宇波彰現代哲学研究所

多種多様な「知」の交流を通じ文化創造との実践的な橋渡しをめざし、新たな学問分野の開拓を行う研究機関のブログです。

短歌で読む哲学史2

教父哲学
○ギリシアの賢人たちもキリストのロゴスの種に与かっていた
ユスティアヌス(100-165年頃)
パレスティナのサマリア人ユスティアヌスはストア派からアリストテレスを祖とするペリパトス派、ピュタゴラス派を経てプラトン哲学に出遭いましたが、キリスト教に出遭ってはじめて真の哲学を見つけたと感じました。哲学者たちは真理のいくつかを発見したけれども、それは神によって知性に種まかれたロゴス(ことばのはたらき、ことわり)による作用だとユスティアヌスは考えました。完全なるロゴスはキリストに他ならないので、知性に与かって行為する者はキリストに与かって行為するのであり、イエス以前の賢人は、信仰者
アブラハムだけでなく、ギリシアの哲人たちもまた、キリスト以前のキリスト教徒だとユスティアヌスは考えました。あらゆる真理は一つであり、哲学的な知とキリスト教の信仰は別物ではないと考えました。というのも古今の賢人は神的ロゴスであるキリストに与かって知性を発揮したからです。古代哲学を知ることはキリストの神的ロゴスを知る助けとなり、
決して異教徒の本を読むことがキリスト教理解の妨げにはならないのだとユスティアヌスは考えました。

○神をより深いところで知るために情念を越え賢明に生きよ
アレクサンドレイアのクレメンス(150-215年頃)はグノーシス派を退けつつ、グノーシス派への恐れから学問から信仰を守ろうとする反学問の人々にも反論しました。信じる者は
信仰で得た真理を知的に洞察して自らを深めます。つまり信仰者は自ら真偽を区別する認識者としても成長すべきなのです。知性は神に由来する神的ロゴスに由来します。クレメンスはこうした考えに基づいて信仰理解のために古典哲学を自由に活用します。プラトンやフィロンの考えを取り入れたクレメンスは、人間精神は神を汲み尽すことはできませんが、神への直観へと近づくことができると考えました。けれども、神を知るためには倫理的な完成が求められ、人は神の恵みに支えられながら、自らの情念を支配しなくてはいけません。クレメンスはストア派が唱える自然の摂理に従った人生を受容しました。自然の摂理に従った人生とは、神が創造の際自然に与えた目的に沿った人生であり、神の意に沿った人生であるとクレメンスは言うのです。
○形相と質料は神が善意から創造をした被造物の一部
○魂は肉を離れて最後には善なる神のふところへ帰る
オリゲネス(185-254頃)の思想はキリスト教の学問的な整理に大きく寄与しました。オリゲネスはキリスト教の教えとギリシア哲学に大きな一致があることを評価する一方で、ストア派の運命論やアリストテレスの形相(かたち)と質料(素材)の 二元論を退けています。形相と質料は被造物を作る要素に過ぎず、被造物は神が善意によって無から創造したものだとオリゲネスは説明します。魂の創造について、初め神はすべての魂を、肉体を持たない純粋な精神として創造したけれども、それぞれの魂が犯した罪の程度によって質料のなかへ落ち、肉体を持つに至ったと彼は言います。けれどもオリゲネスは神が人を善へと立ち返らせるための教育の場として肉体を考えています。けれども善なる神は最終的にすべての魂を自らのもとに還帰させ、永遠の救いを与えるとオリゲネスは考えました(「万物の回帰」の説)。神へ帰る道において人は福音の教えの掟を守らなければいけません。この福音の掟はストア派の自然の摂理にも、モーゼの律法にも一致しています。福音の掟を守りながら、 ひとは感覚的な生を善そのものへと結びつけ、自らの霊を救いへ至らしめ、神に帰って行きます。このように東方のギリシア教父たちは神との神秘的一致、神化(テオーシス)を最終目的としますが、西方のラテン世界では信仰の基礎とその意味を説明することに力を注ぎました。
○自らを神の灯りに照らされて神の愛へと遂に目覚める
アウグスティヌス(354-430)の代表作は、過去の過ちの遍歴を回想し、神を称える『告白』です。アウグスティヌスは神と対話し、キリスト教の眼で見て過去の自分がどう誤っていたのかを振り返り、神を絶えず称えます。彼は善悪二元論的なマニ教に帰依した過去を持ち、懐疑論に耽溺し、敬虔なクリスチャンだった母親との離反に苦しみ、神に帰依するに至った道のりを告白します。
アウグスティヌスの思想の特徴は自己自身への立ち帰りです。自己自身を経験の確実な場所ととらえ、神の灯りとしての知性に助けられて、魂の眼によって、自分を越えたところに、真理であり、不変の光であり、永遠である神と出会います(『告白』第7巻第10章)。彼は「私は有る」、「私は知る」、「私は意志する」という三点の一致を通して、父と子と聖霊の三位一体に類推的に触れることができると考えるに至ります(『告白』13巻11章)。彼は神の恩寵、神の愛にすがりつつ自らへ向き直り、神への信仰を成就するというキリスト教の基本的な態度を確立しました。
○魂は深い所に潜り込み神の光で何も見えない
ディオニュシウス・アレオパギタの著作と称される一連の書物があります。この(偽)ディオニュシウス(480年頃シリアで活躍)が考えるには、万物の根源である神はこの世を越えた一者です。その溢れ出す善から万物が成り立っています。神について語るときには感覚的な象徴で捉えられます。イエスの象徴としての魚、十字架などです(象徴神学)。次に概念で言い表すならば、善、存在、生命、知恵、力、平和、静止と運動、支配者、一者というような完全性を表わすことばで語ることができます(肯定神学)。他方、有限な性格を持つ概念を退けるというかたちで、幻ではない、死すべき者ではないというふうに否定的に語ることができます(否定神学)。このなかでは否定神学が神を語るのに最もふさわしいと彼は言います(『神名論』より)。けれども精神は深化の最終段階では無知の黒い闇に入り込みます。これはただの暗闇ではなく、神の光が多すぎて眼が眩むのです。これこそ神と一致して完成に至る、神と瞑想者の神秘的合一の道です(『神秘神学』より)。ディオニュシウス・アレオパギタの思想は東方教会の神学を基礎づけ、中世西方の神秘思想にも影響を与えます。彼は『天上位階論』では九つの天使の位階を整理して述べ、『教会位階論』では教会を九つの位階で説明しました。
○万物は神の意志から生まれ出て救済されて神の地へ帰る
ヨハネス・スコトゥス・エリウゲナ(810頃-877以降)はカール大帝の元のカロリング・ルネッサンスと呼ばれる学芸復興期を代表する思想家です。彼はディオニュシウス・アレオパギタの著作をギリシア語からラテン語に翻訳し、註をつけました。彼は神の予定と人間の意志の問題に踏み込み、神は善にして一なる存在で、神の意志も善であるから、神は予定をもって人間をただ善のみへと動かすと強調しました。神はあらゆる認識を越える一であり、ただ否定的にしか語れないとエリウゲナは述べました。ただし被造物の全体と世界創造のモデルとしての理想界は神が自らを映し出したものに他ならないと言いました。エリウゲナは創造も世界のありかたも一から多への発出と多から一への還帰として語ります。けれども神の創造の業は自由な意志によるはたらきであり、神への還帰はキリストに導かれて被造物を神と再び一致させる行為だと言います。被造物が救済と神化によって完成態に達し、
神に帰って神とひとつになるとき、「創造されない自然」である神は創造の業を終えるとエリウゲナは考えました。
中世神学
○それよりも偉大なものは何もない神は必ず実際に有る
アウグスティヌスに従い、理性と信仰、論理と瞑想、修道院神学とスコラ(神の論証)的神学の最初の結合を成し遂げたのが、カンタベリーのアンセルムス(1033/34-1109)という人物です。彼の神学は信仰によって受け入れられた問題を、聖書や教父の権威によらず、ただ理性のみによって証明しようとします。彼の方法は「知的理解を求める信仰」と呼ばれています。信仰は必然的に知的理解を得ることを求めるとアンセルムスは言います。このような知的理解は来るべき世で与えられる神の直観の先がけとなるものだと言うのです。
アンセルムスは『プロスロギオン(知的理解に向けて)』のなかで神の存在証明を展開します。神は、それより偉大なものが何も考えられない何かであり、それより偉大なものが何も考えられない何かとして捉えられるものは、単に知性において思考されているだけのものではありえず、必ず現実においても実在すると言います。なぜなら思考のうちに留まるならば、思考の外により偉大なものが考えうるという矛盾が生じるからです。このような、神への精神の疑いえない方向性のことを、アンセルムスは精神の真っ直ぐさと呼びました。この
精神の真っ直ぐさが、真理や正義や自由意志を成り立たせるとアンセルムスは説きました。
○各々の個々を離れた普遍とは唯のことばか実のあるまことか
ポルフュリオス(234-305)の『エイサゴーゲー(手引き)』という論理学の本の翻訳を通じて、中世神学は普遍論争という議論を始めました。個々の人やものではなく、「動物」や「人間」というような、広く多くに当てはまる普遍的なものがことばにはあります。この普遍的なものは単なることばだけのものなのか、内容ある概念なのか、内容ある概念ならば事物に内在する本質が対応しているのか、本質は複数なのか単数なのか、普遍的なものはどの程度実在的なのかといったようなことを巡って論争が繰り広げられました。
ロスケリヌス(1050頃-1125頃)は、普遍的なものはただの音声に過ぎず、多数に適応されるが、事物は個別的なのでこの音声には対応する実在や本質は存在しないという、普遍は名前に過ぎないとの立場、唯名論の立場に立ちました。
シャンポーのギヨーム(1070頃-1122)はこれと正反対の実念論を唱えています。ギヨームは普遍的なことばに対応して、普遍的な「もの」が事物側に実在していると説きました。
普遍的な「人間」や「動物」といったものが実在すると考えたのです。
唯名論はひとつのことばを多数のものに用いることの意味を説明できていないし、実念論は同じことばで呼ばれるものが多数の個別的実在だということを見失っています。
○普遍とは単なるものや音でなく知性の捉えた意味を表わす
アベラルドゥス(1079-1142)は、普遍は「もの」でも「音声」でもなく、人間知性に固有のはたらきであり、知性が個々の事物から抽出した本性を表現することばないし意味だという解決策を提示しました。
○神学のもつれを理性で解き明かし体系的に過去をまとめる
アベラルドゥスは教父や他の著作から対立する神学上の意見を集め、理性的な討論によって解決しようとしました。このような問題解決の積み重ねで神学の体系を構築し、この体系から個々の教父や権威者の発言を位置づけることを目指しました。
○神の意に耳を傾け選び取るひとの意図こそ行為を良くする
アベラルドゥスの倫理思想から言うと、行為が善いものとなる理由は、それを導く意志の内的な意図が善いことにあります。その意図の善さは、良心において聴き取られる神の客観的意志を理解して人間の意志が内的に従うことに基づきます。この意図と良心の重視は神の意志に基づくので、ただの考え次第にまかせることではありません。
アベラルドゥスの論理的、批判的な合理主義や個人的主体性の強調は、クレルヴォーのベルナルドゥスなど多くの敵対者を生みましたが、成立しつつあったスコラ学には強い影響と成果を残しました。
○瞑想し乳と蜜とが流れ出し神と人との結婚を祝う
○神を想いわれを忘れて無垢となりまったく神のうちへと移る
クレルヴォーのベルナルドゥス(1090-1153)は、その豊かな弁舌と柔和な人柄で蜜の流れる博士と慕われました。瞑想的で伝統的な修道院の傾向を継ぐ神学者であったベルナルドゥスは、アベラルドゥスやギルベルトゥス・ポレタヌスらの主知主義的で合理的な神学に対して戦い、数多くの甘美な説教を行って宗教性の回復を呼びかけました。
彼は旧約聖書の雅歌に歌われる花婿と花嫁の愛を、花婿キリストに対する花嫁たる信仰者の無垢な愛情と捉え、敬虔な信仰の中心に据えます。
聖母に対する幼子イエスの従順、父なる神に対するイエスの従順、天使のお告げに対する聖母の従順を想い、信仰の糧としました。
ベルナルドゥスは人間の自由について、神の似姿である本来の人間の持つ「自己決定の自由」の意義は、原罪からの許しというキリストの恩寵を受け入れて、善をなすことにあると言います。これを「恩寵の自由」といいます。
そして隣人を愛し、神を敬う善をなすとき、神に近づく者へと高められます。驚くべき仕方によって自己を忘れ、自己を完全に放棄するときに、まったく神のうちに移るとベルナルドゥスは言います。 
神の意志とひとの意志との愛による合一は、「栄光の自由」を約束されています。そこに至って、将来の完全な救済において約束されている永遠の生命の至福においては、何の不安もない完全な善を享受することになります。このようにベルナルドゥスは人間の本性、救済史、至福の追求について、スコラ学の分析とは異なり、人間の動的な全体に光を当てました。
○放射する神の光に照らされて物の道理が明らかになる
ロバート・グロステスト(1170頃-1253)は光の形而上学と言われる哲学を唱えました。世界の創造は光あれという神のことばによって、一点に光が生まれることから始まります。この光があらゆる方向に向かって球状に放射し、広がってゆくことで空間が成り立ちます。この光は天球を形成し、屈折や反射といった運動の法則を決定します。彼の学問は光の運動に基づいた幾何学的、数学的な方法に立ちます。心のありかたを決めるのも、神の光です。ひとの知性は、神の精神的な光に照らされて、ものごとの真理を見極めることができる、とグロステストは言います。
○考えは数学により固まってじき訪れる終末を待つ
ロジャー・ベーコン(1213頃-1291以降)は、グロステストに従い自然のすべてのエネルギーを光に還元できると言い、数学を諸学の基礎と説きます。数学的な方法が優れているのは、無知を取り去るのに最適だからだとベーコンは言います。単なる思考は数学的に定式化されて確かなものとなり、論証は経験に裏づけられて説得力を持つと言います。彼がもくろんだキリスト教的な人間学のためには、アリストテレスの進歩性を活かすための教会での根本的な学問の改革が必要だと説きます。同時代を改革の時代、移行の時代だと言うベーコンの思想は、フィオーレのヨアキム(1130頃-1202)の「キリストの時代が間もなく終わり、最終的な聖霊の時代が来る」という終末論の影響がみられます。
○創造の念頭にある永遠の神のイデアを万物に見る
ボナヴェントゥラ(1217/21-74)は哲学とは神学のなかに位置づけられるべきだと考えました。アウグスティヌス、ディオニュシウス・アレオパギタ、アンセルムス、ベルナルドゥスの瞑想的、信仰的な伝統を踏まえて学問として花開かせようとしました。ボナヴェントゥラはアリストテレス的に、有限なものは質料(素材)と形相(かたち)から成るとしましたが、質料は単なる物質だけでなく、精神的な存在をも規定すると考えました。半面プラトン的な立場に立ち、個々の存在の真の理解のためには、個々の存在をより高いものの影として見ることが必要となると説きました。限りあるものの本質は創造の際神の念頭にあった永遠の原像=イデアに従って作られています。ボナヴェントゥラは永遠の原像というプラトン的な考えを、キリストを介在させて理解します。そしてすべてのものは神の内なるロゴス(ことわり・ことば)であるキリストにおいて、創造に先立って思念されていたのです。それゆえに、キリストは全現実の中心であり、すべての認識の鍵であるとボナヴェントゥラは言います。アウグスティヌスが言うように、キリストは魂の内的な光でありその照らしと教えによってひとは真理を理解できます(照明説)。ひとは、外的自然に神の足跡を見て、見聞きしたことを手掛かりに魂を内に向け、神の神秘の感得に至ります。自然から出発し、魂を経て神に至るこのような立ち帰りは、永遠を求める全人格的な営みであります。魂は神への愛に満たされてひととして成長するとき被造物に神を見て取る知恵を得るのです。魂は神の足跡を見て神の神秘を感得する内的な光を持っているとします。
○ひとの知る神の名は有りて有る者でひとの幸とは神をみること
トマス・アクィナス(1225頃-1275)は信仰と理性、福音に帰れという運動とアリストテレスの受容を両立させた最大の神学者です。彼によれば、理性は根本的に信仰に開かれたものであり、理性が踏み出すことのできる最後の一歩は自己を越えて信仰を受け入れることなのです。理性が信仰を受け入れるとき、迷信に落ち込むのではなく、理性は自らを完成し、高次の理性になるとトマス・アクゥイナスは言います。トマス・アクゥイナスは神に由来する「存在」をものごとの「本質」から区別し、神に由来する存在をものごとの本質が分け持
つという「存在」の思想を説きます。ひとが神に由来する「存在」を知るのは、「類比的なことば」からであると彼は言います。被造物は神から存在を分有し、神という究極の原因によって存在すると言います。ものごとには原因がなければなりませんが、それ以上遡れない究極の原因がなくてはならない、それが神であるという神の存在証明を彼は試みています。神は人智を越えたものとしてひとからかけ離れているので、神について語るときは類比でしか語れないと言います。ひとのわかる範囲で最も適切な神の仮の呼び名は「存在」であり、すなわち出エジプト記で神が名乗った「有りて有る者」だとトマス・アクィナスは言います。人間の究極的な至福は、最終的に知性のはたらきで神をみることだと彼は言います。ひとがじぶんを完成させてゆくはたらきは、神からのはたらきかけによって良心として基礎づけられ、助けられ、実りに至るのであり、ひとの究極目的は、恩寵の助けによってのみ達成できる神の知的な直観だとトマス・アクィナスは考えました。
○神を知るひとの力の尊厳を精妙博士固く信じる
ヨアンネス・ドゥンス・スコトゥス(1265頃-1308)は精密な議論ゆえに「精妙博士」と称された、スコットランド生まれの神学者です。スコトゥスが心を砕いたのは、人間のうちに直知と愛による神との一体化に高められるような根元的な可能性があること、そのような高い人間性を確立することでした。自由な人間の意志は知性に対して優位に立つと言ったのもそのためです。人間の知性の扱うものは第一にすべての有るものにほかならぬと彼は言いました。そして人間の知性が、限りある者と無限な神を問わず、すべての有るものに対して根元的に開かれていると説きました。これも高い人間性の確立にかかわります。また、一般的な人間性と個々の人間をひとが知るのはものごとの共通本性と個体化の原理をともにひとが知るからであるという説を立て、知るはたらきの妥当性を基礎づけ、人間の知性の根源的な能力を証明しようと試みました。スコトゥスは「考えられうる限りでの最高のもの」という神概念は矛盾がなく、実際に考えうる以上、神は存在すると言います。このような神の存在証明を精密に展開しましたが、これも人間の知性が神の本質を把握できることを示そうとしたものです。
○剃刀で無用な思弁切り捨てて全能の神の領分を守る
ウィリアム・オッカム(1285頃-1349)は個物だけが実在するという命題を主張し、ひとの認識の全体が個物についての直観的認識に基づくと考え、経験主義的な傾向を示しました。
オッカムの剃刀として知られる思考節約の原理、「必要なしに多くの原理を定立してはならない」は十分な根拠・理由なしにはいかなる命題も主張してはならないことを意味していました。これによってオッカムは、多くの無用な形而上学的思弁を取り除こうとしました。
また概念やそれを表現する名辞(人間など)は普遍的本質や純粋なイデアをとらえて表示しているのではないと彼は言いました。名辞がとらえるのはあくまで具体的な個物です。ただ知性は似たところのある個物を同じ概念でとらえます。その意味で概念は多数のものの記号であり、その意味でのみ普遍と言えます。それ以上に普遍が普遍として実在することは決してないとオッカムは言います(オッカムの唯名論)。オッカムは神の全能をあらゆる理解の中心に据え、あれこれと神を限定する古典的形而上学を取り除こうとしました。無用の形而上学を切り捨てるオッカムの態度は、宗教改革者マルティン・ルターの宗教観に影響を与えました。
○魂が自分を無にして空となり神と人との境が消える
マイスター・エックハルト(1260頃-1327/28)は、魂が自我と無知から離れ、被造物のしがらみから離れて自由になるとき、魂は無に転ずると説きます。この魂の無を神が底から支え、魂を神のうちに保つと言います。すべてを捨て去った貧しさの極限で、ひとは私と神とが一つであることを受容します。神はその独り子を魂のうちに生み出します。ひとが魂のうちで神の独り子となって自分を手放すときに神の本性はひとの魂と一体となります。私が神をいかなる像の助けもなく、じかに経験するとき、神は私となり、私は神とひとつとなってはたらくと言います。「ひとが貧しさとなり無となって神の子と等しくなり、媒介なしに神とひとつになれる」というマイスター・エックハルトの神秘思想はスコラ哲学から危険視されましたが、後のキリスト教の多くの神秘思想に大きな影響を与えています。
(教父哲学、中世神学については参考文献にリーゼンフーバー「西洋古代・中世哲学史」平凡社を用いた。)

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| | 2016年02月04日(Thu)16:25 [EDIT]


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| | 2016年03月11日(Fri)02:06 [EDIT]