宇波彰現代哲学研究所

多種多様な「知」の交流を通じ文化創造との実践的な橋渡しをめざし、新たな学問分野の開拓を行う研究機関のブログです。

アンジェイ・ワイダ:ポーランドの光と影への眼差し

 ポーランド人としてポーランドを見つめ、ポーランドを語り、ポーランドを撮り続け、ポーランドと共に生きた映画監督アンジェイ・ワイダ (原語に近い表記をすれば、「ヴァイダ」となるがここでは通称に従い「ワイダ」と記す)。彼の遺作である「残像」が神保町の岩波ホールで6月10日から7月28日まで公開されていた。この作品を見た私は、何度も言われてきた問題ではあるが、ワイダとポーランドとの強い関係性について改めて考えさせられた。そして、彼の遺作に関して考察しようと思ったこのテクストの執筆方針を変えた。ワイダの個々の映画について語るのは映画評論家や映画学の専門家に任せればよい。それよりもワイダの映画にとって決して欠くことができないポーランドという根本的なテーマについて語る必要があると思ったのだ。
 ワイダは『映画と祖国と人生と…』(西野常夫監訳:以後彼の言葉の引用はこの本からである) の中で、1926年、ポーランド北東部の都市スヴァウキで、陸軍将校の子として生まれたと述べている。父は第二次世界大戦中の1942年に起きたカティンの森事件でソ連軍に虐殺された。それが後に彼が「カティンの森」を制作する大きな動機となる。少年期は戦争とナチス・ドイツの占領時代だった。このポーランドの悲劇を彼は「世代」、「地下水道」、「聖週間」などの中で描いている。長い戦争が終わった。しかしポーランドは解放されなかった。スターリン体制を信奉する社会主義政権によって自由が奪われたのだ。1945年から1988年までの出来事は「灰とダイヤモンド」、「大理石の男」、「鉄の男」、「残像」などに描かれている。それでもポーランドは自由を求めて新しい時代へと突き進む。そして1989年に民主化に成功。この時代の歴史展開は「ワレサ 連帯の男」などに描かれている。ポーランドの現代史だけでなくそれ以前の歴史についても、ワイダは「灰」、「パン・タデウシュ物語」などの作品の中で取り上げている。このようにワイダの映画作品とポーランドとの関係性は極めて深く、この問題を問うことなくワイダの作品について考察することは絶対に不可能であるのだ。
 しかし、ポーランドは一元的で不動の存在ではない。歴史の中で、消滅し、再び現れ、また消え、さらに現れと様々な動きの中の接点にある存在である。さらに民族的に言っても、ポーランドを故郷としたのはポーランド人だけではなく、ユダヤ人、ドイツ人、リトアニア人、ロシア人といった人々がこの国と深く係わった。それゆえここではワイダとポーランドとの関係性に対する検討を行うために、「ポーランド小史」、「ポーランド派」、「祖国を語り続けたワイダ」という三つの視点を導入しようと思う。なぜならこれらの視点は、この関係性を考察するための導き糸として十分に機能すると思われるからである。 

ポーランド小史
 ポーランド (原語のポルスカ [Polska] ) の語源は「野原」であるとする説と、伝説上の民族「ポラン族」であるという説とがあるが、この国の国家としての歴史は966年に始まる。ピャスト朝の開祖であるミェシェコ1世がポーランド王国を統一した年だ。その後、100年間の発展、統一期間があり、それに続いた約150年間は分裂の時代であった。再統合を果たしたのは1386年から始まるヤギェヴォ朝の時代であったが、この王朝の君主はポーランド王だけではなく、リトアニア、ハンガリー、ボヘミアの王も兼ねていた。ドイツ騎士団のポーランド史登場は、王国内のプロイセン人対策のためにピャスト朝のコンラト1世が1226年にドイツ騎士団を招集ことから始まる。プロイセン人平定の功績から王国内に騎士団領が誕生したのだ。13世紀から16世紀にかけて、ポーランド王国と対立しながらドイツ騎士団は領地と勢力を拡大していった。1569年から1795年はポーランド・リトアニア共和国の時代である。この国は貴族的共和国と言われたように、民衆に選挙権はなかったが貴族による選挙に基づき国王が選ばれる多民族国家であった。
 近代に入り18世紀になると、国王選挙に対する外国の干渉が深刻化する。大北方戦争 (1700-1721) やポーランド継承戦争 (1733-1735) などの対外戦争や内戦が繰り返された。18世紀後半、1772年、1793年、1795年に、プロイセン王国、ロシア帝国、オーストリア帝国によるポーランド分割が行われ、ポーランドは国家として消滅する。しかしナポレオンが登場し、ポーランドはワルシャワ公国として国家を再建する。それも束の間、ナポレオンの没落後1815年のウィーン公会議でロシア皇帝を元首とするポーランド立憲王国が成立する。この時代の歴史がワイダの「灰」や「パン・タデウシュ物語」に詳しく描写されているが、ロシア帝国からの独立運動として特筆すべき事件は1830年の十一月蜂起と1863年の一月蜂起である。前者の後、多くのポーランド人が西ヨーロッパに亡命し、後者の後、10万人とも言われるポーランド人がシベリアに流刑にされた。
 第一次大戦後、1919年に行われたベルサイユ条約の民族自決主義の原理に支えられ、ポーランド第二共和国が誕生する。だが1939年第二次大戦が始まり、ポーランドはナチス・ドイツに占領され、ファシズムの弾圧に喘いだ。この時代、ポーランド史において三つの重大な出来事が起きた。前述した「カティンの森事件」、「ワルシャワ蜂起」、「ナチスによって建てられた強制収容所におけるジェノサイド」である。ワルシャワ蜂起は1945年に起きた大規模な抵抗運動だが、「地下水道」に描かれているように連合国とくにソ連はこの蜂起を起こしたポーランド人を見殺しにし、蜂起に参加した多くの人々が命を落とした。強制収容所はナチスによって建設されたものであったが、アウシュビッツ収容所に代表される絶滅収容所のすべてがポーランドに作られたという歴史は重く暗い影を今もこの国に投げかけている。ポーランド各地には11カ所の強制収容所があったがその中の6つは絶滅収容所だった。ポーランド内にあった強制収容所全体で少なくとも230万人のユダヤ人、捕虜、障害者、同性愛者、政治犯が惨殺された衝撃的な事実は注記しなければならない。この時代のユダヤ人問題をワイダは「コルチャック先生」や「聖週間」の中で物語っている。
 第二次世界大戦が終わってもポーランドはあまりにも大きかった戦争の傷跡を癒すことができなかった。それだけではなく、新たな支配者となったスターリン体制下のソ連に服従する権力者たちが国民の自由を抑圧した。抑圧されながらも自由と民主化を求めてポーランド国民は行動した。そして遂に1989年にポーランド共和国が成立し、民主化に成功した。この時代を描いたワイダの作品としては「灰とダイヤモンド」、「大理石の男」、「鉄の男」、「残像」などを挙げることができる。 

ポーランド派
 ワイダはポーランド派の旗手として語られることが多いが、ポーランド派とはどのような映画グループであるかを述べることは容易なことではない。何故なら、マレク・ハルトフが『ポーランド映画史』(西野常夫、渡辺克義訳) の中で指摘しているように、「スターリン主義映画の退屈な時代とは異なり、「ポーランド派」の時期はテーマや映画手法が様々で、極端な形式や思想表現があり、また純粋に娯楽性を追求したものもある。美学的特質が多様で、製作者の表現方法も多岐にわたるうえ、同派が開放的性格を持っているがために、同派を定義したり要約したりするのが難儀な仕事になっている (…)」からである。だが、ポーランド派が1940年代後半以降のポーランド映画の主流であった社会主義リアリズム作品への反抗の形で1950年代後半に形成されたのは確かなことである。
 ポーランド派を理解するために、「残像」の中でも何度も批判的に言及されている芸術運動におけるスターリン主義と同義である社会主義リアリズムについて、先ずは話す必要がある。このイデオロギー及び運動は、社会主義国の中心的芸術理論であった。公式には1932年のソ連共産党中央委員会で決定された以下の二大方針に基づく芸術活動を示す。一つ目は「社会主義革命が発展しているという認識の下で、空想的ではなく現実的に、歴史的具体性をもって作品を作り上げる」というもので、二つ目は「芸術における描写は労働者を社会主義精神に添うように思想的に改造し教育するように行わなければならない」というものである。当初は社会主義的理想を求め活発な芸術活動が行われていた。だが、スターリン独裁体制下でのイデオロギー的硬直化によって、社会主義リアリズムの作品は労働者や農民大衆にも判りやすく写実的でなければならず、さらには、共産党の許す範囲の現実しか表現できないものとなっていった。
 こうした状況を打破するためのモデルとなり、ポーランドにおける当時の若手映画監督に大きな影響を与えたものが、イタリアのネオレアリズモである。ネオレアリズモの映画は、徹底したリアリズムとドキュメンタリー的手法を特徴とし、戦後のイタリア庶民の悲惨な生活を非常なまでの現実描写によって撮影したものである。ロベルト・ロッセリーニの「無防備都市」や「戦火のかなた」、ヴィットリオ・デ・シーカの「靴みがき」や「自転車泥棒」、ルキノ・ヴィスコンティの「揺れる大地」などがネオレアリズモの代表作である。ワイダはネオレアリズモについて、「貧困と屈辱にまみれた戦後、私たちが親近感を覚えたのはイタリアのネオ・レアリズモだった。貧乏人や虐げられた人々を守るという芸術家の役目は、一九世紀ポーランド文学の伝統と一致するものだったのだ」と述べている。
 ハルトフは先ほど挙げた本の中で、映画史家のスタニスワフ・オジメクの提唱したポーランド派の四つの時期区分について言及している。(1)初期 (1955-1956):「新しい傾向はわずかにきざしを見せただけで、まだ社会主義リアリズムの頑固な手法の影に隠れている」、(2)厳密な意味での該当期 (1957-1959):「映画製作者たちは主として戦争と占領のテーマに焦点を当て、作品をポーランド・ロマン主義の伝統の流れの中に位置づける」、(3)転換期 (1960-1961):「古典的形式と個性的テーマの出現 (庶民を主人公に設定) を特徴とする」、(4)末期 (1962-1965):「同派の手法をうわべだけ応用したり、あるいは同派がこだわるテーマをめぐって論争が起きた時期」。この中で (2) がとくに重要なものとなる。(2) の代表作としてオジメクはワイダの「地下水道」と「灰とダイヤモンド」を、さらには、アンジェイ・ムンクの「エロイカ」を挙げている。そして、「灰とダイヤモンド」と「エロイカ」とを比較し、「研究者たちはしばしば、ワイダのロマン主義とムンクの合理主義を対比させる。すなわち、国家に対する義務感と自分の幸福との間で引き裂かれるワイダの劇的な登場人物たちと、思慮分別を具えた現実的なムンクの主人公たちに違いを見るのである」と語っている。また、「地下水道」と「エロイカ」とを比較して、「ラファル・マルシャウェク (著者注:ポーランドの映画史家) によれば、ポーランド人は一八・一九世紀の自国の悲劇的な歴史から犠牲と殉難という理想を学び、その結果、そうした歴史が祖国の過去の標準的な姿と考えられるようになったという。そして、そうした歴史がポーランドの「愛国芸術」に影響を及ぼしたわけであるが、それは理想主義と自然主義を結合させ、また悲壮感を描き、ポーランドを表す象徴や寓喩ぐうゆを多用する点に特徴があるという。ムンクの映画には、ワイダの蜂起参加者と同様の問題に直面する人物が登場するが、その行動にはロマン主義の後光が欠けている」と述べている。これは注目すべき発言であるが、この点に関する詳しい考察は次のセクションで行う。

祖国を語り続けたワイダ
 「ポーランド人には誰でもドン・キホーテ的な性質の傾向があり、それが私たちの優れた部分を成している。ポーランド文化にはドン・キホーテ的なものが深く根を張っている。風車の国に生きているわけではないが、私たちには大昔から、現実離れしたことを希求する習性が身についている。ドン・キホーテは高潔な騎士精神と高邁な理想の薫る祖国を失い、私たちは自由な国としてのポーランドを失ったのだった。ポーランド人は芸術と現実を混同してきた。そして、おそらくそのために、いつも芸術を過度に生真面目に捉えてきたのだった」というワイダの言葉は、ポーランドロマン主義の特質を的確に示している。それだけではなく、ワイダの芸術作品がポーランドロマン主義の系譜を受け継いでおり、それが彼の作品の強さでもあり弱点であることも暗示している。この問題に関して、ここではポーランドロマン主義とは何かという側面、テーマ的側面、表現方法の側面という三つの側面から分析していく。
 ポーランドロマン主義を簡潔に定義づけることは容易なことではないが、以下のように語ることができるであろう。この芸術的潮流は19世紀のポーランド分割による祖国喪失と深く関連する。国を失い、他国に支配されたポーランド人は、民族の独立の切望、支配者への抵抗心、自由への情熱を抱き、ポーランドに留まり、あるいは外国に亡命し、政治運動へと、芸術運動へと突き進んでいった。この民衆の思いこそがポーランドロマン主義の源流であった。そこには悲劇性、ヒロイズム、犠牲の精神、センチメンタリズム、自由に対する渇望、エスノセントリズム、反抗心といった様々な主義や感情が混じり合い融合していた。それゆえ、このセクションの初めに書いたワイダの言葉はポーランド人の特性であるだけではなく、ポーランドの歴史をも、とくにそのロマン主義的伝統をも語っているものであると理解することができる。ところで、ポーランドロマン主義の三大詩人と言われるのが、アダム・ミツキェヴィチ、ユリウシュ・スウォワツキ、ジグムント・クラシンスキである。この中のミツキェヴィチの長編叙事詩『パン・タデウシュ』をワイダは映画化し、ポーランドロマン主義の精神を間テクスト的に見事に表現している。しかし、テーマ的にも技法的にもワイダの作品にはロマン主義的香りがどの作品の中にも漂っている点は、注目する必要がある問題である。
 テーマ的側面に関して言うならば、前述したようにワイダの映画にはポーランド史を概観する場合に凝視しなければならない出来事からテーマを取った作品が多いが、そこにもロマン主義的色彩が色濃く反映されている。ポーランドロマン主義の主要テーマにじっと耳を傾けると、祖国の歴史を背景とした犠牲的精神と悲劇性という主旋律が浮かび上がってくる。ワイダの初期作品である「地下水道」や「灰とダイヤモンド」においても主人公は祖国の歴史の中で自由と解放を求め戦うが、過酷な結末に導かれていく。中期の「大理石の男」や「コルチャック先生」の主人公は、歴史が消し去ろうとする負の遺産を伝承する語り部となっている。後期の「パン・タデウシュ物語」や「残像」の主人公は政治的、民族的、芸術的自由のために勇敢に戦うが、その戦いに敗れる。こうした物語テーマはまさにロマン主義的な様相を帯び、理性的、あるいは、合理的で客観的な論証性のアンチテーゼとして位置づけられるものである。抑圧され、虐げられ、自由を奪われた民衆に再び生きる力を与えるためにはロマン主義的なパッションが必要であることをワイダは熟知していた。しかしながら、その強烈な歴史的テーマを表現する方法は特異なものでも、新奇なものでもなかったが、この点については次の段落で行う考察部分で詳しく述べる。
 前のセクションで引用したワイダとムンクの映像表現の違いに対するオジメクの分析にはいくつかの重要な指摘があるが、まずは寓喩すなわちアレゴリーの多用という点を考察しよう。ワイダは「灰とダイヤモンド」のラストで主人公のマチェクがゴミ捨て場で兵士に撃たれて死ぬシーンが二つの異なる立場から解釈されることが可能であると主張している。一つは検閲官たちの立場で、ワイダはそれを「ゴミ捨て場で死んでゆくこいつは誰だ?共産主義体制に刃向かった男ではないか。この男の末路は?罰を受けなければならないだろう。どこでか?ゴミ捨て場だ」と言い表している。もう一つはこの映画を見るポーランドの観客つまりは民衆の立場で、「私たちが愛してやまない若い男性、私たちのAK (国内軍) の主人公が自由を求めて戦争を闘い抜いたと思ったら、今になって殺される。どこで殺さるのか?ゴミ捨て場でだと!」と言い表している。アレゴリーは多様な見方を可能にするものであり、それゆえにこの手法は作品を開かれた解釈方向へと向かわせるものである。だが一つ忘れてはならない問題がある。それは、ワイダの多くの映画が検閲との戦いを経ることなしには制作することができなかった点である。この制約とアレゴリー的表現の多用との連関性は大きかったのである。表現方法についてもう一点検討しよう。ワイダは「ミハイル・バフチンがドストエフスキーの登場人物の対話的意識について書いているのは正鵠せいこくを射ている。地の文の部分は常に客観的であり、記述者の目が見たことの報告である。一方、対話の部分は、登場人物が自分をどう考えているか、他者をどのように見ているか、登場人物の意識 (作者の意識ではない) はいかなるものであるか、ということを明るみに出す」と述べているが、こうしたポリフォニー的手法はワイダの映画や演劇の中で度々登場する表現方法である。
 
 ここまでワイダとポーランドについて概括的に論考してきたが、最後にこのテクストの二つの探究課題に対する研究をまとめあげるために、ロマン主義的精神と歴史の再構築という二つの角度からの検討を行っていこうと思う。だがもちろんこの二つの視点について詳細に考察するには膨大な量の分析が必要であるが、この小論でそれを行うことは不可能である。それゆえここでは、最初の視点の考察においては、トマス・マンの講演をテクスト化した『ドイツとドイツ人』(青木順三訳) の中で語られた言葉を挙げ、そこに内包されている問題性を中心としてワイダの作品の持つロマン主義的美学の特性を検討していく。二番目の視点については、過去の人々との対話というワイダの注目すべき発言を挙げ、その発言を巡る問題性を検討していく。
 上述したテクストの中で、マンは「ポエジーとは何か、ということを、実証主義や主知主義的啓蒙思想はそもそもまったく知りません。ロマン派が、道学者ぶったアカデミズムの中で死ぬほど退屈していた世界に、初めてそれを教えたのです。ロマン派は、個性や自発的な情熱の権利を告知することによって、倫理を詩化しました。童話や民間伝承の埋もれていた宝を、ロマン派は民族の過去の深みから掘り起こしました」と書いているが、ここにはロマン主義の肯定的な本質的な特質が明確に表現されている。だが、マンはこの主義の負の特質を示すことも忘れはしなかった。「(…) 薔薇ばらに毛虫が巣食っているように、ロマン派が、その最も優しく最も繊細な、庶民的であると同時に高度に洗練された現われにおいてすら、体内に病菌を抱いているということ、ロマン派がその最奥の本質からすれば誘惑であり、それも死への誘惑であるということは否定できません。抽象的理性に対する、浅薄な人道主義に対する革命的な反抗として非合理な生命力を擁護するロマン主義が、ほかならぬこのような非合理的なものと過去への没入を通して死との深い親近関係を持っていること、これはロマン派の、人を困惑させるようなパラドックスであります」。こうした特質はドイツロマン主義の特質であるだけではなく、もちろんポーランドロマン主義の特質でもある。ワイダはそれを十分に認識していた。それゆえ、彼はポリフォニー的な描写によってこのロマン主義の矛盾を昇華させようとしたと述べ得るのではないだろうか。しかし彼はどんなポリフォニーを、どんな対話を求めたのか。
 若くして死んだ画家で、友でもあったアンジェイ・ヴルブレフスキに触れながら、「私たちの世代は、ものを言うことができないまま死んでいった父親たちの世代が負った運命を語るべき子の世代なのだ (…)」と、また、「死者はものを言うことができないので、死者に声を貸し与えてやるのが私たちの義務である」とワイダは語っている。こうしたワイダの言葉は、「考えるということは、思考の運動のみならず、思考の停止をもふくむ。緊張の極の局面においてふいに思考がたちどまるとき、そこにショックが生まれ、それが思考をモナドとして結晶させる。歴史的唯物論者が歴史の対象に近づくときは、かならず、そのようなモナドとしての対象に向かいあう。この位置からかれは、生起するものを停止させるメシアの合図を――いいかえれば、抑圧された過去を解放する闘争のなかでの、革命的なチャンスの合図を――認識するのだ」(『歴史哲学テーゼ』、野村收訳) というベンヤミンの言葉と重ね合わせて考えるべきである。過去の歴史を担うとは、すなわち歴史的出来事を再構築するとは、かつて生きていた過去の人々と様々な対話関係を築き上げることである。均質的に区分された時間概念の下で、過去の人々の声を聞くことは不可能である。不変的事実としての歴史事象として処理された出来事が時系列的に並び記されるだけである。そこには他者との対話は存在しない。過去の人々との対話は、時間的空間的飛躍がなければならない。ベンヤミンにとって、それは弁証法的な飛躍である。飛躍のために必要な装置が、残されたもの=残像である。ワイダの映画はこの残像を求めて作り出された。ポリフォニー的な世界の現出。消滅した過去は再び光と影を持ち、光と影を持った過去の人々はわれわれと対話を始めるのだ。
 フリートマル・アーペルは『天への憧れ』(林捷訳) の中で、「より良い世界はベンヤミンにあっては形象のイメージにされず、ただ事物の間や、破損個所においてのみ非感覚的に体験されうる。それにもかかわらず、あるいはそれゆえに、負けたとしてもあきらめるものはなにひとつない。野蛮の頂点の一九四〇年においてもなお、ベンヤミンにとって、不可視なものに変容する「繊細で精神的な」事物は存在していた」と書いているが、どんな時代の歴史的事象も絶対的に閉じたものではなく、常に開かれたものであることを彼は知っていたのだ。見捨てられ、忘れられた些末的な事柄の中にも、廃棄され、踏みつぶされ、埃を被った遺物の中にも過去の声が閉じ込められている。われわれがその残骸に目を向けると同時に、かつてそこにいた人々の様々な語りの声が聞こえてくる。「残像」の主人公であるヴワディスワフ・ストゥシェミンスキは、「自然の中で見られた形態のそれぞれの要素は他のすべての要素に影響を及ぼし、それらを変形する。(…) 目の運動は自然の中で見られた要素の形態を統合し、共通する形態的リズムを創り出す。(…) この新たなヴィジョンが対象の孤立化や形態的差異化に打ち勝つことが重要なのである。さらには、絶え間ない変化がありながらも、対象を光学的に完全に同質なものとして合一することが重要なのである」(フランス語版ウィキペディア「ヴワディスワフ・ストゥシェミンスキ」より拙訳) と述べている。われわれの視覚が、僅か前の瞬間に現前していた像を完全に消滅させずに、今という時間の中に取り込みながら、ある統一形態を構築するように、歴史的物語の中にある過去という時間も、祖国という一つの空間を包み込みながら、今、ここで動き続けているものなのである。
アーペルはベンヤミンの歴史認識の根源について「(…) 天使の存在を信じるものは、希望を断念しないだろう」と語っているが、それはストゥシェミンスキの視覚認識論にも連鎖している。そして、ワイダの映画理論にも。瞬間、瞬間の連続の中で希望の天使の姿は、その瞬間ごとに消え去る運命にある。だが、過去にそこにあった天使の像の残像は消えることなく今の中にも生き続けている。たとえそれが逆さまになった天使の像であったとしても。消え去った天使の声が時間の壁を通り抜けて響いてくる。それはポーランドの希望の声であると共に、世界の希望の声でもあることをわれわれは忘れてはならない。

PageTop

コメント


管理者にだけ表示を許可する