宇波彰現代哲学研究所

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認知言語学を巡るいくつかの問題

 哲学者の野矢茂樹氏と言語学者の西村義樹氏の対談集である『言語学の教室:哲学者と学ぶ認知言語学』が6月末に中央公論社から新書として発刊された。認知言語学の入門書としても、哲学者と言語学者との言語に対する認識の違いを理解するためにも、本書が大いに役立つものであることは疑い得ない。こうした視点からの書評はこれから数多く行われるであろう。それゆえ、ここではあえて言語学を僅かばかり学んだことがある者として、西村氏の述べているいくつかの言語学的問題点を指摘しながら、この本について語っていくことにする。

1.認知言語学について
認知言語学という言葉が日本において度々話題にのぼるようになったのは1990年頃からであろう。しかしながら認知科学という側面から語られることは殆どなかったが、20世紀の初頭、さまざまな学問分野で話題とされていたゲシュタルト心理学も、現在においては認知科学の代表的学問として位置づけられている。
ところで、「認知」という語をどのように定義づけるかという問いに対して厳密に答えることは極めて困難であるが、ここでは「ある対象に対する了解パターン
または「物事の知的な捉え方に係わる思考パターン
というように考えていきたい。たとえば、われわれ人間が何かを見つめるとき、われわれはただ漠然とその対象を見つめているのではなく、何らかの規則性に沿ってそれを見つめており、その規則性を解明するものが認知科学であり、その中にあって言語認識問題を主要探究分野とする学問が認知言語学であると述べ得る。
このように考えるならば、チョムスキーの生成文法の持つ文法中心主義への批判から認知言語学が生まれたと西村氏は語っているが、それは言語研究の歴史を単純化し過ぎていると言えるだろう。西村氏が認知言語学特有の課題として指摘している多義性、プロトタイプ、メタファーとメトニミーなどの問題も、ヨーロッパにおいてロシア・フォルマリスト、グループμ、バルトやエーコなどの記号学者、デュクロやキュリオリなどの語用論問題を詳しく考察している言語学者によっても研究されていた (西村氏が高く評価している佐藤信夫の文体論もこうした理論を背景にしていた)。アメリカだけに目を向けても、ヤコブソンの言語理論やパースの記号論の中で、こうした問題性ときわめて親近性の高い探究課題が研究されていた。それゆえ、こうした言語研究を考慮しない発言には疑問を抱かざるを得ない。それだけではなく、この単純化は認知言語学の可能性をも狭い枠組みの中に閉じ込める危険性を孕むものである。この問題点の確認を行った上で、具体的な考察に移っていこう。

2.認知モデル理論
 一般的に言って、認知言語学は生成文法理論左派のレイコフによって始められ、ラネカーが発展させた言語理論として認識されている。それゆえ、生成文法との類縁性と差異とがしばしば話題となるが、意味論を中心とした認知言語学はチョムスキー理論よりもはるかに前述した言語学者や哲学者の考え方と強い連関性を示すものである。
しかしもちろん、言葉の意味をどう捉えるかという点で、認知言語学独自の視点は存在している。その典型的なものがラネカーの参照点 (reference point) 理論やフォコニエのメンタル・スペース (mental spaces) 理論などに代表されるフレーム理論であり、典型とされるものの範疇が示され、その枠内での対象の位置への焦点化が問題とされる点に特色がある。
たとえば参照点理論において「鍋が煮える」という文は、語り手が、まず « 鍋 » というものの枠組みを設定し、さらに、その中に入れられている何かに焦点があてられることによって成り立つ文であるとされる。また、メンタル・スペース理論において、「ハンバーグステーキが逃げた
という文は、« ハンバーグステーキ » がトリガーとなって « それを注文した客 » がコネクターの « が » を通してターゲット (実際に焦点化された対象) として意味構築が行われると考えるのである。
どちらの理論においても言語に関する知識だけではなく、百科事典的な知識 (共通知) がなければ、前述したような文は理解されない。だが、共通知は簡単に一般化できるものであろうか、またそのレベルは果たして一つだけであろうかという疑問が沸いてくる。「彼女は太陽だ」という意味の文が日本語とアラビア語で語られたとしても、日本人が語った場合とアラビア人が語った場合で、同じ焦点化やトリガーの提示が行われたとしても、その対象となるものが大きく異なる。日本人にとって「太陽」は肯定的な意味が付与された対象であるのに対して、アラビア人においては否定的な意味が付与されている対象だからである。ここにはサピア・ウォーフの仮説 (Sapir-Whorf hypothesis) に関係する問題やスイスの論理学者のグリーズが述べている文化的前構成体 (préconstruit culturel) の問題が存在している。

3. 静態的言語研究の問題点
 野矢氏はこれらの問題と深く関連する鋭い発言を何度も行っている。「「犬」のプロトタイプと「走る」のプロトタイプを組み合わせても、「犬が走る」のプロトタイプにはならないわけですね。認知言語学では、こういう話はあまりされていないのですか?
(a)、「そうか。けっきょく西村さんのお気に入りの事例というのは、一方向性がなくて、参照点理論ではうまく扱えない、自分の考え方に有利な例、ということだったんだ
(b)、「いずれにせよ、いわば機械の仕掛けを解明するようかのような、「工学的」と言ってもいいと思うのですが、そういう発想で言語学をやっている。そういうことはないですか?
(c) といった発言から近代言語学の問題点が浮かび上がってくる。
 認知言語学によってソシュール理論やチョムスキー理論が乗り越えられたように西村氏は語っているが、実際にはそうなってはいない側面が存在している。今引用した野矢氏の発言などによってその側面がはっきりと浮き彫りにされていると述べ得る。
まず (a) は、認知言語学が主張するプロトタイプが語彙的枠組みでの意味論に執着しているのではないかという批判である。意味の問題は語のレベルと文のレベルと文の連鎖のレベルでは、レベルが異なっている。語のレベルでのプロトタイプをいくら足しても文のレベルのプロトタイプを導くことはできない。もちろん、文のレベルのプロトタイプをいくら足しても文の連鎖のレベルでのプロトタイプを導き出すことも不可能である。プロトタイプ意味論を用いる場合、こうしたレベルごとの差異が軽視されている点は大きな問題となる。
 次に、一見すると冗談にも受け取れる (b) の指摘も重要である。なぜなら、ある理論を正当化するために何らかの文を例示する場合、客観的・中立的という学的態度は維持されなければならない。それにも係わらず、野矢氏はそのルールが言語学の研究において、しばしば破られてはいないかという疑問を投げかけているのだ。確かにこのような疑問を抱かせるような研究は数多く見られる。認知言語学の分野だけでなく、英語学でも、フランス語学でも、日本語学でも、他の言語に関する研究においても、自らが唱える説明原理を優先するために不都合な例文は意識的に取り扱わないという姿勢の言語学者の数は僅かではないのだ。この事実は1で述べた西村氏の極端に切り詰められた言語学史の提示とも関係しているのではないだろうか。いずれにせよ、「はじめに説明原理あり」という学的態度には疑問を抱かざるを得ない。
 最後の (c) は、言語学の基盤に関係する大問題である。言語学の対象を言語体系としてのラングのみに限定することが近代言語学研究の大前提であった。その体系は秩序正しく組み立てられた構築物として存在するものと仮定されている。それゆえ、自然科学的モデルに沿って (野矢氏は工学的と述べているが) 探究可能なものであり、そうした考察が言語学にとって最も重要なものであった。しかしながらラングの分析を行なうために、言語が変化態である事実や言語を用いる語る主体といった事象は宙づりにされてしまう。この問題をどのように解決するのかを考えることこそが現代言語学の課題であると言うことができる。

4. ラングの言語学からランガージュの言語学へ
 野矢氏は語の意味が百科事典的に決定するだけではなく、その語が持つ物語性によって決定する点にも注目しながら、言語における創造性の問題について述べている。この点に注目したのは野矢氏が初めてではなく、この本で心理学者はチョムスキー派のピンカーだけしか紹介されていないが、チョムスキー理論の影響も受けつつ言語習得問題を多角的に考察しているブルーナーもこうした事象について多数の分析を行っている一人である。
 さらに、ブルーナーは創造性という問題と関連させながら他者の問題についても、別の言い方をするならば、対話問題についても言及している。この対談集では対話についてはまったく触れられていないが、バフチン理論やバンヴェニスト理論を出すまでもなく、われわれの言語行為はその係わり方はさまざまなものであるが、他者の言語と係わっている。この問題を語ることなく、言語の創造性や語の変遷をいくら語っても、最終的には「機械の仕掛けを解明する」ようになってしまうのではないだろうか。
言語学という学問において対話について語ることは、ラングの言語学からランガージュの言語学へとパラダイムシフトすることである。このパラダイムシフトはすでに行われている。たとえばフランスにおいて、マルティネの機能主義言語学に属しながらも、バフチン、ブルーナーの影響を受けたフランソワは対話研究による言語学研究を発展させている。認知言語学の中にもこうした新たな展開へと向かう流れが生まれ、学的にさらによく発展していくことを大いに期待してこの書評を終えたいと思う。 

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認知言語学の欠陥

 野矢氏の指摘には鋭いものがあります。
 本質的には次の問題があります。

1.認知科学が情報理論をベースにしているため機械論とな っています。

2.ランガージュこそが本来の言語でありラングは規範であ る点を掴めないのはソシュール理論の欠陥を引き継いでいます。

3.意味の理解が漠然としており、話者と聞き手の頭の中に
 あると考えているため混乱しています。

4.このため話者の認識と対象が切り落とされ、環境や社会 等の夾雑物が意味の中に紛れ込んでいます。

5.結局、言語表現の過程的構造を捕まえることが出来てい ません。

唯一の利点は、形式的にせよ話者の主体性を考慮する必要を考えたということでしょう。

 時枝―三浦つとむ による言語過程説が現状ではもっとも科学的言語論というべきです。

横山 一郎 | URL | 2013年11月05日(Tue)22:47 [EDIT]