波ジュニア新書、1980年)は、すでに絶版になっているが、私はこの本を澄川駅(札幌の地下鉄の駅)近くのセカンズという古本屋で買った。このなかで中山さんは、すぐれた画家の眼は、普通の人の眼には見えないものを見る力を持っている、だからすぐれた絵画作品を見ることは、世界を別の視点から見ることになるのだと説いている。私は中山さんと10年ばかり同じ大学で教えていて、しかも同じ曜日に講義をしていたので、いつもこの美術史の大家からいろいろなことを教えられた。講義の曜日と時間が同じだったので、学生たちを連れていっしょに美術館に見学に行く機会もしばしばあった。これはと思われる作品の前に来ると、中山さんの眼が急にキラキラと輝くことに気付いた。(美しい女性を見る眼にも輝きがあった。)『絵の前に立って』は、日本の美術館にあるヨーロッパの絵画をテーマにしている。同じ絵画でも中山さんの眼で見た絵画は、普通の人の眼で見るものとは違っている。最近私は、『デリダとラカン』などの著作のあるルネ・マジョールというフランス人が、「ラカンによってフロイトを読む」(lire Freud depuis Lacan)という方法を実践していることを知った。ラカンの眼でフロイトを読むと、今までのフロイトとは異なったフロイトが浮かび上がって来るということである。いま私は、ラカンの眼を借りてフロイトを読み直しているところである。また昨年(2007年)は、ヘーゲルの『精神現象学』刊行後200年にあたり、社会評論社から、それを記念する論文集がでるはずであった。私はその論文集に参加するように求められて、70枚近い長文の論文を書いたが、いろいろな都合でその論文集は、予定より遅れて2008年2月末に刊行されると聞いている。私の書いた論文のタイトルは「コジェーヴからヘーゲルへ」である。つまり、現代思想に大きな影響を与えてというヘーゲルの思想が、実はコジェーヴの解釈するヘーゲルではなかったかという論旨である。現代の思想家たちは、コジェーヴの眼を借りてヘーゲルを読んできたのではないか。

(付記。本稿は2007年11月に刊行された「アフンルパル通信」3号に掲載された拙稿に大幅な訂正・加筆を行ったものである。この雑誌は、札幌で古本屋を営む吉成秀夫氏が刊行しているものである。執筆者には、今福龍太、吉増剛造、管啓次郎といった錚々たるメンバーが名を連ねている。詳しくは、このブログにリンクしている「書肆吉成」にアクセスしていただきたい。2008年1月28日。)

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