宇波彰現代哲学研究所

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鉛とちょうちょう:八木重吉と自由民権運動

 
「小さな詩人について語ろう。とてもちっぽけだが、清らかな詩人について。」そう呟き、違うと思った。最初、私は八木重吉と町田市民文学館で開かれているこの詩人に関係するオブジェの展覧会について書くつもりだった。しかし、八木重吉は私にとってあまりにも繊細で、弱過ぎる。出展されていた手紙や日記の文字も、彼の詩と同様に丸く、細かく、脆い。高等師範時代の課題として描かれた写実画も微細ではあるが、脆弱だ。可愛らしいリボンで留められた手作り詩集。重吉ファンにとってはとても魅力的なものであろう。だが、私の目には妙に女々しく陰鬱なものに写った。私は半ば失望して展覧会場を出た。
町田国際版画美術館が近くにある。イギリスの美術家デイヴィッド・ホックニーの版画展がやっているはずだ。そこに行こうかと思ったとき、文学館の棚に置かれた町田市立自由民権資料館のフライヤーが目に入る。「自由民権資料館開館30周年記念特別展:武相民権家列伝」という文字が読めた。この資料館については以前から知っていたが、町田駅から30分ほどバスに乗らなければ到着できない場所にある。こういう機会でなければ行くことはないだろう。私はホックニー展ではなく、特別展に向かった。
まったくの偶然が二つの事象を結びつけた。常識的に考えれば結びつくことがない八木重吉と自由民権運動。この二つの事象の連続性。それを見出した私は、このテクストを書き始めた。

 ネガティブ・ケイパビリティ

 「消極的受容能力」などと訳されているネガティブ・ケイパビリティ (negative capability) は八木重吉が敬愛したイギリスのロマン派詩人ジョン・キーツの提唱した概念で、未完成なものや不完全なものであってもその本性を、確実に、入念に受け入れることができる能力のことである。八木重吉の詩に対して度々語られる内省する近代人としてのキリスト教詩人の苦悩といった視点は、些末的な問題であるように私には感じられる。それよりもキーツのこの概念との連関性を通して詩人自身と彼の詩作について考えた方がはるかに深く彼の全体像を捉えることができるように思われる。この問題に関して、まずは語っていこう。
 八木重吉は1898 (明治31) 年、東京府南多摩郡堺村 (現在の東京都町田市) の農家の次男として生まれた。堺村は当時武相と言われ、自由民権運動の数多くの闘士が生まれた土地の中心部に位置していた。だが、詩人が自由民権運動に対して興味を抱いた形跡はない。彼にとっての関心事はキリスト教の神と創作活動であったようだ。妻であった吉野登美子 (詩人と死別した後に再婚し、吉野姓となる) は、『琴はしずかに』の中で、重吉が本格的に口語自由詩の創作を始めるのは結婚後の24歳からであるが、僅か5年あまりの間に2000編を超える詩を書いたと述べている。
 ところで、この詩人の作品はどう評価されているだろうか。吉野弘は「八木重吉の詩を単純であるというのは、多分正確ではない。むしろ、純一な情感を鮮やかに取り出すことに長けていた詩人であったと思う」と語っている。郷原宏は「自然の聖性を賛美した敬虔なクリスチャン詩人」であると同時に、「すぐれて意識的な近代詩人」でもあったと形容している。さらに、田中清光は「その詩の、平明で素直な表現でありながら、しかも人間存在の根源的なものを表出しえているところが、とりわけ人の心をとらえてきたのであるまいか」と主張している。これら三人の詩人の考えにあえて反論しようとは思わないが、納得のいく解釈でもない。そこには過剰な評価がある一方で、何かが欠けている。その不足しているものとは何であろうか。
 確かに重吉の詩の中にクリスチャニズムを見出すことは容易である。また、近代人であったと言うこともあながち間違いではないだろう。だが、「純であれ。然し、リズム、メロデイを失ふな。美しかれ、しかし力あれ。リズム、メロデイなき「純」はあり得ぬ。真の「力」なき「美」はない」というキーツの詩に対して書かれた覚書の言葉を読むと、ネガティブ・ケイパビリティというキーツが考えた不思議な能力を重吉も感じていたように思われるのだ。重吉は詩の力を信じ、そして恐れた。それゆえに次の詩句を記したのではないだろうか。
 なぜわたしは
 民衆をうたわないのか
 わたしはのおやぢは百姓である
 わたしは百姓のせがれである
 白い手をしてかるがるしく
 民衆をうたうことの冒瀆をつよくかんずる
 神をうたうがごとく
 民衆をうたうる日がきたなら
 その日こそ
 ひざまづいてれいかんにみちびかれてものを書こう
 
武相の自由民権運動
 詩人の生まれた武相は古くから農村地帯であった。それと同時に、多くの自由民権運動家が民衆を教化した地域でもあった。三多摩地区と縁の深い文学者である北村透谷や中里介山などはこの運動との繋がりが深かった。ところが、先ほども述べたように、八木重吉と民権運動との関係性を示す資料も証言も存在してはいない。彼の生まれた1898年には自由を叫ぶ最初の大きな波はほぼ完全に消え去っていた。しかし、前述した彼の詩は自由民権運動との接点を感じさせるものではないだろうか。さらに、重吉の思春期から青年期までは、明治の自由主義思想の息吹を受け開花した大正デモクラシーの時代であり、その影響が重吉の考え方にまったく影響しなったというはずはない。だが、この問題は次のセクションで詳しい検討を行うとして、ここでは武相の民権運動について語っていこう。
 明治10 (1877) 年頃から、武蔵と相模の両国を合わせた武相では、数多くの民権運動家が誕生していった。自由民権資料館常設展解説シートを読むと「(…) 武蔵と相模に分かれて活動していた運動を、一つにまとめようとしたのが町田市域の民権家でした。彼らは、1881 (明治14) 年に原町田で武相懇親会を開き、その後も武相の自由民権運動をリードしていくことになります」という言葉が見出せる。南多摩郡、西多摩郡、北多摩郡の旧三多摩地区は、とくに民権運動が盛んな地域であり、八木重吉が誕生した町田はこの運動のまさに中心地であったのだ。それでは、武相地域の民権家について見ていこう。自由民権資料館開館30周年記念特別展で取り上げられた民権家は約30人であるが、三多摩地区と関係の深い主な人物は、南多摩群の石阪昌孝、村野常右衛門、大矢正夫、西多摩郡の千葉卓三郎、深沢権八、指田茂十郎、北多摩郡の吉野泰三、内野杢左衛門、鎌田訥郎などである。
 歴史学者の色川大吉は『民衆史の発見』の中で、当時の民権派の自由主義的・進歩的思想家について、「(…) 民権派の有志、エリート、指導者を主体と考えての革命派と、当時の困窮していた、そして現に立ちあがりつつあった農民を革命の主体と考える革命派と、これを分けて考えなくちゃいけない」(すべての民権家に対して「革命派」と一括りにすることには大きな問題があると思われるが) と述べ、さらに、前者のグループの民権家に対して、「(…) あくまでも志士が革命の主体なんであって、農民は随行者・協力者程度としか考えていない」と述べている。それとは逆に後者のグループの民権家は、「(…) 民衆こそが変革の主体であり、志士とか有志者は、むしろ助っ人として農民のグループに馳せ参じるのだ」という考えであったと主張している。石阪昌孝や大矢正夫などは前者の民権家に、北村透谷などは後者の民権家に、色川は分類している。色川の指摘は、自由民権運動が日本の近代自由主義の基盤となる政治運動であったが、最初の近代的民衆運動であったからこそ、それは一枚岩のような絶対的で均質なイデオロギーによって支えられていたのではなく、異なる考え方が共存し、それが政治運動の差異も生んでいったことを明確に示している。 
 北村透谷は、社会が荒廃し、人々の心が荒んでいった様相を「世運傾頽」という言葉で表していたと色川は前述した本の中で書いている。確かに、1884年の自由党解党、秩父困民党蜂起失敗、1885年の武相困民党の壊滅、そして1889年の大日本帝国憲法制定といった時代の趨勢の中で、自由民権運動は衰退していった。だが、民主主義の確立、自由や平等の精神の尊重、日本の大多数の人口を占めていた貧しい農民たちの救済といった理想のために立ち上がった民権家たちが、日本の近代的精神を築き上げたのは紛れもない事実である。この運動を一言でまとめあげることは不可能ではあるが、私は「鉛のような運動」であったような気がする。その理由についても次のセクションで語ろうと思う。
 
鉛とちょうちょう
 八木重吉が創作したものの中に、「鉛とちょうちょう」というタイトルの短い詩がある
鉛のなかを
 ちょうちょうが とんでいく
 この詩にある「鉛」が自由民権運動のメタファーであり、「ちょうちょう」が八木重吉のメタファーである。そう私には思われる。それは直感にしか過ぎず、実証性に乏しいものかもしれない。だが、歴史的・地理的なレベルでの間テクスト性という視点から考えるならば、鉛とちょちょうが今語った事象のメタファーとして機能していると捉えることも可能ではないだろうか。そして、そう考えることで、文体論的なメタファーという問題だけではなく、歴史的・地理的な連続性も、つまりは大きなレベルでの間テクスト性、すなわち、対話性も浮かび上がってくるのではないだろうか。
ちょうちょうと八木重吉とを結びつけることは比較的容易に理解できるだろう。重吉の詩の持つ繊細さや軽やかさ、柔らかさや可憐さはちょうちょうという形容がぴったりとする。しかし、鉛と自由民権運動との繋がりは簡単には了解できないだろう。それゆえ、まずは鉛という物質の特質について書く必要性がある。鉛の特性を調べると、「非常に柔らかく、ナイフで切ることができるが、アンチモンやヒ素などの不純物が混じると硬くなる」といったもの、「毒性があり、腹痛、嘔吐、伸筋麻痺などの中毒症状を起こす。また血液に作用すると溶血性貧血、免疫系の抑制、腎臓への影響などを引き起こす」といったもの、「放射線を通しにくい性質があり、とくにγ線、β線、X線に対する最も効果的で、吸収能力が高い遮蔽材として使用される」といったものが挙げられている。さらに、大多数の弾丸の弾芯は鉛合金が使われているという記述もある。すなわち、毒性を持ちながらも、放射線から人体を守ることもでき、弾丸としても使われる貴重な物質なのだ。こうした攻撃性と保護機能という特質を合わせ持つ「鉛」を自由民権運動や民権家のメタファーとして考えることは十分に可能であろう。
だが、「鉛のあいだをとんでいくちょうちょう」とはどのようなイメージであろうか。弱く、はかなく、脆いちょうちょうが空高く舞い上がるためには、激しい突風や嵐、爆弾から守られる必要がある。鉛を、ちょうちょうを守るためのプロテクターとして捉えることが可能であろう。また、鉛を鉛弾として考えるならば、弾丸の飛び交う間をちょうちょうが飛んでいる有様を思い浮かべることも可能であろう。防御的なものと見なしても、攻撃的なものと見なしても、いずれも軽やかに飛ぶちょうちょうの背景には戦闘的な光景がイメージされる。鉛とちょうちょうという言葉が並んだとき、この二つのモノがあまりにも懸け離れているゆえにかえって二つのモノの存在性の強さが増してはいないだろうか。武相に生まれた鉛は武相に生まれたちょうちょうをも生んだ。このような発想は極端なものであろうか。
 武州は農村地帯。鉛のように重く鈍い農民たちの生活。その辛い生活を解放しようと立ち上がった自由民権運動の活動家たち。多くの民権家と交流を持った北村透谷の詩編は八木重吉の愛読書の一つであった。二人の詩的テクストはまったく異なるものである。しかし、キリスト教者として、また武相の息吹を受けた詩人として、二人には相通じる詩情があったのではないだろうか。それだけではなく、武相の風土が育んだ自由の精神、貧窮する人々を助けようとする思いは重吉の詩の中にも脈打っている。
 中島敦の小説『悟浄歎異―沙門悟浄の手記―』の中に、星空の輝く夜、大樹の下で眠る三蔵法師を見つめながら悟浄が一人呟く次のような言葉がある。「師父 (しふ) はいつも永遠を見ていられる。それから、その永遠と対比された地上のなべてのもの・・の運命 (さだめ) をもはっきりと見ておられる。いつかは来る滅亡 (ほろび) の前に、それでも可憐 (かれん) に花開こうとする叡智 (ちえ) や愛情 (なさけ) や、そうした数々の善 (よ) きものの上に、師父は絶えず凝乎 (じっ) と愍 (あわ) れみの眼差 (まなざし) を注 (そそ) いでおられるのではなかろうか」(原文ルビは括弧内に表記、傍点は作者本人による)。悟空や悟浄や八戒は強大な敵に対する攻撃の力と防御の力を兼ね備えているが、三蔵法師という脆弱だが高貴な存在者がいなければ自らの進む道を照らすものを失う。三蔵法師にしても、悟空や悟浄や八戒が彼を守り、師父として尊敬しているからこそ高貴さを増す。こうした関係は、八木重吉と武州の民権家の関係に対しても述べ得るのではないだろうか。
 
 バスを降りて、自由民権資料館に向かう。入り口の傍にあった入場者名簿に名前を書く。昼をだいぶ過ぎた時間だったが、私が二人目の来館者だった。それほど大きな建物ではないが、室内がしんとしていたためかとても広い空間にいるように感じられた。順路に従ってゆっくりと展示物を見る。三多摩地区出身の、あるいは、この地域で活躍した民権家にゆかりのある品々が飾られている。しかし、解説に書かれている民権家の名前をいくら見ても、私が知っている名前はほとんどなかった。辛うじて北村透谷の義父の石阪昌孝と五日市憲法草案を起草した千葉卓三郎を知っている程度だった。
 青木正太郎、細野喜代四郎、霜島幸次郎、上田忠一郎、井田文三、下田伊左衛門、比留間雄亮、渡辺寿彦、本田定年、難波惣平、難波春吉、山口佐七郎、長谷川彦八、肥塚龍、水島保太郎、武尾弥十郎といった初めて知る名前を読みながら、私は、ふと、「鉛のような人々」という言葉に囚われた。それと共に八木重吉の「鉛とちょうちょう」の詩が思い出された。鉛とちょうちょうとのコントラストが八木重吉と民権家とのコントラストに重ね合わされた。キーツのように詩の力を信じた重吉と自由を求める民衆の力を信じた民権家、重なり合った二つのイメージ。秋の武相。だが、空は重く鈍い。枯れ葉が落ちている田舎道。突然、重吉が語ったように琴がしずかになりだした。私はそのイメージを抱きながらバス停へとゆっくりと歩いて行った。

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