宇波彰現代哲学研究所

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対象の束と歴史的動き:『「大正」を読み直す』私論


 時代は新たな希望を作り出すものであると共に、時代は掛け替えのないものを抹殺するものでもある。それが、子安宣邦氏の『「大正」を読み直す――幸徳・大杉・河上・津田、そして和辻・大川』(藤原書店、2016、以下サブタイトルは省略する) に対して最初に抱いた感想であった。日本の歴史も思想もまったく知らない私がこの本について書こうと思ったのは、時代とは何か、時代的精神とは何かという問題を熟考する必要性を感じたからである。だが、そこには一つの大きな難問が横たわっていた。天皇の交代によって決定される時代区分を持つ日本において、明治、大正、昭和、平成という近代以降の変遷を考えることは、ある特異性について考えることのように思われたからである。西暦による連続性を断ち切るようにして出現する元号による時代区分は、新時代の幕開けを明示すことができる一方で、時代的連続性を覆い隠してしまう危険性を内包するものでもある。最初に述べた二つの対立する印象と同様に、そこには時代という事象が持つ二面性がある。この書評ではこうした二面性に関して、それが歴史的動きの中で如何なる連続性や変更性をもたらすものなのかという点を中心として考察していきたいと思う。

 

流動するものの中にある連続性と変更性
 パリ第5大学名誉教授で、言語学者・哲学者であるフレデリック・フランソワは、『話すことの実践 (Pratiques de l’oral)(Nathan, 1993:以下、訳書がない場合は原題、出版社名、出版年を記す) の中で、ディスクール展開においては、テーマ、語り口、コード化の方法、言説的位置などの連続性と変更性が大きな問題となると述べている。しかし、この問題は特定の対話関係にあるディスクールの動きにおいて重要となるだけではなく、歴史の流れにおいても重要となるものである。もちろん、後者の動きは言語的なレベルを超える事象を含んでいる。それゆえ、前者の動きをミクロ連鎖として、後者の動きをマクロ連鎖として区別することはできるが、どちらにも連続しようとする力と変更しようとする力とが作動していることには変わりはない。
 元号の変化による時代区分は、イントロダクションでも触れたようにその変化によってもたらされる何ものかがある一方で、その変化によって覆い隠される何ものかがある。『「大正」を読み直す』では、自由・平等・博愛 (フランス革命の三大精神の一つであるFraternitéは「博愛」ではなく「友愛」と訳した方がよいが、ここでは幸徳秋水の訳語に従う) を求める民主的な近代化の必要性を叫ぶ思想と、特別な国としての日本の国家主義体制を最重視する思想という二つの異なるイデオロギーが対比されている。幸徳秋水や大杉栄などの社会主義者、アナーキストは直接行動主義的民主主義者として、河上肇や津田左右吉はリベラル派の研究者として前者の極の代表であることが示されている。それに対して、和辻哲郎や大川周明は思想的変遷があったが、最終的には天皇を中心とした伝統的日本精神の擁護者となった者として、つまりは後者の極の代表者として示されている。この二つの対立する極はタイトルの「そして」という接続詞による前の四人と後ろの二人との分離によっても表記されているように思われるが、問題は二つの極がある時期に前の極が時代の前面に出て後の極を覆い隠し、また別のある時期にはその逆となるという点にある。たとえば、大正期は前の極が後の極を覆い隠しており、昭和前半期は後の極が前の極を覆い隠した (この点に関する詳しい分析は次のセクションで行う)。子安氏の本の大きな探究課題の一つがこうした対立する思想のパワーバランスによってもたらされる歴史的動きを分析することにあるように思われる。
 この動きを考察する時に忘れてはならない点がある。それは二つの対立する極が明治期にその源流を持つということである。子安氏は「「大正」を読み直すことは、「昭和」を、戦前の「昭和」だけではない、戦後の「昭和」をも読み直すことになるのである」と述べているが、研究対象となった六名の思想家は、幸徳秋水が明治4 (1871 [以下 ( ) 内は西暦]) 年、大杉栄が明治18 (1885) 年、河上肇が明治12 (1879) 年、津田左右吉が明治6 (1873) 年、和辻哲郎が明治22 (1889) 年、大川周明が明治19 (1886) 年というようにいずれも明治の生まれであり、明治期の様々な近代化の影響によって思想形成がなされていった人物である。それゆえ、この対立する二つの極が日本近代史に現前していなかったならば彼らの思想形成もなかったと言えるのではないだろうか。たとえば、国体という問題に関しても、明治期のリベラリストの代表である福沢諭吉と権力側の重視する点は大きく異なる。子安氏は『日本のナショナリズムの解読』 (2007、白澤社) の中で福沢の『文明論之概略』を精読し、権力者側の国体論に対する福沢の主張に対して、「日本の近代史の展開はむしろ皇統優位の国体観をもってその原則を転倒させていったのではないだろうか。「体を殺して眼を存する」というイギリスによる植民地支配の事例は、血統にこだわる国体論者への痛烈な皮肉である」と語っている。このように二つの極の対立は明治期にすでに存在していたのだ。それゆえ、大正を読み直す作業は昭和へと通じるだけではなく明治へも通じている。この対立図式による思想史上の変遷は大きな意味を持っているのである。
 しかしながら、問題は二つの極のパワーバランスが変化していったことにあるだけではない。二つの極が常に存在し、対立するイデオロギーを構築し続けたという点にもある。スイスの論理学者ジャン=ブレーズ・グリーズは、『論理と言語 (Logique et langage)(Ophrys, 1990) の中で、対象の束 (faisceau d’objet) という概念を提唱している。この概念はディスクールの展開や関係性の中で示されるパラディグマティックな意味の広がりを表す。「エッフェル塔がある」、「セーヌ川が通っている」、「20区からなる都市である」といった文の連続はパリという対象の束を形成することができる。そこにはディスクールの流れにおけるテーマ構築の問題が内包されているが、この概念とヴァルター・ベンヤミンの星座 (Konstellation) という概念との関連性について述べることも可能である。何故なら、グリーズは対象の束をディスクール概念として提示しているが、時代的なイデオロギーの変遷や連続もマクロレベルでのテーマとして捉えられるものであり、それを対象の束と見なすことができるからである。それと同時に、一目見ただけでは秩序なく無関係に見える星の集合体が、意味づけられた繋がりによって星座として浮かび上がるというベンヤミンの主張する概念とも関係概念としての共通性を持つからである。対象の束や、星座という概念を導入することで、『「大正」を読み直す』の中で提示された二つの極を二つの異なるテーマ展開として探究することができ、歴史的動きの中での二項対立問題の様相をはっきりと顕在化できるようになるのである。

二項対立的動きと近代化
 明治維新による変化は激烈なものであったが、それによって誕生した日本という国家にとって自国の近代化をどのような形で完成させるか、それが大問題であった。だが、性急な近代化は多くの矛盾を生んだ。まずは政治・法律的な側面として、憲法という国家の基本原理を定めた法律について見てみよう。国家の三大要素と呼ばれるものの中に主権という要素があるが、一般的に言って近代化を担う国民国家における主権は国家の構成員である国民にある。だが、明治憲法下における主権は、天皇にあるとする立場と国民にあるとする二つの異なる立場があり、どちらか一方に決定することができずにいたのである。それだけではない。統帥権という問題においても明治憲法では統帥権は天皇が持つとされたが、軍政における軍部の権限と国務大臣の権限との範囲が明確ではなく、時代的趨勢によってどちらか一方の力が強くなり他方を圧する結果となった。とくに満州事変以降、統帥権の名の下に天皇の軍政の代理をする陸軍参謀本部と海軍軍令部の力が国務大臣の介入を不可能にしていった歴史的流れがある。このように政治・法律的な大きな矛盾が存在していたのである。
 また、社会・文化的な側面として、たとえば身体性の問題についても、衣装と政治という側面から、和服と洋服という対立に関する研究を行うことができる。家永三郎は『日本人の洋服観の変遷』の中で国家に強制された衣装としての洋服の着用から個人的合理観に根差した洋服の着用への変化、伝統主義者の和服尊重主義の歴史的後退などについての研究を行っている。そして、洋服が必ずしもリベラルなものの代表とはならず権力と結びついた歴史的動きと関係した場合もあったことが語られており、近代の成立によって発生した二項対立的な事象が西洋的なものがリベラルであり、伝統的なものが保守的・権力迎合的であるというように単純に二分化できない点が強調されている。食という文化的視点においても、和食対洋食という単純な対立図式によってだけでは厳密な分析は不可能である。何故ならこの二項対立は明治、大正、昭和前期の歴史的流れの中で階級による違いが激しいものだったからである。大塚力は『「食」の近代史』において、洋食は明治以降急速に導入されていったが、和食の典型として考えられる一汁一菜の和食でさえ庶民階級に至るまで行きわたったのは昭和初期になってからであり、洋食を庶民階級が口にすることはめったになかったと述べている。また、昭和の前半まで徴兵令によって庶民階級も軍隊に編入された結果、軍隊生活によって洋食を初めて食べたという庶民が少なからず存在していたのである。西洋的なものは支配階級にとってはまずは富国強兵のための道具として重要であったことの一つの証明となるものであろう。西洋の近代的なものと日本の伝統的なものという対立軸はこの視点から見ても、一概に西洋的なものがリベラルなもので、伝統的なものが体制寄りの保守主義的なものであるとは言えず、多角的な分析が必要になることが理解できる。
 こうした複雑さは大川周明の日本精神に対する子安氏の分析の中にも提示されている。日本の近代化はヨーロッパ的システムによってもたらされたものであるが、そのシステムは民主主義的なもののみを含むものではなく、資本主義経済の発展を背景とする西洋中心主義と帝国主義とが混在したものである。こうした相反するイデオロギー的パワーの相克は第一次世界大戦という大惨事を招く一因となった。そこにはヨーロッパ的原理の失敗があると大川は主張した。大正11 (1921) 年に刊行された『日本文明史』において、彼は第一次世界大戦によって明確になった「諸国家内部に於ける階級争闘」と「国際間に於ける民族争闘」という二つの根本的な問題をどう解決するかが世界史の大きな課題であると書いている。子安氏はこうした問題に対して「近代の ‹ヨーロッパ的原理› が社会的格差の拡大と階級対立の激化、そして最後に世界戦争に至り着く形で自らを否定してしまった後に、‹社会主義› という人間社会救済のための方程式が示された」と述べ、大川の考えを要約している。しかし、このヨーロッパ的原理が成功するかどうかは疑問であると大川は考えた。それゆえ、欧米列強の植民地から立ち上がろうとするアジアの復興にはアジア的原理が必要だと説いた。その盟主となるのが日本である。何故なら、伝統的精神とヨーロッパの近代精神を共に有する日本精神によってアジア諸国を導くことができるからである。だが、彼の思想はファシズムへと転落していった。革新的な思想からファシズムへの変遷。「()「日本」が「世界史」の主題的意味をもって、そして「アジア」の盟主の位置から語り直される時、大川はもはやアジア主義的革新者ではない」という子安氏の言葉は重く響く。
 前のセクションの最後で対象の束と星座という二つの概念の類縁性について指摘したが、『「大正」を読み直す』の探究テーマを考えた場合、六人のそれぞれの思想家のイデオロギー的連関性が民主主義的なもの (A) と国家主義的なもの (B) との二つの対象の束として分割できる。この軸を設定することによって、明治、大正、昭和の前期との歴史的な流れは以下のように動いたことが理解できる。明治期はABとがせめぎ合っている。しかし、明治43(1910) 年に大逆事件が起き、BAを圧倒し、Bを主張する勢力によってAが覆い隠されそうになる。その後大正に元老を中心とした藩閥政治に対するAを主張する勢力による反撃があり、第一次民権運動が起こり、大正デモクラシーの時代となる。この時代、Bの勢力はAの勢力に圧倒されそうになる。だが、大正12(1923) 年に関東大震災と権力者による大杉栄の虐殺が起き、大正14 (1925) 年の治安維持法の制定、昭和3 (1928) 年の改正という流れの中で、天皇中心の国体論を叫ぶBの勢力によってAの勢力の声はかき消されていく。そういった歴史的展開の下で、前述したようにAの勢力としての幸徳、大杉、河上、津田が形作る星座と、Bの勢力としての和辻と大川が形作る星座とが構築されていったと述べ得るであろう。こうして二つの対立勢力が対象の束を作り近代思想史の二大テーマとして変遷していったのである。

全体主義と知識人
 日本の近代化は国民国家が歪な形で形成されたために民主主義的側面がどんどん失われ、軍国主義の下で破滅的戦争に向かったという見解は間違ったものではないであろう。だがそれだけではなく、先ほども触れたように西洋における近代化自身にも矛盾するイデオロギーが対立し、民主的なものと国家主義・全体主義的なものが西洋諸国の中にも混在していたのだ。一例を挙げよう。1894年に起きたドレフュス事件では、アルフレド・ドレフュス大尉の冤罪問題を巡ってフランスの世論が二分された。愛国主義に名を借りた反自由主義的、反民主主義的な行動を取った知識人も少なくなかった。そうした知識人の代表的な団体がフランス祖国同盟 (Ligue de la partie française) である。この組織にはアカデミー会員で作家のモーリス・パレスや詩人のフランソワ・コペーなどが参加しており、会員にはジャーナリストのレオン・ドーデ、画家のエドガー・ドガ、音楽家のヴァンサン・ダンディなど多くの知識人が名を連ねていたが、彼らは軍部と国家の尊厳を守ることをドレフュスの無実の罪よりも優先しようとしたのだ。それゆえ、日本の近代化のモデルとなった西洋においてもリベラルなものと国家主義的なものの対立が存在していたのである。この視点から見るならば、問題は反動主義的なものを克服し、正義や自由の精神を如何に貫いていくかということにあるだろう。ドレフュスは1906年に無罪判決を勝ち得るが、それは自由と正義を叫んだリベラル派の勝利でもあった。
 これとはまったく逆の流れとなったものが大逆事件である。大逆事件については詳しく触れないが、この事件の判決に対して起きた大逆事件の再審請求について語る必要がある。この再審請求の棄却という問題は明治憲法下の全体主義的体制が戦後も続いていることの典型的な一例だからである。大逆事件への再審請求は1961年に被告の坂本清馬と大逆罪で処刑された森近運平の妹の栄子が東京高等裁判所に対して行った。しかしながら、その請求は1965年に東京高裁によって棄却、坂本らはすぐに最高裁に抗告をするが1967年最高裁は高裁の再審請求棄却判決を支持し、抗告が却下された。『「大正」を読み直す』に引用された高裁の判決文には「坂本は検事調書、公判供述を通じ一貫して大逆の犯意を否定しているが、明治四一年(一九〇八)十一月「平民社」で幸徳から逆謀を告げられて同意し、決死の士を集めることを同意したという事実は、幸徳らの予審調書などを総合してこれを認めることができる」という言葉があるが、これは当時の検察側のでっち上げであり、客観性を大きく欠いた判断を真実とする異常さが示されている。また、高裁の裁判官の最終審議後の合議が行われていない可能性が高いにも係らず高裁は請求を棄却した可能性が極めて高いのだ。それにも係らず、最高裁は高裁の審議に関する問題点をまったく検証せずに判決を認めたとしか考えることができない。司法機関によるこの審議請求の検討の杜撰さと不誠実さには目を覆いたくなる。正義や真実を抹殺するのは政治だけではなく、司法においても起きることがこの審議によってもはっきりと示しされている。明治の体制が戦後の昭和にまで引き継がれている恐ろしい実例である。
 ここで『「大正」を読み直す』の大きな主題の一つである知識人という問題について考えてみたい。北河賢三の『戦争と知識人 (日本史リブレット65)』には昭和5 (1930) 年頃から 昭和16 (1941)年にかけての知識人が全体主義体制に協力していく姿が端的に書かれているが、そうした萌芽が大正期にあったことを子安氏は鋭く見抜いている。大正デモクラシーの陰に隠れた全体主義的な自由の抑圧。それが典型的に現れたのは大正14 (1925) 年の普通選挙法と治安維持法の制定である。それはまさに飴と鞭のセットであった。民主的政治運動の抑制装置としての治安維持法は、その後、リベラル派の知識人を激しく弾圧するようになる。こうした歴史の流れを踏まえて知識人とは何かという問題に答えなければならないが、まずはこの問題に対するいくつかの意見を提示する必要性があるだろう。エドワード・サイードは『知識人とは何か』(平凡社、大橋洋一訳) の中で「知識人は、() 権威に対してたち上がり、権威に対して言葉を返せるような空間を確保しておかなければならない。なんといっても、今日の世界では、疑問の念をもたずに権威に隷属することが、活動的で道徳的で知的な生活に対する最大の脅威のひとつなのだから」と述べている。また、モーリス・ブランショは『問われる知識人:ある省察の覚書』(月曜社、安原伸一朗訳) の中で、「知識人は、判断を下したり態度を決めたりしなくてはならないだけでなく、身を晒し、必要とあらば自分の自由と実存という代償を払ってこの判断の責任を負うのだ」と述べている。民衆に代わって権力の虚偽を暴き、権力者の暴力に抵抗し、民衆を教化すること、それがまさに知識人の仕事なのだ。では、大正期の日本の知識人はこうした務めを真摯に行ったであろうか。この点には大きな疑問が残る
 子安氏は『「大正」を読み直す』の中で、「私がその中に産み落とされた「昭和」の全体主義は、これを生み落とした「大正」から見ることによって、記憶の中の心象を脱して解読可能な歴史的構成体になったのである」と語っているが、この昭和の全体主義を押し進めたのが軍国主義政府であるという事実は動かし難いが、それを支えるために多くの日本の知識人が権力に屈服し、支持し、協力した事実も忘れてはならない。先ほど挙げた北河の『戦争と知識人』には『日本学芸新聞』の19386月号の杉山平助の談話の中で語られたいくつかの言葉が掲載されている。杉山は、そこで、「この戦争に勝たねば平和はこやアしない。平和なんていゝ言葉だが、それは要するに最早寝言である」と言ったことが示されている。このような発言をした杉山は、大正期にはリベラル派の文芸評論家として有名だった人物なのだ。『「大正」を読み直す』の後半部で書かれた和辻や大川の変節は彼らだけのものではなく、多くの知識人が行ったことなのだ。そうした意味で、この段落の冒頭で示した言葉はとても重いものだ。

 上記した論述だけで十分な検討ができたと言うことは難しいが、私がこの書評の中で語りたかったことは一通り書くことができたと思う。それゆえここでこの書評のまとめを行いたい。子安氏は明治、大正、昭和という日本の近代化の流れを歴史的連続性と変化を追いながら二つの対象の束を構築し、その二つを支柱として二つの知識人の星座を浮かび上がらせていったと理解できるだろう。それは日本の近代化の思想的な動きとそこに孕まれていた全体主義性を実に見事に描き出した作業である。だが、ここで最初に指摘した難問に答えなければならない。それは年号による変化は西暦による連続性を断ち切る可能性があるのではないかという問題である。19世紀の西欧社会は資本主義と市民社会の確立によって、前近代的な絶対主義王政国家とはまったく異なる国家を作り上げた。だが、19世紀後半から20世紀前半にかけては各国が植民地獲得競争を広げる帝国主義を展開した。そこには民主主義的な自由や平等の精神はまったく反映されていなかった。こうした世界史的な大きな流れと日本の近代化の流れとを比較する必要性もあるように思われる。日本の近代化は明治政府による上からの改革によって推進されたものである。そのため、富国強兵のスローガンに表明されているように西洋の持つ民主主義的なものよりも、経済力と軍事力の強化が近代化の第一の目的であった。市民社会における自由や平等といった目標は二の次であったのだ。そこに急ぎ過ぎた近代化による市民社会の未成熟さを見出すことは容易である。
 しかしながら、西洋の近代化においても国家主義的、全体主義的側面はどこの国にも存在していた。そうした側面がファシズムの温床となったように考えられるが、ファシズムを支える神話性の尊重というイデオロギーは絶対主義王政に起源を持っているように思われる。それは、ルイ14世の「朕は国家なり (L’état, c’est moi)」という言葉に代表される王権神授説に求めることができると思われるのだ。何故なら、この理論には神話的側面と国家的側面を統合する王の存在が見られるが、近代社会の主人公である市民の姿はまったく見えないからである。前近代社会における王の位置はまさにファシズムにおける独裁者が理想とする位置にあるのではないだろうか。このモデルは近代日本における天皇の存在性に対しても、とくに軍国主義の坂を転げ落ちるだけだった時代の国家思想に大きな影響があったように思われる。国体の中心となり得る天皇の存在があったからこそ戦前の全体主義は可能であったからである。
 以上の考察によって、『「大正」を読み直す』における日本近代思想の分析装置として用いられた二つの対象の束は、世界史上の歴史展開に対しても有効な分析装置であることが理解できたであろう。もちろん対象の束によって形成されるリベラルな思想家と国家主義的・全体主義的思想家の二つの異なる星座の対立に関しても同様である。しかし、明治、大正、昭和と続く日本の歴史展開には特異性が存在している。それは子安氏がこの本の中で暗黙裡に語っている知識人の支配体制への反抗の弱さと民衆への教化の弱さという問題点があったからである。この二つの弱点は日本の知識人の大きな問題点として常に存在していた。大正デモクラシーは一つの反例として考えることも可能であるが、子安氏の分析はそこにもこの二つの弱点があったことをはっきりと証明した。それだけではなく、ドレフュス事件はリベラル派が国家主義的保守派に勝利し、ドレフュス大尉は無罪を勝ち得たのに対して、大逆事件は客観的に判断すれば冤罪であるにも係らず、戦後の再審請求さえも棄却され、正義の声が司法によって抹殺された事実があったことに注目する必要がある。二つの対立する勢力は戦後も続き、日本においてはリベラル派の力は戦後においてさえも確固としたものであると言うことはできないのだ。『「大正」を読み直す』はこの点を強調することも忘れてはいない。 
 最後にこの本の成果と平成という時代について一言だけ述べ、この書評を終わりたいと思う。この本には平成については語られていない。だが、子安氏は平成の持つ薄気味の悪さを十分に意識しているように思われる。二つの対立する対象の束が戦後も引き続き存在したことは先ほど述べたが、平成においてそれが消滅したとは考えられない。全体主義や国家主義の時代は過去のものであるとするのが一般的な意見であろうが、果たしてそうであろうか。津田左右吉を弾劾した国粋主義組織の原理日本の考えと平成に設立された日本会議の考えに類縁性はないだろうか。軍国主義時代の国体論はまだ死んではいないのではないだろうか。そうしたイデオロギーはただ隠されているだけではないだろうか。そのベールを剥ぎ取る必要性がある。子安氏はこうした問題性も射程に入れながら、この本において厳密な考察を行っていった。しかし、忘れてはならないことがある。それはこの問題は子安氏だけではなくわれわれも探究しなければならないという事柄だという点である。『「大正」を読み直す』はその探究をしっかりと導いてくれる優れた概説書でもある。

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