宇波彰現代哲学研究所

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ラカン「無意識の位置」『エクリ』メモ

「無意識の位置」と題されたラカンの講演は、無意識の概念をめぐる混乱の根源には、「意識」の定義をまず与えた上で、その定義にあてはまらないものを無意識に配当するという考え方そのものにある、というところからは語り始められている。ラカンは、「黒色」という色の定義を例に出して、まず「黒色」の定義を与え、この定義にはずれる色を「黒ではない色」と定義するという方法の問題を指摘している。言うまでもなく、首尾よく黒色が定義できたとしても(レヴィ=ストロースが指摘しているように、色の概念は、文化によって異なるから、「黒色」一般の定義を、文化を越えて与えることは必ずしも容易なこととはいえないのだが)、そのことによって、黒から排除された黒ではない「何か」の存在を暗示することができるだけであって、これだけでは「黒ではない何か」が何であるのかを説明したことにはならなない。同様に、何らかの方法によって「意識」を定義できたとしても、この定義から外れる精神作用を「無意識」と呼ぶことにしかならず、無意識とは何なのかをめぐる議論に貢献できることは何もない。日本語の「意識」に関連して意識に含まれない概念を考えるとすれば、「無意識」以外にも、「前意識」のようにフロイトによって既に定義されているものだけでなく、「未意識」「非意識」「否意識」「被意識」「共意識」などなど様々な意識をめぐる「造語」がありうる。こうした意識にあらざる対象を指示する概念の「開発」は、言語の作用をふまえれば、決して軽視すべきではないし、検討に値する魅力的なことだが、それによって「無意識」の包囲網が緻密になりはしても、「無意識」それじたいを明らかにしたことにはならない。

 ここでラカンが批判の対象として念頭に置いているのは、デカルトやヘーゲルの「精神」や「意識」の理解、科学あるいは心理学が前提にする「精神」や「意識」の定義である。ラカンはデカルトのコギトに言及した後で、「科学にとっては、コギトは、反対に、直観によって条件づけられるあらゆる確かさを放棄する」と述べている。これは微妙な言い回しである。デカルトは「われわれの感覚がわれわれの心をときには欺くゆえに、私は、感覚がわれわれの心に描かせるようなものは何ものも存在しない、と想定」し、「ほんわずかでも疑いでもかけうるものはすべて、絶対に偽なるものとして投げすて、そうしたうえで、まったく疑いえない何ものか」として「私」を救い出す。ここでいう「私」とは、「一つの実体であって、その本質あるいは本性はただ、考えること以外の何ものもな」いという意味での「私」であり、この意味での精神が自己を自己たらしめるとした。しかし、ここでいう精神から、「私の精神に入りきたったすべてのものは、私の夢の幻想と同様に、真ならぬもの」として除外され、感覚ともども「偽なるものとして投げすて」られる。外部から来るいかなるものも真ではないというデカルトに対して、むしろラカンは外部あるいは他者なしには「私」は真にはなりえないとみるのだが、デカルトの言う「真」とラカンの言う「真」には共通性はなにもない。言い換えればデカルトの「私」とラカンの「私」の間に共通しているのは、シニフィアンとしての「私」だけである。これは、デカルトにとっては許しがたいことだろうが、ラカンにとっては、これこそが「私」の本質(このような概念をラカンは嫌うだろうが)なのである。(注:デカルト『方法序説』、野田又男訳、中央公論社、世界の名著、p.188l)
しかし、ラカンは、デカルトやヘーゲルが理想とした人間の意識のありようとは逆に、精神の現実のなかで意識の配分のされ方は、デカルトならば本来あるべきだと言うかもしれないようなレベルとは異なるレベルに見い出せたり(異所性)、一貫性が見い出せなかったりすることが当たり前のことであるとみなし、これをを重視する。こうしたまとまりのなさのなかで、唯一まとまりがあるかに見えるのが「自我」だが、このような一貫性としての「自我」もまた、鏡を通して得られたイメージに
よって捉えられた錯認にすぎない。
心理学が果している機能は、この現実にある意識の一貫性のなさ、あるいは異所性こそが意識のありようそのものであるのに対して、このようにして存在する「私」が抱えこむ精神的な問題を、同質的で一貫性をもっているかのように「意識」させることを通じて、「私」なるものを現実に適応させるものだ。
心理学は、市場の原理(ビジネス)あるいは消費主義的な意識に寄与するような人格の再構築に寄与するものでしかなく、これを可能にしているのがアカデミズムの権威であるとラカンは指摘している。だから心理学的な「無意識」の概念は、イデオロギーにしかならず、むしろ無意識をめぐる根源的な思想的な営為に敵対するものだとみる。
支配的な心理学では、現存の世界の支配秩序によりそう体制科学であるために、心理学が想定する正しい精神を攪乱し偽の罠に落しいれる要因は、この心理学が偽なるものとして打ち捨てたあれやこれやのがらくたのせいなのだ、という暗黙の枠組を前提している。精神における正しさの基準を、いかに錯乱の中にあろうとも現実の世界に沿って与えようとするのが、支配的な科学の立場だが、まさに心理学はこのような罠に嵌っている。これがラカンが批判してやまない心理学の本質的な限界だということになる。
ラカンにおいては、フロイトを継承して、「精神分析家は無意識の概念の部分であり、その一画をなす」のだが、その理由は、無意識は、分析主体が分析家に差し向ける言葉から構成される以外にないからだ。分析主体の無意識には、分析家と分析主体との間のディスクールが含まざるをえないし、このようなディスクールなしには無意識が「無意識」と呼びうるものとしてその存在を自覚化される(分析家によって、そして多分、分析主体によって、しかしこの両者が了解する無意識の意味するところが同じであるとは限らない)ことはないからだ。

*無意識と本能
言語を欠いた動物にも本能はあるが、無意識はない。無意識は言語活動と不可分である。分析経験のなかで語ることは影響を受けるが、隠喩と換喩がもたらす効果によって、ことがらを明確に表明することが回避される。分析経験を通じて表出された言葉を介して、無意識が構成されたものとなる。もし、そうだとすれば、このようにして無意識が言葉となって語られる(隠喩や換喩によるあいまいで不明確な内容として)ということは、それ自体が発話の影響あるいは結果ということなのか。このような発話の契機の背後に、発話を捨象しても存在する無意識と呼びうる何ものかが存在しうるのだろうか。ラカンは、こうした発話として現われる言語を捨象してなおそこに存在するような何ものか(無意識)はないと考えている。
ソシュールをふまえて、言語の効果は、共時態と通時態によって構成される主体に基礎づけを与えることになるとすれば、このことは、主体と大文字の他者との間の分離が形成されるのがまさに、このような言語効果の場であるということでもある。言語は無意識をそれ自体として指し示すことはできないが、無意識は、言語なしにはその存在を私たち(分析者)に示すこともない。同時に、私が語ること、私に語られることとは、他者との分離であり、他者を通して主体が構築されるかのように「私」には了解される過程でもある。これは、とりあえず「私」と呼びうるアイデンティティを形成するが、だからといって、曖昧模糊としてとりとめのない首尾一貫しない説明のしようのない何ものかとしての性質が「私」として統一され凝固した自我を形成することになるわけではない。いや、そのような自我を直観することはありうるし、それこそが、ほとんど多くの「正常」な人々が実感する「私」であるのだろうが、ラカンは、そのような「私」こそが疑うべきものであり、擬制でしかないということを、虚偽意識だとか騙しだとか錯認だとかということではなく、批判に晒そうとしている。
支配的な心理学や精神医学は、むしろ、統一された自我を理想的かつ可能な人間のありかたとして設定し、このような自我を再構築することを目指すとすれば、そのような「科学」こそがむしろ欺瞞であり、不可解で理解を越えるところにある人間を拒否するものだとみている。多分、ラカンにとって、この世界あるいは現実界こそが錯乱の極みであり、これを秩序だった「世界」として見せることとの間にある深淵に自覚的な少数者こそが、分析の主体なのだと言いたいのかもしれない。

*無意識と欲望
無意識に関するもうひとつの重要な問題は、欲望の問題である。ラカンは次のように述べている。
「この第二の偽証教唆は主体のトポロジーを投影することによって第一の効果をつかの間のファンタジーに閉じこめる。つまり、欲望の主体が発話の結果を実現することを許さずに、封印する。言い換えれば、彼がどのような存在なのか他者の欲望を別にして実現することを許さず、これを封印するのである。
これが、なぜ、いかなるディスクールも、ディスクールそのものとしてはその結果に責任を負わないと考えるのかの理由なのである。いかなるディスクールも、教師が精神分析家に語りかける場合を別にして、そうなのである。」
言葉は、欲望をファンタジーのなかに閉じこめる。主体がもつ欲望がどのようなものなのかは、それ自体として明らかではないが、「どのような欲望を持つべきか」「どのような欲望は持つべきではないのか」という欲望をめぐる倫理は、主体によってではなく、分析者とのディスクールのなかで、言葉を介して、主体のなかで構築される。この意味で、主体の欲望は分析者の欲望と不可分である。しかし、こうした欲望は、隠喩と換喩のなかで、はぐらかされあいまいで不明瞭であったり断片的であったりするものとしてしか語られないかもしれない。このようなデイスクールから分析者は、主体の欲望を構築するともいえる。この意味で、主体の無意識の欲望は、分析者を媒介にして、分析者による介入を通じて、言語的な自覚のレベルを獲得するが、このことは、あらかじめ存在するが自覚化されない欲望の自覚化ではなく、言語化されることと同時にそこにおいて生成される欲望である。
もしそうであるとすれば、唯一、分析者は、このような他者と自己の欲望を超越して、その両者を己れの認識の下に統御できる存在なのだろうか。多分そうではなくて、分析者はまた、主体によって、主体化され、主体はこの意味で分析者なのである。これは、主体と分析者のディスクールの現場で入れ替え可能なものとしては成立しないが、これは例外であって、一般的には、いかなる非対称的なディスクールにおいても、常に、「私」は他者の欲望としてあり、「私」の無意識もそのようなものとしてしか存在しない。(だから、「私」は無意識を無意識として認識できない)

*言語、哲学、現実世界
言語なしには哲学は成り立たない。対話であれ書かれて伝達される言語であれ、言語によってのみ哲学であれ何であれ学知とよばれるものが成り立たざるをえないということを一体どのように考えたらよいのか。現実の世界は言語を含み言語によって認識されうるものとなるとしても、あるいは、無意識もまた、言語そのものではなく、言語によって、構築されるとしても、しかし、言語は無意識に到達することはできない。そればかりでなく、現実の世界は、言語を大きく越え、逸脱する。ここに学問の決定的な限界があるように見える。学問を入口にして、世界を、あるいは人間を理解することは、あきらかに間違った方法であろう。それが実践的な学としてあたかもその理論が実践的に適応可能であるとみえる場合であっても、そうである。医学や工学の分野はこの罠に完全に陥っており、社会科学はこの罠をめぐってそれ自体が分裂の歴史を歩んできたが、精神医学や精神分析あるいは心理学は、いわばこの罠の縁にあって、あやういところを歩んできたようにみえる。しかしいかに批判的であっても、言語の世界から解き放たれた学の世界は見出されてはいないようにみえる。他方で、「芸術」と呼ばれる別の真理の世界もまた、言語の罠を逃れているわけではない。作品は言語の支配をどこま
で免れているといえるのか。
他方で、現実の人々が構築する世界は、たとえ言語によって取り囲まれているとしても、言語に還元できない世界を生きている。現実の世界は、説明のしようのない混乱(錯乱)のなかにあるにもかかわらず、人々は、この世界に秩序を見ること、あるいは、自己の行動を科学的に説明可能なものとみなすことを当然のように行なっており、逆に、なにひとつ説明可能なことなどありえないような混沌のなかに生きているということを自覚することは、ほとんどない。
真理を説くことができるという考え方は、フロイト以降根源的な疑義に晒されてきたし、ラカンのパラダイムもこのような疑義を前提として、それでもなお、真理への問いを追求しようとするものだといえる。
もし、そうだとすると、欲望を充足することと、上記の述べた、言語行為との関係はどのようなことなのだろうか。語ることによって、欲望は充足されるのではなく、ファンタジーの中に閉じこめられ、欲望の充足の道はむしろ閉ざされる。あるいは欲望はファンタジーとして固定されて、その中で充足されるように促される。欲望の主体は、これを欲望の充足そのものととりちがえることである種の安定を得る(与えられる)。ディスクールとは、このような欲望の特異な充足(の装いのもとに欲望が
巧妙に抑圧されることでしかないのだが)である。このディスクールで私が差出すのは、他者の欲望なのだが、しかし、この他者の欲望はこのディスクールで充足されることはない。それは「ことば」であって欲望が指し示すことがらそのものではないから。そして肝心なことは、このような欲望の流れは、私の肉体を越えて、他者の現実へと至ることがないということだ。言い換えれば、世界は不変なまま、私は自己の欲望を自己へと折り返され、現存する世界の(錯乱した)支配は継続される。ボスは殴られて血をみずに済むというわけだ。これは一体誰にとって得なことかは自明だろう。

*結合様式としての、閉じること、入口、縁
閉じることが可能なためには、それが入口であるということが前提されていなければならない。入口であるということは、そこから中へ入ることが予想され、あるいはそこから出ることが予想されるような場所でもあるということだが、同時に、そのような場所は、閉じられること(あるいはその逆に開かれること)も可能性なものとして直観されるような、そのような場所でもある。
ここで閉じることと入口であることは分離しているのではなく、ラカンのいう「結合様式」を有する二つの領域であり、この二つの領域とは主体と他者である。この両者は、無意識によってのみ現実化されうる。「デカルトの言う主体はこの無意識によって前提されていることである」。言い換えれば、主体が無意識の前提なのではなく、無意識が主体の前提なのだということである。そして、このような主体は同時に他者を伴い、他者と主体との結合様式(開かれと入口、あるいは閉じることと出口)と不可分でもある。「他者は、発話が事実を真実として認める、そういった意味での事実によって必要とされる次元」であり、無意識は主体と他者の間にあり、行為においてカットされた部分である。
行為の側から主体と他者を見るとしても無意識はそこには見いだせず、行為には現われえないものなのだが、しかし、主体と他者をこのような現われえないものとして結合する必須の条件をなしている。
ここでラカンがいう「カット」とは、疎外と分離である。リストカットのようなことと言ったらいいだろうか。「疎外は主体そのものの構成要素である。対象の領域において、シニフィアンとの関係と切り離されて疎外を生み出すような関係は考えられない。議論の出発点として、いかなる主体はいかなる理由があろうとも、もし現実のなかで語る存在でないのであれば、現実に存在しえない。」主体が世界にあるのは、シニフィアンが存在するかぎりでのことであるが、このシニフィアンは、それ自体では何も意味しないけれども解釈されねばならないものとしてある。」「主体に対するシニフィアンの優位性を保証しているのは、(中略)機知においてシニフィアンが主体を驚かすかもしれないようなところにまで至って、主体がそのことに気付く前にシニフィアンが演じかつ勝利を収めることによる。」これが「主体の彼自身からの分離」であり、疎外である。このような分離は、シニフィアンの働きそのものから生まれる。ここで重要なことは、シニフィアンが隠喩や換喩の働きを有することにある。これは、動物にもありうる記号表現にはない、人間に固有の働きである。言い換えれば、人間の言語活動がその出発点から有する隠喩と換喩という働きによって、人間は、主体と他者の結合様式とそこに生じる無意識において疎外を抱え込むのである。
ラカンにとって、このような意味での疎外は、普遍的あるいは本質的なものであって、歴史的なものではない。しかし、他方で、心理学や哲学へのラカンの批判は、これらがある歴史的な文脈のなかで支配的な力を持つようになったこと、そしてまた、欲望や言語の社会性、歴史性を前提すれば、無意識も疎外も、主体も他者も、歴史性の次元を免れないように思う。これは政治的な問いであるが、同時に、精神分析が分析主体にとっていかなる意味で、その主体を解放する技術となりうるのかという問いとも無関係ではないと思う。
「カット」に含意された二番目の意味、「分離」は、フロイトが男根的な分裂のうちに位置づけた主体の分裂(対象の分裂)を意味する。ここでは主体は、他者の欲望のなかに、「主体の無意識の主体としてあるものの等価性を見いだす」。これは主体は喪失を通じて自己を実現するが、「フロイトの言う死の欲動に従って、他者のなかに生み出す欠如をとおして、無意識として沸き立たせる」ことになる。
この分離は、記号論理学でいう共通集合によってもたらされる「弁証法的に変形を加えられた論理形式」である。ここでは、主体の側には他者にとっての欠如が含まれ、主体の欠如が他者に含まれるのだが、これら双方の欠如の残余が共通集合をなすが、これは、主体と他者の共通集合が欠如によって支えられているということを意味する。しかし、ラカンは、この記号論理学でいう共通集合が誰からみたものなのかについては明言を避けているようにみえる。そもそも。集合概念は、線による自他の境界の明確化が前提されているが、精神分析における境界は、このような線的なものといえるのかど
うか。むしろ境界は、譬えていえば、紙の上に水に浸した筆で描かれたような筆跡あるいは、統計学でいう離散のような性質のものであり、なおかつ主体の側と他者の側がそれぞれに生じる共通集合と欠如についての図形は一致するかどうかを確証する手立てはないが、しかし、主体が文字通りの意味での他者に出会うとき、双方における図式のずれが、ハレーションを引き起こす。ラカンのこの共通集合と欠如の図式はあくまで、分析者によるものであって、そこには、社会関係のなかで主体が不断に経験する疎外や分離とは異なることがらであるようにも思う。
それはともかくとして、この基本的な構図のなかで、ラカンは「分離」にまつわるフロイトの議論を、クラインの議論を念頭に置きつつ、母あるいは乳房との分離と結合、男根と去勢の弁証法として、エディプスコンプレクスを論じているともいえる。性欲あるいは死の欲動は、こうした主体と他者との欠如をめぐる弁証法によって駆動されるものであるが、ここに主体が囚われること、ここにおいて主体が対象を主体の外にありつつ自身の内部に捉えるメカニズムを配置する。これは、世界との関わりが、理性ではなく欲動に深く根差すということでもある。しかし、同時にこれら全てのことは、我々には、言葉のなかで、言葉によって、言葉としてしか捉えることができないものであり、もし主体と他者がこのようなものであるとすれば、無意識はこうした配置のどこかに存在するようなものではなく、これらの配置、あるいは弁証法的な構造がその支えとするようなものそのものだが、それは指し示すことのできる「何か」であるということではない「何か」である。

*無意識の「位置づけ」
この講演のタイトル「無意識の位置」とは、空間的な意味での「位置」なのではなく、上記のような構造が「位置」を我々に言語を通じて理解しうるものへと押し出す。だから「位置」というよりも「位置づけ」と訳すべきものだろう。位置づけは、あらかじめ或る場所を占めているような座標軸上の配置を意味するのではなく、むしろこのような座標軸そのものである。これは、伝統的な哲学や近代の心理学が、追求してきた意識をめぐる諸問題とはそもそもその位相も問題意識も異なるものだといわなければならない。言い換えれば、哲学であれ医学であれ、これらが解決しようとして解決できなかった「人間」をめぐる謎を、近代という時代がもたらした理解を越える隠喩と換喩によってはぐらかされた意味不明の世界、あるいは主体の喪失の謎に迫るとりあえずの挑戦であるとみることができるかもしれない。

付記:文中のラカン「無意識の位置」は『エクリ』第III巻所収、佐々木孝次訳、弘文堂によるが、
訳文は同じではない。

注記
 去る5月4,5の両日、当研究所主催の「ラカン研究会」が駒澤大学で行われた。ここにアップされたのは、『エクリ』所収の「無意識の位置」についての小倉利丸さんの報告のレジュメである。(宇波)

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