宇波彰現代哲学研究所

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藤島武二と戦争画

 日本の近代絵画史を考える上で、西洋画の黎明期に大きな足跡を残した画家の一人として、藤島武二の名前を挙げることに多くの美術専門家は賛成するであろう。彼が日本におけるロマン主義的絵画の確立に多大な貢献をしたことは否まれない事実であるからだ。たとえば、高階秀爾は8月9日の毎日新聞夕刊に掲載された練馬区立美術館で7月23日から9月18日まで開催されている「藤島武二の生誕150周年記念展」に関する記事の中で、「藤島武二 (1867~1943年) は、日本近代洋画の歴史における重要な存在としてよく知られている。そのことは、彼が残した名品の数々や、多くの洋画家たちを育て上げた指導者としての役割を思い出してみれば、十分に納得ゆくものであろう」と、さらには藤島の作品について、「(…)藤島芸術の特質を「洋画」のみならず、深く伝統的なものともつながる近代日本の美的感性、ないしは「美意識」の歴史のなかに位置付ける視点が必要」であると語り、藤島の絵画のオリジナリティーを高く評価している。だが、私は「ロジェストヴェンスキーを見舞う東郷元帥」、「蒙古の日の出」、「蘇州河激戦の跡」、「窓より黄浦江を望む図」という彼の四枚の油絵を見るためだけにこの美術展に足を運んだ。何故この四枚だけなのか。その理由は簡単である。今挙げた高階の言葉からも判るように、多くの美術評論家が藤島の作品を非常に高く評価しているが、私は彼の絵をまったくよいとは思っていないからだ。ロマン主義的な豊饒な感覚を持ったと形容される藤島の前期の人物画を見ても、古ぼけた過去の黴臭い臭いが感じられるだけである。また後期の風景画の中にしばしば描かれる日本を象徴するオブジェに対しては、顔を顰めたくなる国家主義的イデオロギーが充満しているとしか感じられない。一言で言うならば、私は藤島の絵が嫌いなのである。そうであるにも係わらず今挙げた四枚の絵には、日本の戦争画の持つプロパガンダ性、ナショナリズム、ロマン主義的病魔といった私が真剣に向き合わなければならないと考えている問題に対して大きな示唆を与えてくれるに違いないキータームが隠されている。そう思った私は展覧会に向かったのである。
 前述したように、このテクストにおける私の関心は藤島武二という画家自身にも、甘美と称されている彼の人物画にも、力強さが全面に表れていると評価されている風景画にも向けられてはいない。私の問題意識は日本の戦争画にある。しかし、戦争画をどう定義づけるかという問に答えることは簡単であるように思われがちだが、実は極めて難解な事柄である。それゆえ以下の考察においては、最初に「戦争画とは何か」という問題に対する検討を行う。次に、藤島武二の作品における彼の描いた戦争画の位置について考えていく。さらに、藤島の戦争画の象徴性と画家の戦争協力に係わる問題に対する考察を行っていき、最後にこれらの考察を総合していく。このようにここでは藤島武二の作品と絵画制作姿勢というものを分析装置としながら、戦争と絵画、国家プロパガンダと画家の立場という問題に関する探究を行っていこうと思う。 

戦争画とは何か
 戦争画の中には戦争と関連する何物かが描かれている。それは疑い得ない事実である。だが、田中日佐夫が『日本の戦争画』の中で書いているように、戦争画と歴史画との区分、戦争遂行を目的とした具体的あるいは象徴的な対象が表された絵画と、それとは逆に、戦争に反対するために戦争の様子が表された絵画との差異といった時代性やイデオロギーに関係する複雑な問題が戦争画を巡っては提起されてくる。こうした問題すべてに対する厳密な分析をここで行うことはできないが、以下の二つの点については検討する必要がある。戦争画の持つ同時代性と画家の制作態度という問題である。
 ある絵の中に戦争が描写されていたとしても、それが何百年も前のものであったならば、それは歴史画であっても戦争画とは呼べないであろう。すなわち、同時代性が大きな意味を持つのである。もちろん、戦争は一つの戦闘によって終局する出来事ではなく、多くの戦闘が連続するものである。それゆえ絵画のような空間芸術によって戦争を表す場合、連作にする場合は別として一枚の絵の中に戦闘の一シーンが描かれるか、対象となっている戦争を何らかの方法で象徴化して描く必要性がある。戦争を記録的に表現するにしろ、象徴的に表現するにしろ、また、直接戦場で見たものを表現するにしろ、入手した情報から間接的に表現するにしろ、画家が今生きている時代で起きている、あるいは、起きた出来事という側面が問題となるのだ。画家が直接見たものである必要はないという点はとくに重要である。田中日佐夫は前述した本の中で日清戦争や日露戦争の時に制作された多くの戦争画が、十五年戦争においてさえも、実際に画家が見た戦場の姿を描写したものではなかった点を強調している。また同時代性であって同時性ではない点も強調しておこう。戦争経験者が戦時の光景をすぐに描くのではなく、その経験を数十年後に描いたものであっても、何十年にも亘ってその経験を表現し続けたものであっても戦争画と見なすことができるのである。たとえば香月泰男の抑留生活の連作であるシベリア・シリーズは戦争画として位置づけられるのだ。こうした同時代性があるからこそ、戦争画は歴史画とはならず、戦争画という絵画ジャンルとして位置づけられるのである。
 ある絵が戦争という出来事に結びついているかいないのかによって、その絵の象徴的意味が大きく変わってしまうが、絵を見ただけでそれを判断することができない場合も多い。河田明久は『日本美術館』の中で、佐田勝の「廃砲」と名づけられた作品が軍部の圧力で「戦利品」というタイトルに変えさせられ、戦後再び「廃砲」という画題に戻されたというエピソードを示しながら、「(…)戦争画と厭戦画を分ける紙一重の差は、絵そのものではなく絵のタイトル、タイトルによって規定される、観客の側の「絵の読み方」にあった」と書いている。この指摘はタイトルが戦争画を規定する場合に大きな影響力を持っていることを物語っている。だがそれだけではなく、画家の制作態度という問題も重要である。横山大観は多くの戦争画を制作した画家として、しばしば、藤田嗣治と共に頻繁に批判される画家であるが、彼の戦争画は作戦記録画ではなく大日本帝国の象徴が描かれた戦争賛美のためのプロパガンダ絵画である。崇高なる国体を持った美しい祖国のために、彩管報国、すなわち、絵筆によって国に報いるという合言葉の下、富士山と太陽という日本の象徴を全面に押し出しながら絵画制作を行った大観。彼について、柴崎信三は『絵筆とナショナリズム:フジタと大観の<戦争>』の中で、次のように述べている。「「彩管報告」のスローガンを通して国民感情を鼓舞するという作者の明確な意図で描かれ、主題とされた愛国的な記号としての「富士山」が、戦争へ向けた国民精神の動員とナショナリズムの喚起に大きな役割を果たした。」田坂具隆が1943 (昭和18) 年に制作した国策映画「海軍」では、真珠湾攻撃に参加した一隻の特殊潜水艇の中で、戦艦アリゾナの攻撃に向かう直前、主人公の谷中尉と部下の下畑二曹とが以下のような会話を交わすシーンが挿入されている。「艇長は富士山に登られたことがありますか。」「富士山?…残念ながらないんだ。」「私もありません。一度登りたかったですね。」このシーンは富士山の象徴性が国民に如何に強く植えつけられていたかを示すものであり、大観などが行った戦争遂行プロパガンダの国民的な浸透を端的に物語るものである。だがプロパガンダ性に関してはかなり複雑な問題が内包されているゆえに、「プロパガンダと画家の戦争協力」のセクションで改めて詳しく言及する。 

藤島武二の作品における戦争画の位置
 高階秀爾は『日本近代美術論』の中で、藤島の絵の特徴を「(…) 花と人物を巧みに組み合わせた構図が、彼の作品のなかでは重要な位置を占めている」と、さらには、「(…) 明治三十年代の詩人や画家たちは、妖しい官能の香りや、メランコリックな清掻すががきの旋律に、彼らなりの美の世界を夢見ていた (…)。ただ、天性人一倍豊かな感覚に恵まれていた藤島武二は、そのような時代にあって余人の追随を許さない特異な大輪の花を咲かせたのである」と述べている。花々と乙女、世紀末的ロマン主義、感覚的な鋭さなどを藤島の前期作品の特質として列挙することは確かに可能であろう。だが、そうした作品に対して高階のように過度な称賛を行う必要性はない気がする。なぜなら、藤島のデッサン力、画面の構成力は、戦争画、とくに旧帝国陸海軍の依頼を受けて作戦記録画を制作した藤田嗣治、小磯良平、宮本三郎といった画家たちのものよりも劣っていたように思えるからである。そう考えれば、藤島の作品の成功は時流に乗っただけである側面が大きいのではないだろうか。もちろん藤島の全盛期が近代西洋画の黎明期であり、作戦記録画を制作した画家たちが生きた時代とは異なるゆえに彼らを安易に比較することは危険ではあるが、高階の賞賛が過剰である点は否まれない。また、高階はこの本の中で、風景画を多く描くようになった後期の藤島の作品にはあまり触れていない点も問題となる。さらには藤島が戦争画を制作した事実にはまったく触れていない点も強調しておく必要性があるだろう。高階は藤島の前期の作品だけを大きくクローズアップし、戦争画を描いた時期でもある後期の作品については僅かしか考察していないのだ。こうした片手落ちとも述べ得る考察で、藤島の絵の特質が明確に見えてくるかどうかは甚だ疑問である。余談ではあるが、十五年戦争中に画家の中心に立って積極的に戦争画を描いた横山大観の戦争協力問題についても、この本では一言も触れられていない。
 藤島は1938 (昭和13) 年に陸軍の要請で中国に渡り、日中両軍の衝突した激戦地の跡を巡回し、「蘇州河激戦の跡」を完成している。この絵は作戦記録画ではなく、激戦地の跡の無人の廃墟の風景を描いたものであるが、田中日佐夫は前述した本においてこの作品をどう評価すべきか判断することは難しいと語っている。この作品に戦争賛美やナショナリズムプロパガンダといった側面があると断定することもできないが、だからと言って反戦的で、反ファシズムの色彩が強く表されているとも断言できないのだ。だが、従軍時のことを記した「中支戦線雑感」(『藝術のエスプリ』)というテクストの中で、藤島が中国の民衆や敵軍を蔑視して書いた部分に言及しながら、田中は、「(…)藤島が、知人に対してはともかく、人類一般に対するヒューマニズムの心にあふれていた人だったとは、どうしても思えないのである。征服された人びとの、占領された人びとの、殺された人びとの、そういう人びとの身になって考える、感じる精神は、日本の画家たちの中には育っていなかったのだろうか」と述べている。確かに藤島の態度は曖昧である。戦争の実際の状況を描写することに対しては頑なに断っているのであるが、「軍との約束はないが、私も蘇州河の戦跡だけでもタブローに作って献上しようかと思っている」と語り、「蘇州河激戦の跡」を制作し、第一回聖戦美術展にこの絵を出展している。今回の練馬美術館の展覧会で展示されていた藤島の戦争画である「蒙古の日の出」や「窓より黄浦江を望む図」も作戦記録画ではなく、象徴性の強い戦争画であり、時代背景やタイトルなどを知らなければ戦争画であることが判らない作品である (「ロジェストヴェンスキーを見舞う東郷元帥」は制作年が不明であるためはっきりと判断することはできないが、戦争画よりも歴史画に近いものであると思われる)。1938年の同時期に従軍した中村研一や向井潤吉といった洋画家が本格的な作戦記録画を多数制作しているのに対して、藤島はこの種のものをまったく描いていないのである。それゆえ、実際の戦争が全面に押し出された戦争画を表現するだけの技術がなかったのではなかったかと疑いたくなるのである。
 田中日佐夫の「戦争中に戦争画を描かなかった画家たちには二つのタイプがあったはずなのである。第一は、その描かなかった画家たちのほとんどはこれだったと思われるが、戦争の場面などは描こうと思っても描けなかった画家たち――それは技術的には描けても意欲の点で、気分の面で描けなかった人たちもふくむ。第二はごく少数ながらも当時の時代相に対して批判的な思想を抱き、そのために戦争を描こうとしなかった画家たちである」(『日本の戦争画』)という言葉は実に興味深いものである。繰り返しになるが、藤島は戦争画を描いてはいるが、作戦記録画のような戦争の実際的側面が表されている絵はまったく制作してはいない。そこには田中の言う第一のタイプの画家たちと同様の問題が存在しているのではないだろうか。意欲という点で、藤島は国家主義的思想もあり、象徴的・プロパガンダ的な戦争画を制作していた以上、技術的な問題があったゆえに作戦記録画を制作できなかったように思えるのだ。今引用した本において田中日佐夫は、田中穣が『藤田嗣治』の中で書いている藤田が終戦直前に宮本三郎に会った時に、日本は負けるが自分や宮本は困らないと断言した時の逸話を紹介している。藤田は宮本に、「腕を持っているから、デッサンを持っているからね。それさえあれば、いつでもどこでも食ってゆける。ありがたいことに、芸術に国境はないんだ」とも語ったと述べられている。藤田が自分たちの絵画技術の高さを確信していたと考えられるこの逸話は、当時の画家の態度が如何に思想的には体制追従的であったかということを示すと共に、藤島が作戦記録画を自分が描くだけの技術がないことを知っていたからこそ、戦争協力はするが作戦記録画制作を頑なに拒否したということを示している根拠となるようにも思われるのである。田中日佐夫は、さらに、作戦記録画といった本格的な戦争画を描いた画家たちについて、「(…)彼らはたしかにデッサン力において抜群のものを持っている人たちであったが、同時に写真や映画の一場面など、映像を絵画に利用する要領のよさ、賢こさ、あるいはずるさを身につけていた人たちであったということである」とも書いているが、こうした情報収集力、発想力、表現力、構成力といった高度な技術を藤島が持っていたとはどうしても思えないのである。
 
プロパガンダと画家の戦争協力
 国家戦時体制を日本美術界がバックアップする目的で陸軍美術協会が設立されたのは1939 (昭和14) 年であるが、この協会の初代会長は南京事件の責任者であり、戦争犯罪者として絞首刑となった松井岩根であり、初代副会長は藤島武二であった (1943 (昭和18) 年の藤島の死去に伴い藤田嗣治が第二代副会長に就任している)。この事実だけでも藤島の戦争協力姿勢が如何に積極的だったかということが理解されるが、以下の文を読むと彼の国粋主義思想の強さに唖然とさせられる。「(…)私はむしろ戦勝正大の気魄、国家興隆の大精神が美術の上にも当然顕示されて、従来よりも一層健康な大芸術の勃興が期待し得ることを断言して憚らないのである。かかる事実は古今東西の歴史に徴して既に余りにも歴然たることであり、更に日本民族の力を認識すればそれが余りにも当然なる結論であることを何人と雖も首肯せずにはおられないはずである」(藤島武二、「画質の言葉」in 『藝術のエスプリ』)。聖戦遂行、国威発揚のプロパガンダを目的とした絵画を称揚するこの文から、高階が「天性人一倍豊かな感覚に恵まれていた」と形容した藤島武二の姿は完全に消滅しているのではないだろうか。こうした文章を読むと、多数の戦争画を描いた藤田嗣治以上に藤島がナショナリストであった可能性は高い。
 しかしながら、聖戦遂行のための最も大きなプロパガンダ性を持ったものが作戦記録画であったにも係わらず、藤島がそれを描くことを拒んだのには、老齢であったというだけではなく (中国戦線を視察した時、彼は70歳を超えていた)、前述したように技術的な問題が大きかったのではないだろうか。そうでなければ、陸軍美術協会の副会長であり、同協会の画家のトップであった人間が戦争画は制作しながら、作戦記録画制作を拒む理由が見つからない。もしもこの仮説が正しいとすれば、藤島は藤田よりも横山大観にはるかに近い立ち位置にあったと述べ得る。大観は「戦争画とは何か」のセクションでも書いたように彩管報国を積極的に、大声で叫んだ画家であるが、彼は日本画家であったゆえに象徴的で、プロパガンダ的な戦争画しか描けなかった。田中日佐夫も、高階秀爾も指摘していることであるが、日本画はオブジェを描写する場合に、線を優先する点で、色彩を優先する洋画と大きく異なる。線の優位はオブジェを単純化して描こうとし、オブジェの複雑さを描こうとする洋画とは対極にある表現方法が用いられる。こうした主張はアーネスト・フェノロサも、岡倉天心も行っているが、問題となることは戦闘場面が描写されている戦争画において、戦場の複雑な情景や描かれた人物の様々な表情を表すためには日本画はまったく適さない絵画技法であるという点である。戦場のリアリティーあるいは迫真の画面を作り上げるためには、画面が平板になってしまう日本画よりも洋画の方がはるかに適しているのである。この迫真性は作戦記録画のプロパガンダ性の高さとも関係する。それゆえ、日本画によってどうしても迫真性を描写できなかった大観は、富士山と太陽という日本の国家的象徴性の高い対象を描いた作品を1937 (昭和12) 年から1944 (昭和19) 年の間に五百枚以上も大量生産するしかなかったのではないだろうか。では、藤島の戦争画のプロパガンダ性とはどういったものであろうか。
 すでに指摘したように、藤島は象徴性の強い戦争画しか制作していないが、1937年に制作された「蒙古の日の出」などは、時代背景が判らなければ戦争画として区分されない可能性が高い作品である。広大な砂漠地帯を二頭のラクダに乗った人物が横切っており、その砂漠の向こうには大きな太陽が見えるという構図で、明るい色彩が印象的な絵である。1937年は盧溝橋事変が起きた年であり、その後戦線は急速に拡大していった。この年、藤島は宮内庁から依頼された昭和天皇即位記念作品として「旭日照六号」を完成している。この作品の中には「蒙古の日の出」と同様に日本の象徴である太陽、より正確に言うならば、日本に君臨する天皇の象徴が描かれている。こうした太陽の持つ象徴性は、天皇の権威が世界にも広がる様子、すなわち、アジアの隅々まで大日本帝国の威光が及んでいるといった象徴性が示されたものである。画家の菊畑茂久馬は『天皇の美術』の中で、明治以降の日本の国家的美術政策に関する興味深い分析を行っているが、大日本帝国の押し進めた帝国主義と軍国主義政策の基盤となっていたものが国体としての天皇制であると断言している。菊畑は日本の明治期以降の近代美術史に言及しながら、「(…)この日本美術文化のもっとも深い暗底部に棲む〝天皇制思想〟に対する美意識に触れなければ、日本の美術を裏で支える権力的な磁気の謎を解明することは不可能だと思われる」と語っている。明治期以降の日本美術界の暗底部に脈々と流れている天皇制への従属を典型的に表している作品が、「蒙古の日の出」や「旭日照六号」といった絵ではないだろうか。絵画ジャンルとしては前者を戦争画として、後者を戦争画ではない作品として区分することが一般的な判断かもしれない。だが、そうした判断を超えた日本の象徴である旭日=国体=天皇制は、国家ナショナリズムと分かち難くアマルガムされているのだ。われわれはその典型例を藤島の絵の中にはっきりと見ることができる。
 
 藤島武二の作品を追いながら、明治期以降の日本の戦争画について考察してきたが、日本のナショナリズム的戦争画の展開と深く関係する近代と前近代との弁証法的融合、さらには、戦争画における象徴的プロパガンダの浸透という二つの考察視点に基づきながら、最後に、このテクストをまとめていこうと思う。
 最初の点に関しては、以下の根本的な問題性を考える必要がある。明治維新が近代と前近代との乖離を埋め合わせるために、近代的なものと前近代的なものとを弁証法的に結合しようとしたことは歴史的な事実であるが、近代的なものと前近代的なものとが果たして本当に、整然と、完全に、確実に止揚されたのであろうか。明治政府が用いた弁証法は近代的なものと前近代的なものとを天皇という権力機関を用いてアウフヘーベンさせるという歴史的・政治的実験であった。この機関は弁証法という西洋思想の発明した一大装置に依拠し、近代的なものと前近代的なものとを統合したように見せかけながら、実際には近代的なものと前近代的なものの二つの頭を持った双頭のモンスターを誕生させただけであった。弁証法が方法論的に抱える問題点をモーリス・メルロ=ポンティは、「弁証法の中には罠がある。弁証法は自己構成によって実現される内容でさえある運動であり、また、呼びかけと応答、問題と解決の関係をたどり直し、それに従う技術であるにも係わらず、また、弁証法は原理的には付加された言葉であるにも係わらず、弁証法がスローガンとして受け取られるや否や、弁証法を実践する代わりにそれについて語られるや否や、それは存在の力、説明原理となってしまうのだ。存在様式であったものが悪霊となるのである」(『見えるものと見えないもの』)と語り、悪しき弁証法が存在することに言及している。こうした悪しき弁証法によって成立したものの一つが、天皇制を基盤として産声を上げた明治以降の日本美術界の基盤であるイデオロギー装置ではないだろうか。前記した本の中で菊畑は、黒田清輝などの第一次帰朝組との対比によって形容された、藤島などの大正期に洋行した画家たちを示す第二次帰朝組の考え方と美術界の根本的な体制について、「当時、暗い日本の現実のなかに洋画を見据え、東洋における油絵のあり方とその主題と(を)探って苦闘していた岸田劉生の、あの鬱屈した暗い画面と芸術的挫折とを考え合わせれば、彼らの位相はいやがうえにもはっきりするはずである」と述べている。さらに、「当時の空前絶後の民衆運動や、社会主義思想の弾圧、朝鮮人の大量虐殺などの社会の激動に対して、この絢爛たる大正の模倣美術はなに一つ関りがないかのようである」と述べているが、こうした言葉は悪しき弁証法によって成立した日本美術界という組織の特質を的確に言い表しているのではないだろうか。
 その後日本美術界の中心に鎮座した藤島は、戦時下で積極的に軍部の戦争プロパガンダに協力するが、菊畑はさらにこうした藤島を中心とした大正の西洋画壇を模倣芸術として激しく批判し、「ともかく大正の美術は、新しいヨーロッパ芸術への全面的跪伏を下敷に、すでに〝文展〟によって果たされた全美術界の統合を容器として、模倣の波紋を浸透させていくのである」と分析している。公的権力の後ろ盾を持った美術界はアンガージュマンとしての美術であることはできない。藤島が世紀末的甘美さを漂わせた挿絵を載せた「明星」などのヒューマニスティックでロマン主義的な雑誌も、実際には当時の日本の民衆が被っていた数知れない苦痛を上空飛行しながら眺め、語っていたに過ぎないのではないだろうか。そうした文学界以上に、当時の日本美術会を構成していた画家たちの多くが、高い思想性や天皇を中心とした権力機構への反抗精神があったとはとても思えない。ハイカラな西洋の化粧の下には前近代精神が相変わらず後生大事に抱かれていた。彼らの多くが戦争の拡大と共に積極的に戦争画を描いたのは当然のことだったのではないだろうか。そして晩年の藤島はその中心にいた。
 象徴とプロパガンダの問題はヴァルター・ベンヤミンの主張した像 (ビルト)という概念を分析装置として考察する必要があるだろう。何故ビルトなのか。それが弁証法的に現出するものだからである。弁証法は同一時間内に存在するテーゼとしての対象とアンチテーゼとしての対象との対立とを止揚するだけのものではない。時間的に異なって存在した二つの対象を止揚することも可能なものである。ジョルジュ・ディディ=ユベルマンは『時間の前で:美術史とイメージのアナクロニズム』(小野康男、三小田祥久訳) の中で、ビルト=イマージュ=イメージが同時代性を超越するがゆえにアナクロニズム的であり、弁証法的に認識されることを、ベンヤミンとカール・アインシュタインの主張に言及しながら的確に論述している。そこには実証主義的で直線的時間内で歴史を捉えようとする歴史学への批判があり、美術史が画一的な時間によって捉えられないことが如何に重要であるかという問題が力強く語られている。たとえば、直線的で継起的に事象が移り変わっていく時間性によっては、キュビズム的空間を理解することはできない。弁証法的な見方をしなければ、対象の変化する多面性を二次元的に統合し、止揚するこができないのだ。アウラの閃光は時間性を再統合するのだ。「ある事物にとって過ぎ去ったという事実は、その事物が時間的にわれわれから遠く離れているということだけを意味するのではない。なるほど事物は遠くにとどまっている。しかし、その遠ざかりそのものは、贖わざる亡霊のごときもの、再来する幽霊のごときものをわれわれの間近に出現させる――ベンヤミンによれば、これこそがまさにアウラ的な現象なのだ」というディディ=ユベルマンの言葉は、ベンヤミンのアウラという概念の持つ、アナクロニズム的なオブジェの衝突、反発、爆発といった衝撃性という側面が示されている。だが、アナクロニズムの持つ別な側面について、ディディ=ユベルマンは触れてはいない。それは戦争画の象徴性を示すプロパガンダ的側面である。
前述したように横山大観によって反復的に再生産された富士山と太陽のプロパガンダ絵画は、天皇制が依拠する神話性を同時代的なものとしてアナクロニズム的に提示することによって、象徴化し、コード化し、強制している。ベンヤミンが語ったアウラはアナクロニズム的であるからこそ、衝撃であり、閃光であり、弁証法的展開を呼び込むものであった。それに対して、戦争画におけるアナクロニズムは、時代錯誤性に依拠することで神話が増幅され、国家主義が強化されるメカニズムを持ったものである。アメリカのホロコースト博物館の展示パネルには、ローレンス・ブリットが起草した「ファシズムの初期症候群」と題された14の項目が提示されている。その最初の「強力で継続的なナショナリズム」という項目には、「ファシズム体制はスローガン、シンボル、歌、その他、必要だと思われる用具を、様々な愛国的な装置を恒常的に作り出す傾向にある。国旗は、衣服の上で、または、公的に提示されるものの中でシンボルとして至る所で見られる」と書かれている。天皇制を基盤とした国家ファシズム体制は、そのファシズム性を正当化するためにあらゆるコードを必要とし、コード化作業を行う組織を支配下に置いた。この作業の一翼を担ったのが、戦争画を描き、ファシズム体制に全面的に協力した画家たちであった。そうした画家たちの指導者の一人が晩年の藤島武二であったことは確固とした事実である。
だが、このテクストにおける戦争画の考察視点が、藤島の戦争画というものに焦点を当て過ぎてしまったために、見え辛い影の部分ができてしまった問題点は素直に認めなければならない。藤島をファシズム体制協力者として、象徴性を用いた戦争画の作者として批判することはあまりにも単純で、極めて安易なことだ。権力の擁護と権力に対する服従がはっきりとクローズアップできるからである。しかしながら、戦争画の問題をそれだけに還元することは短絡的である。戦争画の問題はもっと複雑で、もっとドロドロとしたものを孕んでいるのだ。私はこのテクストの中で藤田嗣治と戦争画という問題にはほとんど触れなかった。それは多くの美術関係者によってすでに何度も語られた問題として、決着済みのものと考えたからではない。20世紀の初め、世紀末の甘美さがまだ残っているパリ、「乳白色の肌」を描いた画家として、エコール・ド・パリの真っただ中に躍り出た藤田が、日本に戻り、戦争画を描いた。それだけならば、藤島武二や横山大観と同列に論じることができるだろう。だが、「アッツ島玉砕」や「サイパン島同胞臣節を全うす」といった敗戦の色彩が色濃くなり、敗戦へと突き進んでいく時代に制作された彼の作品の重く、暗く、蠢く人物の群れは何を表しているのだろうか。そこに戦争賛美や聖戦遂行へのプロパガンダ性を強く感じる見手はどれだけいるだろうか。こうした戦争画はプロパガンダ性をはるかに超越している。反戦でも、戦争賛美でもない。怒りでも、鎮魂でもない。残酷でありながら、神聖ささえも宿し、見る者の目を引き付ける。藤田の後期の戦争画には戦争画の魔力というようなものが潜んではいないだろうか (ベンヤミンが考えていたものとは大きく異なるが、それでもそこにはアウラと呼ぶことが可能な何かが存在している)。戦争画を考察するためには、こうした藤田の絵の根源にあるものが何かを問うことが、絶対的に必要な探究作業となる。しかし残念ながら、この問題に関する考察はさらに多くの紙面を要するため、これ以上言及することはできない。戦争画という大きな問題の本質に、どれだけ接近できたかは疑問ではあるが、この問題に対していくつかの新たな視点からの解明ができたことは確かなことだと思われる。そのことに満足し、戦争画の持つ魔力についての考察は次の機会に譲り、ここでこのテクストの論及を終わりにしたい。

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