宇波彰現代哲学研究所

多種多様な「知」の交流を通じ文化創造との実践的な橋渡しをめざし、新たな学問分野の開拓を行う研究機関のブログです。

短歌で読む哲学史3

ルネサンスの哲学
○対立の一致を映すこの世には神の命が貫かれている
ニコラウス・クザーヌス(1401-1464)はマイスター・エックハルトのドイツ神秘思想と
近接性を持っています。さらに、古くからのディオニュシウス・アレオパギタやエリウゲナ経由のプラトン主義の立場に立ち、ピュタゴラスに似た数学的比喩で神学を表現しました。『学識ある無知』によると、神は極大なものですが、その極大は極小との比較ではなく、同時に極小でもある絶対的極大であるとクザーヌスは言います。神は極大と極小の統一であり、神の本質はあらゆる対立の結合、「対立物の一致」だと述べています。このような神はただ無知の自覚のなかで触れられるものであります。その意味でクザーヌスの神学は、積み重ねの上に成り立つ「学識ある無知」にほかなりません。すべてを内包する神の性格が、空間と時間において展開されたものが、この世界です。「対立物の一致」の時空での展開である世界は「形相」と「質料」から成り、両者を結びつけるのは愛という万物の運動のはたらきです。世界は神の展開である以上、それぞれのものが、すべてを束ねる神の本質を宿しているとクザーヌスは言います。すべてのものが個別に神を映していて、すべてはお互いに調和した関係にあります。そのなかで人間は自覚的に神を映す、万物の尺度であります。そしてひとの魂は知るはたらきの極限で、神との一致に至り得るとクザーヌスは言います。絶対的な極大なる者としての神と制限された極大なる者としての世界を兼ね備えた存在で、神の全一性を備えた人間こそ、イエス・キリストだとクザーヌスは考えます。このキリストへの信仰と愛によって信仰者が結びつくことで教会が成り立っています。クザーヌスの神学の特徴は「世界は神の展開であり、神の生命に貫かれている」として、いたるところに神がいるという考えであります(野田又夫『西洋哲学史』を参考にしました)。

○天上の愛にもとづき神の美を観照できるプラトンの道
マルシリオ・フィチーノの主な関心はプラトン主義でした。フィチーノの主著『プラトン神学』はプラトン哲学とキリスト教神学の結合を主張しました。彼によれば、異教の哲学者もまたキリスト教が示す真理を部分的にではあっても保有していました。キリスト教は初めにロゴス(ことわり)があり、このロゴス(ことわり)はキリストであると言いますが、古代人もロゴスのことを神の子と呼び、それを理性やことばと呼びました。彼らがこうしたことを述べることができたのは、神の助力があったからであり、神は古代人にも啓示をしていたと説きます。フィチーノによれば、異教の哲学者がキリスト教に似た説を唱えたのは(これは歴史的には間違いですが)彼らが旧約聖書から知識を得ていたからであり、プラトンは旧約の秘蹟を詩的な寓話に込めた「ギリシア語を話すモーゼ」にほかなりません。フィチーノによれば哲学者は神の観照によって智者となり、神の善への愛に燃えて宗教者となります。宇宙を構成するものは『プラトン神学』では神、天使的知性、魂、質料、物体だと語られています。神、天使的知性、魂とフィチーノが呼んだものはプロティノスの一者、ヌース(叡智)、魂をキリスト教的に読み替えたものです。フィチーノによれば異教の天の神を意味するカエルス(Caelus)が至高の神を意味し、プラトンの言う天上の美の女神が天使的知性の理解力を、世俗の美の女神が宇宙の魂の産出力を意味します。天のウェヌスがつかさどる天上的な愛は神的な美の観照へひとを促すと言います。世俗的な愛から天上的な愛に目覚めた魂は、一そのものである神の無限の美に到達します。フィチーノが言うには、ひとは愛の導きによって恵み深い神全体を感得し、愛の炎によって万物を愛し、永遠の愛によって神全体を受け取るのです。神への愛によって結びついた人々の友愛をフィチーノはプラトン的愛と呼んでいます。このようにマルシリーノ・フィチーノはプラトン・プロティノスの教説をキリスト教の神の美への観照と結びつけた人文主義者でした。
○感覚と理性と叡智それぞれを行き来するのがひとの両翼
アリストテレスの影響から出発し、新プラトン主義の世界観を加えたピコ・デラ・ミランドラ(1463-1494)は世界を地上界、天界、霊界の三つに区分けします。地上界は月のもとに有って暗く、天界は遊星や恒星の世界で明暗があり、天使や神のいる霊界という光の世界があります。三つの世界は感覚的な生、理性的な生、叡智的な生に対応し、ひとは自由ゆえにこのいずれにも出入りできる特別な者で、その意味でひとりひとりが小宇宙だとピコは考えます。創造のときに神は地上界に生物を作り、天界には霊を住まわせ、霊界には天使を住まわせました。そのあとで神は世界の調和と美を感嘆する者を創ろうと欲し、神自身をモデルに人間を作り、被造物が持つすべての性質を与え、各世界を出入りする特別な自由を与え、世界の中心に置いたとピコは言います。それゆえひとは獣の生にも天使の生にも出入りでき、一なる神との合致にも至りうるとピコは言います。ここにおいてキリスト教と新プラトン主義の同化がくふうされています。ピコは神とは一者であり存在そのものであると言い、「最高の善なる存在」を頂点に考えるプラトンの説とアリストテレスの「神は一者であり不動の動者である」という説の橋渡しをして、それらと神学との融合すなわち「哲学的な平和」の実現を図りました(野田又夫『西洋哲学史』を参考にしました)。
○知ることを妨げる罠を乗り越えて事例を集め法則をつかむ
フランシス・ベーコン(1561-1626)はイギリス近世の経験論哲学を切り開いたひとです。経験に根差した知識をもとに考えていこうという経験論哲学はイギリスで発達しました。ベーコンの哲学はのちの自然科学の方法を予見するものでした。ベーコンは学問の「大刷新」という巨大な書物を構想しました。「大刷新」は来るべき学問の分類や方法を論じる本で、アリストテレスを越えようとする壮大な書物となる予定でした。けれども完成したのはそのなかの『学問の進歩』と『新機関』だけでした。『学問の進歩』で記憶は史学になり、想像は詩学になり、理性は哲学になると言い、精神の三機能で学問の三分類をしています。そして、史学、詩学、哲学に当てはまる細かい学問分類をしています。彼は哲学を自然神学と自然哲学に分け、そのうち理論的な自然学を自らの課題としました。
ベーコンの『新機関』はアリストテレスのオルガノンすなわち論理体系に対抗する新体系というほどの意味で、アリストテレスの論理学とは異なる新たな方法を提示しようとしました。それに先立ちベーコンは学問の妨げになる四つの偶像(イドラ)として、有名なイドラ論を述べています。第一は「種族の偶像」で、人間という種族に特有の認識能力や感情の限界から来る偏見です。人間にはどうしてもそう見えてしまうという、ひとに共通の偏見です。
第二は「洞窟の偶像」で、狭い洞窟に居て外が見えない、個々人の偏り、生まれ、育ち、境遇から来る偏見です。第三は「市場の偶像」で、市場でのやり取りになぞらえたことばの取り違えや恣意的な意見などの偏見です。第四は「劇場の偶像」で哲学史の舞台で繰り広げられる学説上のドラマを真実と取り違えるという偏見です。哲学者が哲学史を劇場のドラマと風刺する、何とも手痛い皮肉です。
ではこれらの偏見を乗り越えた新しい学問とはどのようなものだとベーコンは考えていたのでしょうか。ベーコンは知恵こそが人間の力であると考えました。そしてベーコンは、「自然はそれに従うことにより征服できる」と言いました。これは、自然をありのままに知ることで、初めて理解できるということです。
自然現象の観察と実験により、自然の原因を知ることを彼は目指しました。彼は原因のうちでも形相因すなわち種類の特徴を重視しました。彼は事例をたくさん集めて比較検討して
特徴を取り出すという帰納法を科学にふさわしい方法と考えました。彼の方法を知るのに
役立つのが探究のための三つの表です。第一は現存表と言って、熱を知るためには太陽や炎など熱が実際にある事例を集めた表を作ります。第二が欠如表と言って、熱の場合、熱のない例、氷や零下を挙げます。第三は「比較と程度の表」と言って様々な例の関係を、水は熱を失うと凍るなどと挙げていきます。この表を検討することで、熱という現象の特徴を取り出せるとベーコンは考えました。ベーコンはアリストテレス的な形相を求める、種類の特徴を求めるという意味で中世的な学問を引き継いでいますが、経験と観察によってできる限り少ない法則を取り出すという帰納法の基礎を固め、自然科学の地場作りの仕事をしました。ベーコンの方法には量的にものを計って法則を得ようという視点が欠けていますが、帰納法の科学への適応に寄与しました。
○万人がその戦いを放棄して自分の権利を国に預ける
トマス・ホッブスは自然、人間、社会を因果関係に基づく機械論的な方法で理解して、単純な事実から出発して複雑な社会を説明することを試みました。自然を運動に還元し、人間を
外界への反応としての感覚の運動である心像とその連結である思考で説明しました。人間は感覚の作り出す心像に名まえを与え、複雑な思考操作が可能になりました。外界の経験を重んずるという意味でホッブスはイギリス経験論の系譜にいます。さらに、自然の運動、人間の感覚の運動のうえに人間相互の社会的運動の作用を説明しようとして、主著『リヴァイアサン』は書かれました。リヴァイアサンとは旧約聖書に出てくる最強の水棲動物の名まえから取った国家という怪物を表わす呼び名です。自然状態の人間を想定すると、「万人が万人に対する戦争状態」で「ひとはひとに対して狼」だとホッブスは言います。それぞれが、他をしのぐ快楽を求めて争い合い、殺し合います。けれども生きることは人間の権利であり、自己保存が最優先される自然権を放棄して、契約によってひとは君主や議会や国家に権利を譲り渡します。そこで生まれる権力が個人の生存権を保障します。こうして契約により国家は成り立っているという説をホッブスは説きます。国家を誰もが利用する郵便局のような機関と考え、国家をシステムと考える市民社会の骨格をホッブスは示しました。彼の考える理想の国家は絶対君主制でしたが、彼の契約の理念は三権分立や議会政治の成立を先取りしています。
○生まれつき持つ観念は何もなく白紙の心に感覚が刻む
ジョン・ロック(1632-1704)はイギリス経験論の父と言われています。
彼はあらゆる知識や思考の源泉は感覚であると説きました。
そして生まれつき持っているような観念はひとつもなく、生まれたばかりの心は白紙の紙だといいました。
これはのちにロックのタブラ・ラサ、何も書かれていない板として有名になります。
彼はすべての観念は感覚と内省から生じると言いました。
観念には単純観念と複合観念があります。複合観念は様相、実体、関係の三つに分かれると言いました。様相は事物の有様、実体は、物がそこに有るという確証、関係は事物どうしの絡み合いです。
単純観念のうち、幅を占めていること、運動、固さのような物それ自体にかかわる性質を第一性質とし、色、音、匂いのような単一の感覚から成る第二性質とを区別しました。
伝統的に重要視された、「物が確かにそこに有る」という実体の確証も単純観念の複合体に他ならないとしました。
知識や思考の源泉を感覚という経験に還元したジョン・ロックの観念理論は『人間知性論』にまとめられ、経験論の堅固な土台を築きました。
○有るということは知覚をされること知覚の外はひとに知り得ぬ
ジョージ・バークリ(1685-1753)はイギリス経験論のジョン・ロックの観念理論をさらに徹底し、『人知原理論』のなかで、「有るということは知覚されることだ(エッセ・エスト・ペルキピ)」という説を説きました。
私の目の前にあるこの机は、私によって知覚されることで存在することが確かめられます。私がそこに居ないとき、誰かが知覚しています。誰もいないとき、神が知覚しています。ここで神を出してくるのは苦肉の策でしょうか。
知覚の外に物質や実体はなく、仮に有ったとしても知覚の外へ出ることはできず、心の外を述べることは空論です。外界の存在は観念のなかにあるのです。ジョン・ロックが行ったような、幅を占めること、運動・固さのような実体にかかわる第一性質と色、匂いなどの第二性質の区別も無用であると考えました。心の外に実体があるという考えそのものが無用であるからです。
有るということは知覚されることであるというバークリの徹底した経験論は、外界の存在を無条件に認める人々に大きな疑問符を投げかけました。
バークリは知覚によって知り得る精巧な世界のなかに、全てのもののなかに働いてすべてのことをなさる神の精神の働きを認めました。その意味で無信仰とはほど遠い、心のなかの万有に神は宿ると考えた聖職者でした。
○外界も内にも堅固な基盤なく心はまさに知覚らの束
デヴィッド・ヒューム(1711-76)は徹底した懐疑論者で知られています。ジョン・ロックは外界の実体と心の実体を認め、ジョージ・バークリは外界の実体を認めず、心の実体のみを認めましたが、デヴィッド・ヒュームは外界にも心にも実体と言われるものはないと語りました。
ヒュームは心に現れる知覚を印象と観念に分けて説明しました。印象と観念の違いは、刺激の鮮烈度の違いだとしました。印象が観念を作り、観念も印象を作ります。この二つの区別に、単純か複雑かという違いを加えて心を説明しました。
ヒュームによれば、心は知覚の束、または集合体に還元できます。心は絶えず移り変わる知覚の寄せ集めだとヒュームは考えました。
またヒュームは原因と結果の必然的な結びつきを否定しました。原因と結果の結びつきは、経験的にそうなるという積み重ねから来る信じ込みであり、決して必然が働いているのではないと考えました。因果律の否定は伝統的な哲学の思考の前提を大きく揺さぶるものでした。
道徳的には理性は情念を支配できないが、理性の抑制的効果は認めると考えました。ヒュームにとって道徳は広範囲に及ぶ他者への共感という人類が持つ経験的な道徳感覚に由来しています。
○疑ってすべてを疑い尽しても疑っているわれは消えない
ルネ・デカルトは「われ思うゆえにわれ有り」ということばで有名です。これはデカルトの『方法序説』のなかの決定的なことばです。デカルトは、町を一から区画するように、家を丸ごと建て直すように、頭のなかの建て替えをしよう、諸学の基礎は哲学なのだから、哲学の考えを一から洗い直そうとしました。世間的には中庸とされる意見を表向きは採用して、生活に支障がないように注意しながら、デカルトは徹底した方法的な懐疑を行いました。全て今まで信じてきたことは、人は間違えることがあり、夢のなかでは奇妙なことも当たり前に思い込むのだから、自分が夢のなかにいるのではないと言い切れない以上、すべてを疑わしいものとして退けようと決心しました。そうやってすべてを疑い尽しても、その疑っている何者か、すなわち私の考えは消えることがありません。だから、われ思う、ゆえにわれ有り、は疑いようのない事実に思われました。デカルトはここを疑い尽したあとの砦と考えました。疑っている私は疑いなくいる。人間の思惟の実在は疑いようがない。それからデカルトは神のことを考えます。より完全なものは、無からも自分からも生まれえないのではないか。より完全なものが考えうる以上、それは無でも自分の創作物でもなく、確かに存在する。デカルトは伝統的な神学の思考に従い、神の存在は証明されたとします。この神が欺く欺瞞者だとは考えにくいので、理性によって明晰かつ判明に真であると認められるものは、真として妥当ではないか。ということで、数学の定理や、外界の物体の存在は今や認めても構わないと思うに至ります。神のことを別にすれば、この世に実在するのは、「われ思う」のわれの考え(思惟)と物体の空間的広がり(延長)の二つに還元できるとデカルトは言います。物心分離、物心二元論が打ち立てられます。こう敢えて言うことで、「物の観念的なモデル」のような伝統的な哲学の物と心の混同を断ち切りました。世界の根本は物心分離ですが、人間に目を転じると、物質としての体を持ち、考える心を持っていることも認められます。だから人間に限っては物心合一的な存在だと言えるでしょう。ここで人間が再発見されるわけです。「われ」の考えと数学的に説明できる物質の空間的な広がりの実在を宣言したことで、西洋哲学は科学的思考の基礎を手に入れました。デカルトは近代科学の基礎を切り開きました。
○人間と自然は神の様態で神は自然の隅々に有る
オランダに移住したユダヤ人のスピノザ(ベネディクトゥス・デ・スピノザ1632-77)の『エチカ』によれば、自然は神という実体の様態です。神以外に実体はどこにもありません。神こそが自らの自己原因であり、能動的に存在することを本質としています。神以外のものは、神から生まれた、神の様態です。人間を含めて自然は神の様態です。自然すなわち神という汎神論をスピノザは展開します。神の人が知り得る属性は思惟と延長です。神は考え、無際限に永遠に場所を占めている、すなわち延長しているとスピノザは考えます。神の延長はすなわち全宇宙です。神は自然を超越しておらず、神は自然に内在し、自然の根本原因であります。神は万物の姿に様態を変え、自然のなかに神は様態として偏在します。神の属性として思惟と延長を持って来たのは、実体を思惟と延長としたデカルトの影響です。人間の思惟(考え)と延長(身体)は、神の思惟と延長の様態です。思惟の観念の対象は身体や延長物であり、心身は平行して神の様態として成り立っています。思惟のなかでは想像知が劣り、知性と直観知が優れています。人間の至福は神への知的愛です。それは自然の個物や自己の本質をよく知ることで、個物や自己の本質が神に由来するものであることを知り、「永遠の相のもとに」神を愛するに至ります。神への知的愛が人間にとっての救済であり、解脱であります。人間は自然の一部であり、自然にとってすべては神の必然です。ひとは理性によって、神の必然を自然から学び、自然の必然に満足して生きることを学びます。ひとは神を知的に愛し、神は自己愛の一部として人間を愛して止みません。愛し返されることを期待してはいけませんが、神は神自身を愛するがゆえに、神の様態である人間も愛しています。スピノザの神は人格神ではなく、能産的自然であり、真の存在者であり、万物の根本原因です。自分以外に原因を必要としないのは神だけで、万物は神という原因の上に成り立っています。スピノザの考え方は、主知主義的な汎神論と言われています。
○散らばった窓を持たない単子たち自発作用で調和している
G・W・ライプニッツ(1646-1716)の『単子論(モナドロジー)』によれば、絶対的な実体は神であり、神の創造によって有限な微小な実体としての単子(モナド)がこの世界を構成しています。
この単子はそれぞれに異なっていて、変化への欲求や自分をあらわす表象の力を持っていて、ひとつひとつの単子の中に全宇宙を映す力が内在しています(モナドは宇宙の鏡)。
単子は別の単子の介入を受けず、何物かが出たり入ったりする窓を単子は持ちません。
単子は個々の自発作用によって動いていて、全体として宇宙では神があらかじめ決めたやり方で単子どうしの動きの調和が保たれています(「予定調和説」)。
単子はそれ以上分割できない極小の実体です。
神の創造と終末以外には単子を生じさせたり消滅させたりすることはできません。
神は無限な実体であり、単子はその存在を神に支えられた有限な実体であります。
単子は変化への欲求と自己をあらわす表象作用を持っており、広い意味で単子は魂に似たものです。
けれども厳密に魂を持っているのは人間と動物だけであり、それは記憶や意識を持っています。
単子が神の意志に逆らって消滅しない以上、単子は永続的であり、厳密な意味での死というものはありません。
このように宇宙の万物は単子によって作られていて、宇宙は神の決めたやり方で調和しているという説をライプニッツは説きました。デカルト、スピノザ、ライプニッツの三人の哲学を大陸合理論というふうに呼んで、イギリス・アイルランドの経験論哲学とともに近世哲学の二本柱と考えられています。
○生まれつき理性によって何ができまたできないか洗い直そう
カントは理性批判ということを試みます。『純粋理性批判』は理性を批判するのではありません。理性に何ができて何ができないのか、その範囲を見極めようというのです。経験から得られるものを全て度外視したとき、理性を用いてどれだけのことができるのか書き記そうというのです。生まれつき持っている認識能力を吟味するというのです。生まれつき持っている純粋理性を見極めることはあらゆる哲学の確かさの基準になります。生まれつき持っている悟性(理解力)および理性は、一切の経験に関わりなく何をどれだけ知り得るかを問い直そうというのです。わたしたちが物を何の知識もなく理解するのは対象が生まれつき知り得る概念に従って頭に入るからです。このように先天的な能力で知り得るのは私たちが見聞きする現象であって、それは物それ自体をじかに知ることではありません。物それ自体は知り得ず、感性的直観の的となるのは現象としての物なのです。私たちの知る力は対象が呼び覚ます経験から生じるのではありません。では理性はどのような先天的な、認識の原理を生まれつき持っているのでしょうか。延長および形態という空間を知ることがまず、理性による純粋直観に数えられます。空間がまったく存在しないと考えることは絶対にできません。空間の直観は一切の経験の前に先天的に私たちの心に備わっています。これこそ、対象を外にあるものとして知る基礎となります。次に考えられる理性の純粋直観とは、時間というものです。
時間は経験から導き出されたものではなく先天的に理性に与えられているものです。時間と空間は二つの先天的な認識の源泉です。空間と時間の純粋直観を軸に、理解(悟性)の枠(カテゴリー)が成り立ち、論理学の思考が可能になります。このような論理学は先天的な能力で成り立っています。カントは純粋理性から出発して、実際の行為の良し悪しを規定する『実践理性批判』を書きます。そこでは真に道徳的な行為は義務から意志によってなされなければならない、という考えが展開されます。続く『判断力批判』によれば、人や動物のような有機体は自然の産物であり、各部分が有用な全体を成すため、合目的に作られています。そのように自然が合目的に作られていることから、反省的判断力は叡知的存在者=神の創造を確信します。創造の究極目的は道徳法則のもとに立つ人間であり、実現が期待される最高善だとカントは考えます。
○神という精神が自己を顕わして歴史のなかで展開をする
『精神現象学』のなかでG.W.F.ヘーゲル(1770-1831)は、感性で「いま、ここ、これ」を捉える意識の出発点から、絶対者である神を知る、絶対知までの道のりを辿ります。この道を意識は小説の主人公のように、自ら成長しつつ辿って行きます。意識がどのような考えによって何を知るかに応じて、知性のあり方が変化して行きます。個人の意識の遍歴が、人間精神の歴史に重ね合わせられて、論じられます。個人の意識の発達と同じく、歴史は絶対精神である神の自己展開の場でもあります。ヘーゲルは神の自己意識が人間の神意識と等しく、神のなかでの人間の自己意識にも等しいと考えます。神が自分を自己認識することが、人間が神を知る歴史であり、人が神という絶対知に至ることでもあるのです。神は自己を分裂させて自己とは別の物となり、主体として自己を改めて知り、自己を回復します。哲学は意識を神の知という絶対知へ導く、真の精神すなわち神の自己展開の場であります。
神は歴史と哲学の場において自らを開示するとヘーゲルは考えます。歴史がナポレオンに至り、哲学がヘーゲルに至る時点で神の自己展開は頂点に至ろうとしているとヘーゲルは考えていました。
○単独で実人生の方向を選び取りつつ絶望を抜ける
デンマークのコペンハーゲンに生まれたセーレーン・キルケゴール(1813-1855)は単独者、例外者として生きた哲学者です。キルケゴールの著作『イロニーの概念について』では、「ソクラテスは皮肉屋という生き方を選び取った人物であり、絶えず物事に対してほんとうにそうかと問い直し続けた人物でもあって、自分はそこの所がロマン派の世間への離反と通じるようで好きである」と言います。それに加えて、「不安と絶望に向き合うことで、ひとは自分らしく生きて行く道が開ける」という見方がキルケゴールにはあります。世間と折り合いをつけずに、不安と絶望に向き合って単独者として生きようとするのです。
また、『反復』という著作は、婚約を破棄したキルケゴールが恋人レギーネとの恋をもう一度やり直そうという希望を込めて書かれた本です。反復とは、日々を新たに生き直そうとする願いです。自分が望まなくても、ひとの暮らしのなかで何度も同じものがひょっこり顔を出すということもあるから、「人生のなかの反復」というのは考えてみると広がりのある切り口です。
また、『不安の概念』では、不安とは「自由のめまい」だと言われています。それから、不安や絶望に向き合うことで自分に目覚める、とも言います。これはハイデガーの『存在と時間』に影響を与えました。
主著『死に至る病』は、絶望の考察です。抽象的な観念ではなく、絶望という、一人ひとりの現実の人生(実存)に根を下ろすテーマを取り上げたという意味で、彼は実存主義の先駆けと見なされています。死に至る病とは絶望であり、絶望と向き合うことで自分らしい生き方を探しはじめるのです。ここまでは、ハイデガーに影響を与えた話の運びです。それに加えて、キリスト教的な着地点が見出されます。絶望とは神への罪である、信仰に救いがある、と結論づけます。キルケゴールの文章は、「詩人とは罪である」とか、「真理とは主体性(自分で選び取った人生の決断)である」とか、単独者の旅と追憶が生んだ断言が光っています。これもまた、キルケゴールの持ち味です。
○現れるこの世の中の本質は生を目指した盲目な意志
アルトゥール・ショーペンハウアー(1788-1860)の主著は『意志と表象としての世界』です。これは若きショーペンハウアーが多分に直感に基づいて書き上げた大著です。それでは「意志と表象としての世界」とは一体何でしょうか。著書の初めでショーペンハウアーは「世界は私の表象である」と言います。これは、知覚によって私に現れてくるものが世界であるということです。私が意識で知り得ることが私の世界であるとも言えます。これだけでも大きな断言ですが、ショーペンハウアーはさらに言います。表象としての世界を貫いている根源があるというのです。世界を根底から成り立たせている根源は意志だと言うのです。表象であるこの世界は本質的に、自己を増大し、維持しようとする盲目的な生への意志によって貫かれているとショーペンハウアーは言います。万物が自己を増大し、維持しようという意志に貫かれている。意志こそが世界を成り立たせている根本的な力です。カントは主観の外にある物それ自体は知り得ないと言いましたが、ショーペンハウアーは物それ自体とは意志であると言い切ります。万物が自己の増大と維持のためにせめぎ合い争い合っているこの世界は、考えうる限りで最悪の世界だとショーペンハウアーは言います。その意味でショーペンハウアーは極端にペシミズム(悲観主義)的な哲学者です。各自の意志による闘争が世界の本質です。生とは苦しみ以外の何物でもありません。生きとし生けるものが互いに相手の苦しみに共感する、そのことが倫理の原点になります。他者の苦しみへの共感、すなわち共苦が何をなすべきかの基本となります。これがショーペンハウアーの倫理学です。生の苦しみから逃れるには二つの解脱の道があるとショーペンハウアーは言います。ひとつは芸術による美的な法悦による解脱の道、もう一つは生への意志を諦めることによるいわば宗教的な解脱の道です。インドのヴェーダ聖典に影響を受けたショーペンハウアーは、涅槃に至る解脱の道を最終的な解決策としました。世界を生への意志として捉えたショーペンハウアーはキルケゴール、ニーチェとともに、生の哲学の提唱者と言えます。
○人間は乗り越えられる生き物だ その超人の到来を告げよう
○万物はみな自らを乗り越えてより強くなる意志を備える
○繰り返しこの人生を生きたいと言い切れるほど強く生き切れ
○行く道と今来た道は輪になって繋がっている耐え難き永遠
苦楽を経て歓喜に至るディオニュソス的な生こそ、ギリシア人の示した有るべき生き方だとフリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)は言います。ディオニュソス的な生を表現するためにアポロン的な明朗な造形美が悲劇では活用されたのです。ギリシア人が示したディオニュソス(生の陶酔)的なものとショーペンハウアーが示した生への意志を重ね合わせ、それを肯定したところに、ニーチェの『悲劇の誕生』の独創性はあります。『道徳の系譜』や『善悪の彼岸』によれば、この世を否定してあの世(イデア界、天国)に価値を置くプラトニズムやキリスト教などの既存の道徳は弱者による怨み(ルサンチマン)に基づく価値転覆の試みであり、ニーチェは今や神は死んだ、と説きます。神という絶対者の死のあと、何の目的もなく、正しいものは何もないというニヒリズム(虚無主義)の時代を私たちは生きています。このニヒリズムの乗り越えとなるのが、永劫回帰と運命愛、それに超人の到来です。永劫回帰とは、一切は過去に無限回繰り返されてきたし、一切は未来も無限回永遠に繰り返され続けるという一種の啓示です。その人生一切を無限回繰り返すことにお前は耐えられるか、とニーチェは各自に問いかけます。永劫回帰の思想は生々流転のこの世界、生成の世界に永遠の刻印を押すものだとニーチェは言います。この人生を苦楽も含めて肯定し、よし、もう一度、と言えるぐらい強く生き切れとニーチェは言うのです。ニーチェは苦楽をディオニュソス的に肯定する「運命愛」を来るべき価値とします。ニーチェによれば万物にはさらなる強さを目指す力への意志があります。すべては力への意志に従っていて、この世界の根底の有り方は力への意志だとニーチェは言います。ひとはこの力への意志に根差したディオニュソス的な人生の肯定を何度でも選び取る超人の到来を祝福すべきだとニーチェは考え、『ツァラトゥストラ』の主人公ツァラトゥストラにその超人のイメージを託して美しく語りました。主著となるはずの『力への意志』の断片を残してニーチェは正気の世界から遠い人となって晩年を送りました。

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KIjima Akira | URL | 2016年02月13日(Sat)16:19 [EDIT]