宇波彰現代哲学研究所

多種多様な「知」の交流を通じ文化創造との実践的な橋渡しをめざし、新たな学問分野の開拓を行う研究機関のブログです。

『ミトロジー』再読 その2

『ミトロジー』はその題名の示す通り、フランスの大衆文化のさまざまな現象を神話として記述した書物である。そして神話とは、すでに述べたように言語であり、また集団表象にほかならない。そしてバルトが分析したのは1950年代のフランスの小市民階級にとっての神話であるから、そのような神話の分析を検討することによって、バルトの時代とわれわれの時代との差異もまた明白になってくるだろう。バルトは『ミトロジー』の序文のなかで、『ミトロジー』の目標が《フランスの日常生活の神話についての考察》であると述ベている。(9頁。以下『ミトロジー』の引用は、 1970年刊のポアン叢書版による。現代思潮社刊の篠沢秀夫氏の訳が全訳ではないためである。)
神話とはことばであり集団表象のことであるが、そこに登場する人物は当然のことながら神々になる。 『ミトロジー』の最初の章はプロレスを素材にしていて、そこで拡げられるプロレスとボクシングの違い、プロレスにおける記号の明瞭さの指摘など、最初の章として読者に楽しみを与える要素は十分に含まれている。この章でバルトはプロレスラーは神々だと言っている。また、アルクールのスタジオで写真を撮影される映画スターも神である(24頁)。それは彼らが小市民のたえまない話題になるからである。神話とは大衆の話題にほかならない。エドガール・モランの『時代精神』第1巻でも、いわゆる有名人は、《オリンポスの神々》として扱われていたことが想起される。バルトはこの『ミトロジー』の末尾に付された「神話・現代」の冒頭で、《神話はひとつのことばである》と書き、その条件として、《神話はコミュニケーションの体系であり、メッセージである》と主張している(193頁)。《コミュニケーションの体系》というのはわかりにくい言い方であるが、要するに突発的に語られることではなく、大衆もしくは小市民階級の意識のなかに何らかの位置を得るほどに、連続的にまたかなり広範囲に語られることでなければ、《神話》としては成立しないだろう。
すでに述べたように、バルトは《集団表象》という概念を《神話》と同じ意味で用いている。神話を語る主体は、大衆文化のばあいには大衆なのだが、『ミトロジー』では1970年版の前書きに《大衆文化》という用語が使われているだけで、一般には小市民階級(プチブルジョワジー)という用語が使われている。また、群衆(foule)という用語も使われている。それは「結婚」の章においてであって、そこでは派手な結婚式をバルトは2つの家族のあいだのポトラッチとして分析し、そのポトラッチが群衆の眼の前で行われる必要があるのだと述べている。群衆とはこのばあい教会や広場に集まるひとたちのことである。こういう結婚式においては、《富の浪費を取り囲む群衆の眼にこのポトラッチを見世物として示すこと》が重要なのであり、そのためには《群衆が必要》(47頁)なのである。(この視点をもう少し先へ進めたところにボードリヤールがあるように思われる。)
また、 『ミトロジー』ではそれほどひんぱんに映画が論じられているわけではないが、ここで考察している神話の主体は誰かという論点にからませるならば、マーロン・ブランドを神話化するのは、写真の多い週刊誌の女性読者だとされている(48頁)。バルトは、女性向き週刊誌『エル』は《神話の宝庫》であると述べているが(128頁)、エドガール・モランも『時代精神』のなかでしばしば「エル」に言及しているのであって、 「エル」の読者こそ、神話の重要な主体だというベきであろう。1950年代には、まだそういう神話の主体が成立しえたのである。今日の状況はそれとはかなり異なりつつあるのであって、この問題については後述する。(続く)

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仮想算術の世界 2008年02月17日(Sun) 04:59