宇波彰現代哲学研究所

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丹下健三-----その切断と連続----

建築論において重要なものは、建築をどのようなかたちや構造にするかという「コンセプト」よりも、建築そのものを成り立たせている思想(イデー)であるという視点に立つとき、丹下健三の建築には、「切断」よりもむしろ、「連続」が強く感知される。
「ミケランジェロ頌」にみられる壮大な世界、世界史への憧憬は、あるときは「大東亜共栄圏」、「バブル型日本経済」と形を変え、丹下健三の「イデー」を成している。そして平和のためのモニュメントさえ、「大東亜共栄圏」のイデーとコンセプトを引き継いでいるのである。(「建築ジャーナル」編集部)


「ミケランジェロ頌」から「東京都新庁舎」まで
 
藤森照信は、歴史家の視点から丹下健三の仕事を見るならば、それを初期・盛期・晩期の三期に分けることができ、それぞれの代表的な建築作品が、広島平和会館・国立屋内総合競技場・東京都新庁舎であるとしている(「新建築」1991年5月号、「<政治の表現>としての新庁舎」)。しかし私は、藤森照信とは異なって、次のような三区分を提示したい。それは、ル・コルビュジェの圧倒的な影響下にあった戦前の第一期、太平洋戦争下の第二期、そして戦後の第三期である。そして私は、この三つの時期のそれぞれの代表作は、「メケランジェロ頌」、「大東亜建設記念営造計画」、「東京都新庁舎」であると考える。「ミケランジェロ頌」は建築作品ではなく、「大東亜建設記念営造計画」は設計プランにほかならず、具体的な建築作品は第三期においてのみ存在することになる。しかし私は、この建築家の思想と行動を考えるためには、この区分のほうが有効であると考える。以前から私は、建築論において重要なものは、建築をどのようなかたちや構造にするのかという「コンセプト」よりも、建築そのものを成り立たせている建築家の思想(イデー)であると考えてきたし、機会があればそのことを発言してきた。その意味で、「ミケランジェロ頌」は、建築家としての丹下健三のイデーの出発点を示すものであり、「大東亜建設記念営造計画」は、この出発点から丹下健三がどのように自分の建築を方向づけようとしたか.を示すものであり、「東京都新庁舎」は現代の情報社会にどのように対応する建築をつくろうとしたのかを理解させる作品と考えられる。私が丹下健三の仕事を三期に分けるのは、このような意味においてである。
丹下健三の建築を三期に区別するとき、私はこの三つの時期が相互に切断されていると同時に連続もしていることを強く感知する。「ミケランジェロ頌」において示されたル・コルビュジェに対する傾倒の意識は、第三期においてかたちを変えて復活する。第二期において意識されていた日本的なものへの回帰は、広島平和会館をへて、かすかにではあるが、おそらく東京新庁舎へとつながっている。与えられた紙数は多くはないが、私はそのような切断と連続について考えてみたい。

「第一期」----戦前・壮大なものへの憧憬

1939年に発表された「.ミケランジェロ頌」は、今日の建築家の一部に忠実に受け継がれている、いわゆる「美文」で書かれている。「それは静謐なる歴史の時刻であった。どこか、醒めた自我の内に、歴史の尖端の炎は燃えた。その時、歴史は究極の、貴重なる一歩を上昇した」。全体が建築の世界に特有のこの調子で書かれている。そのため、丹下健三が何を言おうとしているのか、なかなか把握しにくい。しかし基本的には、「幾何学の氷の殿堂」を破壊するものとしてのミケランジェロという問題設定であり、その破壊の原理がパトスである。「創造の根底には大いなるパトスがある」からである。丹下健三は、同時代のイタリアの建築・美術が、「頽廃せる幾何学に凍結」してしまい、北ヨーロッパにはアアルトがいるにもかかわらず、その建築が「造形からの逸落の淵にさえ臨んでいる」として、ル・コルビュジュただひとりを「無限の進路を開きつつ、造形の公道を歩む」建築家として評価するそしてル・コルビュジェとミケランジェロが結合されることになる。ミケランジェロにとっては、ローマのコロセウム、バジリカ、カラカラ帝の大浴場の「壮大」が魅力であったと丹下健三は考える。そしてサンピエトロ寺院のドームを凝視することを求める。「それは伝統的存在ミケランジェロをはるかに超えて立っているかに見える」からである。これはミケランジェロに対する崇敬の念の表現であるが、ミエランジェロを超えた壮大なものへの憧憬の表現である。
また「ミケランジェロ頌」のなかで丹下健三はミケランジェロについて次のように書いている。「彼は一切の歴史の負荷を背負いつつ、それ故に-----未来の空虚な暗に向かって----世界からの衝動に促され、世界史の深く傾向的なものを身に受けねばならない。かくて彼は、未来と、過去を、現在の一点に賭けて決断へと強いられるのである」。丹下健三の仕事の軌跡をたどっていくと、彼がミケランジェロにおいて発見したこのような芸術家の理念が、彼自身のやり方で表現されていくのを見ることができる。「世界からの衝動」、そして「世界史の深く傾向的なもの」というときの、「世界」「世界史」をどのように理解するかが問題である。丹下健三にとって、それらが「大東亜共栄圏」、あるいは「バブル型日本経済」ではなかったかという疑いを私は捨てることができない。


「第二期」----戦中・神聖なるかたち

すでによく知られているように、丹下健三は1942年に「大東亜建設造営計画」をつくったが、そのときに書かれた「忠霊神域計画主旨」のなかで次のように書いている。「国土を離れ自然を失ってひたすら上昇せんとするかたち、抽象物、人類的な支配意思の表象として、のかたち、エジプトの文化に、中世のキリスト文化に、そのかたちが作られ、それはついに英米の全権的支配の欲望にそのかたちをあたえた」。エジプトから始まる欧米の建築は「上昇する形、人を威圧する塊量」にほかならず、それは「神国日本」とは無関係なものである。「ピラミッドをいや高く築き上げることなく、我々は大地をくぎり、聖なる埴輪をもって境さだめられた墳墓のかたちを以って。一すじの聖なる縄で囲むことによって、すでに自然そのものが神聖なるかたちとして受け取られた」(「建築雑誌」1942年9月号)。エジプト・ヨーロッパの建築物が大地を離れた上昇志向によって、あるいはパシュラール的にいえば、「空のコンプレックス」に支えられてつくられているのに対して、丹下健三は「一すじの縄で囲むことによって」聖域をつくるという日本的な発想、あるいは「大地のコンプレックス」を基本としたいといっているのである。実際、この「大東亜建設記念営造計画」では、高い建物は一切排除されている。その根底では、「大地のコンプレックス」が支配的である。私が丹下健三の建築に第二期と呼ぶ時期の特徴は、このような日本的・大地的・聖域的な発想である。
この二期に考えられていたもう一つの重要な作品が「バンコク日本文化会館」である。これも実際には作られることがなかった作品であるが、しかし私は第二期を象徴する重要な作品であると考える。その「計画主旨」において、丹下健三は「欧米の固体構成的な建築」では、日本的な「礼・格・.ゆかしさ」が表現できないとし、「わが国の環境秩序的なる造営」の優位を説く。その設計プランを検討してみると、ゆったりした敷地のなかに建てられる、神社建築風の、2階までの低い構築であり、「一すじの縄で囲むことによって」聖域をつくるという「大東亜建設記念造営計画」のイデーがそのまま使われていることが察知される。このイデー、あるいはむしろコンセプトは、いくぶんかたちを変えて、「広島平和会館」、そして最近の作品である「日光東照宮 客殿・社務所」へと引き継がれていく。大東亜共栄圏のためのモニュメントが、類似したコンセプトによっていることに対して、われわれはもっと批判的であっていいのではないだろうか。


「第三期」----戦後・さらなる「聖域」づくり

国立屋内総合競技場を含めた戦後の丹下健三の建築をすべて「第三期」の作品として総括することには、かなりの批判もあるだろう。戦後50年をひとまとめしてしまうのは、無理があるかもしれない。しかし私は戦後の丹下健三の作品の共通の特徴は、彼が戦時中に否定した「ピラミッドをいや高く築きあげる」建築、「ひたすら上昇せんとするかたち」であると考える。もちろんそれは「情報化時代の建築と都市のあり方を模索し続けている」(「SD」1995年9月号)結果であり、また考えようによっては、一すじの縄で囲むことによってではなく、高層の建築によって聖域をつくろうとしているのかもしれない。その意味では、この第三期の建築は、第二期の考え方を何らかの意味で受け継いでいると見ることも可能である。藤森照信が丹下健三の盛期の建築としてあげている「国立屋内総合競技場」も、晩期の作品とする「東京都新庁舎」も、少なくともそのかたちを見るかぎり、高いところへとつねに上昇しようとする「空のコンプレックス」に支えられた作品であり、第二期において自分自身が否定した「上昇する形、威圧する塊量」そのものである。
丹下健三は、東京都新庁舎について、「この建物は、日本が経済的に余裕があり、その勢いで新庁舎にも余裕があったので、平均並みの予算を取りました」と述べている(「新建築」1991年5月号所蔵「建築の長寿を考える時代」)。経済的に余裕のある状況が、ここでは「世界からの衝動」として機能している。このように考えるとき、私が区分した三つの時期は、決してばらばらに存在しているものではないことがわかってくる。切断と連続が交互に浸透して存在している。
率直に言って私は、丹下健三の第三期の建築にはほとんど関心がない。しかし、あらゆる意味で、丹下健三は日本の建築の代表的な存在であり、日本の建築、あるいはもっと広く日本の芸術・文化の問題を考えるとき、丹下健三の長年にわたる仕事が一つのモデルケースになっていることは確かである。彼の仕事の検討は、われわれ自身の自己批判の作業と重なるはずである。その意味でも、彼の仕事の背後にあるイデーとコンセプトの分析はさらになされなければならないであろう。

(付記。本稿は「建築ジャーナル」1995年12月号に掲載されたものである。訂正・補筆は行なっていない。このブログにすでにアップしてある東京都新庁舎についての拙論の前提にもなるものである。 2008年1月28日)

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