宇波彰現代哲学研究所

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河野一紀『ことばと知に基づいた臨床実践 ラカン派精神分析の展望』(創元社、2014)について

 本書は、フロイト、ラカンの精神分析理論についての深い認識に基づき、心理療法士としての実践的経験を生かして書かれた画期的な著作である。タイトルは「ことばと知に基づいた臨床実践」であるが、ここでいわれている「ことばと知」は、「ことばと知についての考え方」のことである。
 それでは、まず「ことば」はどういうものとして考えられているのか。著者は、フロイトが「見ること」ではなく、「聴くこと」から精神分析を始めたことに注目する(p.225)。眼に見えるものではなく、話され、聴かれる「ことば」を中心に考えるのが精神分析の出発点だという認識である。
 その「ことば」についての著者の基本的な立場は、「ことばの力を意味という効果へと還元してしまうことは決してできない」(p.14)という主張によって明確に示されている。通常われわれは、ことばには「意味」があると考えているが、著者はまずそのような「常識」を否定する。「話すことを、あらかじめ想定された何らかの意味や効果に還元してしまうのではなく、切断や跳躍をもたらしうる偶有性を秘めた行為として考えるのである。」(p.15) あえていえば、ことばには意味がないこともありうるということである。
 著者は、その少しあとのところで、「発話をそれに先行する発話者の意図に還元することなく・・・」(p.69)と書いている。発話者の意図が、ことばによって表現されるという通常の言語の働きが否定されている。これは、「シニフィアンの優位」、あるいは「シニフィアンがシニフィエを産む」というラカンの思想の展開である。
 このようなラカンの言語理論を著者はドナルド・デイヴィドソンの言語理論と重ねて考察する。デイヴヴィドソンの考えの骨子は、「我々が経験する個々の発話において生じるその都度の理解こそが、コミュニケーションの本質をなしている」(p.61)というところにある。これは、シニフィアンとシニフィエの関係を固定させない考え方であり、両者の関係を固定させている事前理論(prior theory)に対立する当座理論(passinng theory)である。この当座理論と、すでに引用した、ことばを「切断と跳躍をもたらしうる偶有性を秘めた行為」とする立場とはつながっている。
 著者は「その都度の理解」を重視しするこのような言語理論を、かつて中村雄二郎が提示した「臨床の知」と結びつける。「臨床の知」は、「個々の場所や時間のなかで、対象の多義性を十分考慮に入れながら、それとの交流のなかで事象をとらえる方法」(p.123)と規定されている。これが、精神分析の方法と結びつけて考えられ、また実践されることになる。
 この「臨床の知」の概念に基づく臨床実践は、具体的には、発達障害・自閉症に関してなされる。しかし著者は狭い意味での臨床実践の領域に閉じこもるのではない。現代は「ポスト神経症」の時代であり、「神経症の減少と発達障害の増加」がその特徴のひとつである(p.169)。現代社会においては、「外的制約や抑制というかたちで法を個人に課すことがますます少なくなっている」(p.213)ことが、その一因であると著者は分析する。
 このように、広い視野を持ち、多くの文献を博捜して理論を組み立てていく著者の力量は並のものではない。本書には「ラカン派精神分析の展望」というサブタイトルが付されているが、最近の数多いラカン論のなかで、特に出色のものとして高く評価したい。(2014年4月12日)

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