宇波彰現代哲学研究所

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閉ざされた正義論―トッド理論の暗点について

 エマニュエル・トッドの『シャルリとは誰か?』(原書はQui est Charlie?, Édition du Seuil, 2015) が今年の1月後半に文藝春秋社から発刊されて以降、この本に対する評価が日本で高まっている。目についたものだけでも、鹿島茂が毎日新聞に書いた書評、柄谷行人が朝日新聞に書いた書評などがあり、思想家や研究者がトッド理論を熱心に解説し、彼の意見に多かれ少なかれ賛同している。それと同時に『週刊文春』などの大衆誌においても、3月17日号では「世界の知性」と形容されたトッドのインタビューが掲載され、4月28日号には「日仏の知性がスカイプ」と銘打たれた池上彰との対談が掲載された。
  確かに、『シャルリとは誰か?』という本の中でトッドはフランス現代社会に対する示唆に富んだ多くの考察を行なっている。たとえば、大規模な社会調査に基づくバリエーションのある統計資料の学術的分析、宗教的動向と政治的動向との関係性に注目した興味深い指摘、潜在的に残っている西洋中心主義に対して警鐘を鳴らした現状分析の提示などいくつもの優れた点を挙げることができる。だが、こうした長所についてはすでに多くの書評の中で何度も語られており、それを繰り返し語ることに大きな意味は見いだせないだろう。それゆえ、ここではこの本のいくつかの暗点を指摘していきたい。それは大きく分けて、(1) 調査方法、(2) 自由と平等の概念、(3) 反グローバリズムの解釈、(4) 日本での過剰評価という四つであるように思われる。この四つの問題点を以下のセクションで順次検討していく。

調査方法の問題点
 トッドの社会調査ではマクロレベルの大規模調査のみが行われているが、そこに不十分さを感じる学者も少なからずいるのではないだろうか。私は社会学者ではないが、社会言語学の研究は何度か行ったことがある。その中で苦労したことの一つにマクロレベルの探究とミクロレベルの探究とをどのようにまとめ上げるかということであった。マクロレベルの探究で用いられる大規模調査は研究者が作成した質問に対してインフォーマントが答えを選択し、その結果を統計化するものである。多くのインフォーマントへの調査が可能である反面、各インフォーマントへの詳細な調査が行われにくく、その結果をカテゴリー化する場合もカテゴリー化の幅が大きく、厳密性に欠けることも少なくない。そうした欠点を補うために少人数のインフォーマントを対象とした、多くの場合、対話コーパスを用いるミクロレベルの研究がしばしば追加実施される。だが、トッドの分析においては大規模調査のみに依拠して結論が導かれているために、問題となるケースも少なからず存在する。
たとえば、p.57に示された1960年における宗教実践地図はフランス国内での日曜のミサに参加する各県の成人の割合が示されており、その区分が (A) 50%以上、(B) 35~50%、(C) 20~35%、(D) 20%未満というように四つに分類されている。それに対してp.60に示された2009年における宗教実践地図はカトリックであると自己申告した成人の各県の割合が示されており、その区分は (E) 19%~26%、(F) 16~19%、(G) 14~16%、(H) 8~14% というようにここでも四つに分類されている。この二つの地図を比較してトッドは相似性を指摘しているが、後者の図の区分のパーセンテージの差はあまりにも近接しているのではないだろうか。(G) と (H) の数値の差は最大でも8% であり、(G) と (F) の差は最大でも 5% に過ぎない。さらには何故この四区分なのかという説明もなされていない。これだけ数値が接近しているならば、考察者の都合でいかようにでも操作が可能ではないかという疑念が湧いたとしてもおかしなことではないだろう。
 また、自己判断意識というものは常に正しいものではない。イギリスの社会言語学者ピーター・トラッドギルが『言語と社会』の中で書いているイギリスの小都市ノフォークで行った言語意識に関するマクロレベルの調査がある。彼は tune という語の発音の正しさについての正解率を男女別で示しただけではなく、自分の発音が正しいと思うかどうかもパーセンテージで示した。その結果は、自分が正しい発音を行っているのに間違っていると思っていると過小評価したインフォーマントの比率は男性が6% で女性が 7% であるのに対して、自分の発音が間違っているのに正しいと思っているという過大評価をしたインフォーマントの比率は男性が 0% で女性が 29% と大きな違いが見られた。このように自己申告型の統計にはしばしば罠が隠されている場合があり、少数の統計のみで判断を下したときに重要な問題点が見落とされるケースが多々あるのだ。トッドの提示しているいくつかの統計にはこうした危うさがあるように思われる。

自由と平等という概念に関する問題点
 近代における国民国家の成立を確固としたものがフランス革命であると考えるならば、その三大精神である自由 (Liberté)、平等 (Égalité)、友愛 (Fraternité) という理念は現在の国家の存在様態を分析するための基盤的分析装置となり得る。トッドは『シャルリは誰か?』の中で友愛という分析概念の設定は行っていないが、自由と平等に基づく考察をこの本の核心部分として提示している (この三つの概念を用いた世界の現状及び未来に関する研究は、たとえばジャック・アタリも行っている)。しかし注意しなければならないことは、自由にしろ、平等にしろ、単に政治的なものでも、経済的なものでも、社会的なものでもなく、この二つの概念 (より正確に言えば友愛を含めた三つの概念) は相互に依存し、影響し合うという点である。それゆえ、かつてカトリック信仰が強かった地域と2015年1月10日及び11日に行われたシャルリ・エブド襲撃事件への抗議デモ参加人数が高かった地域、経済的自由主義の重視及び社会・文化的平等主義の軽視が多くみられる地域、教育レベルが高い地域などが一致することをトッドは統計分析によって導き、その地域をゾンビ・カトリック地域として結論づけた。さらに、ゾンビ・カトリック地域は直系家族的で不平等主義的であり、パリなどの核家族的で平等主義的な地域と大きく対立する考え方を示していることに注目し、フランス全土で300万とも言われるデモの参加者を主導したゾンビ・カトリック地域の住民のフランス共和国憲法に示された非宗教性 (laïcité) を楯にしたキリスト教以外の宗教徒 (ここではイスラム教徒) に対する無知と不平等な扱いを強く批判している。
 それは一面では正しいだろうが、完全に正しいとは言い切れないのではないだろうか。統計的な問題は先ほど指摘したので、ここでは他の視点からトッドの主張の問題点を考えてみたい。神聖なるムハンマドのカリカチュア (肖像の神聖化という問題は後で述べる) の昂然たる提示は、表現の自由の名を借りたイスラム教徒に対する屈辱行為であり、西洋中心主義的人種不平等主義イデオロギーがそこに存在するということがトッドのシャルリ・エブド誌への大きな批判点である。西洋のカリカチュアの確立は16世紀イタリアであると言われ、その風刺の対象は政治家、王侯貴族、宗教家、他国民などあらゆる人々に及んでいる。こうした風刺の精神は近代の批判精神と深く関係し、それゆえに西洋近代の精神的支柱の一つであったことは確かであろう。明治期の日本もカリカチュアの対象として西洋の雑誌にしばしば登場した。フランスの風刺画家ビゴーが鹿鳴館時代に描いた有名な絵がある。西洋のフォーマルな衣装に身を包んだ日本人の男女が鏡にその姿を映しているが、鏡には二匹の猿の顔だけが写っているというものである。この絵を見て激高した日本人は数多くいただろうが、それによってシャルリ・エブド事件のような事件が起きなかった事実は重要なことではないだろうか。西洋近代の自由の精神を日本人が重んじたということでは決してないだろうが、風刺画によってテロを起こすという愚行を明治の日本人は行なわず、当然、その後のデモもあり得なかったのだから。当時の日本人は西洋中心主義に激怒するのではなく、こうした風刺を正面から受け止め、考えた。そこから、これも西洋近代の中核的精神の一つである反省という概念を学んだと言っては大げさになるだろうか。自由の名の下の横暴さがあったとしても、そこに不平等を見て表現の自由を否定するのではなく、不平等をどう乗り越えるかということを風刺する側ではなく、風刺される側から日本人が模索した歴史をもう一度考え直してみる必要があるのではないだろうか。シャルリ・エブド襲撃事件に関して、第一に批判されるべき点はカリカチュアでもデモでもなく、テロリズムであるのだから。

反グローバリズムの解釈に関する問題点
 ソ連及び東欧の共産主義国の崩壊は、資本主義体制のみによる世界経済の一極化、グローバリゼーションをもたらした。グローバリゼーションは自由主義経済を発展させる一方で、経済格差、不平等社会を増長させた。そうした流れを牽引したのはアメリカである。だが、トッドはEU内の強国ドイツを徹底的に否定することによってグローバリゼーション批判を展開している。『シャルリは誰か?』の中でこうした考えは明確に示されていないが、『「ドイツ帝国」が世界を崩壊させる』や『週刊文春』の3月16日号では、はっきりと反ドイツ主義が語られている。前者の中には「(…) もしドイツの覇権かアメリカの覇権か、どちらかを選べといわれたら、私は躊躇なくアメリカの覇権を選ぶよ」という言葉さえある。だが、なぜアメリカを批判せずに、ドイツを批判するのかその理由が明確ではない。私は政治、経済、社会問題の専門家ではなく、グローバリゼーションを厳密に語ることもできないが、トッドのこの反ドイツ主義に対する疑問は大きい。それゆえ、ここではこの視点からの考察を行っていく。
 柄谷行人は『世界共和国へ』の中で、国家と資本主義経済との関係に対して分析し、それぞれ別なシステムである国家と資本主義に関して、「国家なしの資本主義もないし、資本主義なしの国家もない」と語り、その相互依存性を強調している。また、ハンナ・アーレントの考えを援用しながら、近代国家の形態である国民国家は国家内のすべての者を国民という均質な構成員と見なし、そうした体制内で発展した国家が他の国家に対して取る対外政策は最終的に自らのシステムへの同化を求める帝国主義的なものにならざるを得ないと述べている。こうした歴史的展開の中で、経済的自由主義を最重視するアメリカ型のシステムが世界を覆いつくした。だが、ソ連の崩壊とEU内の通貨統一などによってドイツが世界制覇を目指し台頭していったと、さらには、大きな経済成長を遂げた中国が世界秩序を壊しているとトッドは考えている。この意見に簡単に賛成することはできないのではないだろうか。なぜなら、柄谷やアーレントが言うようにある国民国家が対外膨張した場合にその政策は自国のシステムへの同化を強要するものであり、経済的な侵略は、必然的に政治、軍事、社会、文化的な侵略へと拡大し、弱者は強者のシステムに従わざるを得ない方向に向かう。それが資本主義システムの大きな特徴である以上、原理上は経済的に強い国が世界の覇権を握り、それがアメリカからドイツに変わる可能性もあり得る。その変化に危険性があるとトッドは主張している。不安定なドイツ、二度も世界制覇を目指し軍事行動を展開したドイツ、EUを牛耳るドイツなどドイツの負の要素を並べ、アメリカ中心のグローバリゼーションの方がドイツ中心のものよりも世界の安定をもたらすと主張しているのだ。だが、流動する資本主義の動きの中で、いつまでも同じ秩序が維持されることはできるのだろうか。また、アメリカ中心主義の秩序というものは果たしてよいものなのだろうか。トッドの考えは旧秩序を尊ぶ保守主義の表れではないのか。彼の意見には簡単に肯けない疑問点が多々存在する。昨年の1月11日のパリでの大規模デモの先頭集団に、フランス大統領オランド、ドイツ首相メルケル、イギリス首相キャメロン、欧州委員会委員長ユンカーなどが訳も判らずいたとトッドは断言している。しかし、デモにはドイツに支配される欧州の首脳たちがいただけではない。イスラム教国、ユダヤ教国を含む世界44か国の首脳がそこにいた。彼らはみな訳も判らずにそこにいたのか。それでは世界は無能な指導者のみによって導かれていることになる。トッドの主張に反して、そこには意味があったではないだろうか。その意味が正義や自由や平和への願望だけによって成り立っていなかったとしても。この点をもっと深く考えるべきなのではないだろうか。

日本での過剰評価をめぐる問題点
 世界は経済的には一極化したように見えながらもそれぞれの国家における政治・社会・文化問題は、今もなお一多様である。フランスで起きた事件のフランス人にとっての意味と日本人にとっての意味とでは大きく異なる。それゆえ、このセクションでは『シャルリは誰か?』への日本での評価についてだけに絞って考えてみたい。日本では、シャルリ・エブド事件が起きたときに、テロへの批判よりも神聖なムハンマドを冒涜するカリカチュアにしたのだからテロが起きてもおかしくはなく、悪行に対する報いという極端な意見や、襲撃に対するデモも西洋人のエゴの表れであるという意見が少なからず聞かれた。シャルリ・エブドのカリカチュアには西洋中心主義的な白人優位のイデオロギーがあり、テロはその考えに対する当然の結果であるという主張はトッドの考えに近いものであり、日本での書評においてもその点が強調されていた。しかしながら、トッドはフランス人に向けて述べたのに対し、日本のシャルリ・エブド批判はフランス人に向けられているというよりも日本人に向けて語られたものなのではないだろうか。そうした声を、今まで散々有色人種を馬鹿にしてきたのだから当然の結果であるという感情的な怨嗟の発露と考えるのは極端な意見だろうか。特定の国の国民に対するヘイトスピーチの過激化、ネトウヨによる排外主義的発言の急増、愛国主義的軍国主義的な政治・社会・教育的な強化といった日本の最近の風潮を見るならば、極端だとは言い切れない状況にあると思わざるを得ない。トッドの意見を日本人として判断したときに、全面的に肯定できない理由がそこにも存在する。
 多木浩二は『天皇の肖像』という本の中で、明治期の最初には一般大衆にとって無関心でさえあった天皇の存在が、政治的コントロールによってその肖像さえも神聖化されていった過程を的確に分析している。多木は天皇という存在を大衆に知らせるために最初は行幸が行われていたが、大衆の認知度の上昇と写真技術の発達により、天皇が実際に自分と同じ空間にいなくとも、御真影と呼ばれる天皇の写真があるだけで、その写真が畏敬の対象となった歴史を綿密に考察している。また、明治天皇の最初の写真は伝統的な衣裳を着たスタイルであったが、それが西洋のブルジェワ風の軍服を着た姿に変わっていったことも指摘している。そこには見せることによる政治的支配装置としての、また宗教的な崇拝対象としての天皇の身体の提示という問題があった。これとは反対に、イスラム教ではムハンマドの肖像を描くことは禁止されている。身体の問題はある人間がどのような顔をしていてどのような体つきをしているかという問題に留まらず、どのような服装をしているかという問題をも内包している。それゆえ、明治以前にベールに包まれていた明治天皇をベールに包まれたまま崇拝の対象とする民衆支配コントロールの選択をせずに御真影を日本全国の公共施設に下付することは、宗教性と政治性との双方の問題を解決する当時の権力者にとっての最善の方法であり、その方法ゆえに日本の急速な近代化が可能であったと述べ得るものである。だが、イスラム教国ではそのような方法は取られていない。そこに西洋近代との乖離と、西洋とのコミュニケーションの断絶の原因の一つがあるのではないだろうか。日本の近代化の方法が正しかったと言えるのかどうかは判らないが、上述した近代化における見せるものとしての身体性の問題が好例となるように、日本が西欧化の努力によって少なくとも西洋諸国とのコミュニケーションが可能となったのは確かなことである。こうした日本の歴史を無視し、神聖なるものを屈辱するカリカチュアを掲載したのだからテロも止むを得なかったし、その後のデモに参加した人間は愚かな西洋中心主義者たちだと主張している日本人は、あまりにも感情的で、短絡的ではないだろうか。トッドのこの本はそう望んでいなくとも、こうした日本での負の傾向を助長するものになっているように思われる。

 シャルリを認めない自由があると共に、シャルリを認める自由もある。平等を主張するならば、両者の意見を共に尊重する平等性がなければならない。それがどのようなものであれ経済システムの一極化に世界が向かうのであれば、それに伴い社会・文化システムも否応なく一極化へ向おうとする。多文化主義を言葉で言うのは簡単ではあるが、今の世界で作動している政治、・経済・社会システム内で、それを実現することは並大抵のことではないのも事実なのである。また、今年起きたパリ、ブリュッセルでの一連のテロによって今ヨーロッパで起きているテロの問題がシャルリのデモへの報復でもなければ、イスラム教とは無縁な破壊のための破壊であることがはっきりと示されたと思う。トッドの意見に反して不平等は世界のどこにでも存在するが、不平等ゆえのテロはどこにでも存在するわけではなく、それはあまりにも特殊な事柄なのだ。それゆえ、シャルリ・エブド襲撃後の大規模デモはイスラム恐怖症が全面に出たヒステリックなものであるとは私には思われない。それは、よき側面と悪しき側面を併せ持つ一つの歴史的象徴であったと思われるのだ。
 重要なことは、万人にとって平衡となる罪と償いの関係は存在しないということだ。常にどちらかがどちらかを超えているのだ。鵜飼哲は『償いのアルケオロジー』の中で「償いは常に過剰でなければならない。償いが過剰でなければならないということは、逆に言えば復讐は常に過剰になるということでもある。ここに、平和を脅すあらゆる危険と、そこへ至るささやかなチャンスがともども秘められているのではないでしょうか」と述べている。われわれは罪と償いの不均質さと非平衡性の上にしか、自由、平等、友愛という理想を実現できない。トッドの語る正義は現実の混沌性を小さく見積もった閉ざされた正義ではないだろうか。ヴォルテールの名言として知られている、「私はあなたの意見に賛成ではないが、あなたがそれを語る権利を私は命をかけて守る」という言葉は、実は、『ヴォルテールの友人』の作者であるステファン・タレンタイアの創作であったように、人々が歴史として記憶するものは真実ばかりではない。シャルリ・エブド襲撃事件に対するデモは、トッドが断定しているようなヒステリックなイスラム恐怖症であるという閉じられた正義論によって解釈されるべきなのではなく、罪と償いとの歴史的な問いとして語られていくべきなのではないだろうか。もしそうでなければ、世界は復讐の連鎖が繰り返される閉じられた正義に覆われるだけの暗い小さな世界になってしまう。だからこそ、われわれはこの問題をもう一度真剣に考えてみる必要があるのではないだろうか。

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