宇波彰現代哲学研究所

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映像の向こう側にあるマルクス像

 220席ある映画館は満席だった。だが、ぐるりと見まわすと、ほとんどの観客が65歳以上であることがすぐに判った。20代、30代と思われる観客は数えるほどしかいない。この映画館の前回上映作品、キルギスのアクタン・アリム・クバト (ラテン字表記:Aktan Arym Kubat) 監督の「馬を放つ (原題ラテン字表記:Centaur)」は名作だと私は思ったが、そのときの入場者数は30名足らずだった。それとはまったく対照的な光景。何故この映画を見るためにシニア世代の多くの人々がここ、岩波ホールに集まっているのか。それがこの映画を見る前に私が抱いた大きな疑問であった。映画のタイトルは「マルクス・エンゲルス (原題は“Le jeune Karl Marx”であり、直訳すれば「若きカール・マルクス」)」。ハイチのラウル・ペック (Raoul Peck) 監督が制作し、2017年から劇場公開が開始された作品である。若き日のマルクスとエンゲルスに自らの青春を重ね合わせるために、多くの観客はここに集まったのだろうか。そうであるならば、あまりにも感傷的で、回顧的な行為ではないだろうか。映像を見る前に、私は作品の内容とはまったく関連のない詰まらない事柄が妙に気になった。
 映画はあっという間に終わった。興味深い作品であった。だが見終わったとき、私は映像そのものについてではなく、この映像を見ることを通して思った以下の三つの事象について検討してみようと考えた。最初の検討課題はマルクスが用いたレトリック (もちろん、フリードリッヒ・エンゲルス (Friedrich Engels) においても同様であるが) の問題であり、二番目のものはマルクス哲学における理論 (Theorie) と実践 (Praxis) の連続性に関係する問題である。三番目のものはマルクスの生きた時代と現代との時代精神の差異を巡る問題である。それゆえ、映画の物語性についてはここではほとんど触れないつもりである。この考察方向性からも判るように、私の探究はテクストクリティックというものでも記号学的なものでもなければ、マルクス主義経済学の範疇に属するものでもマルクス主義哲学の原理を問うものでもない。「マルクス・エンゲルス」という映画を基軸として、異なる様々な時代的な断層や学問的な領域を横断することが問題となる。 

マルクスのレトリック
 映画の中でも引用されていたが、マルクスとエンゲルスは『共産党宣言 (Das kommunistischen Manifest)』の中で「(…) われわれの時代、すなわちブルジョワ階級の時代は、階級対立を単純にしたという特徴をもっている。全社会は、敵対する二大陣営、たがいに直接に対立する二大階級――ブルジョワ階級とプロレタリア階級に、だんだんとわかれていく」(大内兵衛、向坂逸郎訳) と述べている。マルクスは『経済学・哲学草稿 (Ökonomisch-philosophische Manuskripte)』の中でも、「労賃は資本家と労働者との敵対的な闘争を通して決定される」(城塚登、田中吉六訳) というように、同一カテゴリー内の二項対立概念を提示しながら論理展開を行っている。こうした対立する二つの事象を一つにまとめ上げる方法は二つある。一つは対立するAかBかのどちらか一方のみを選択し、他方を排除するものである。この展開において残るものはAかBかどちらか一方だけである。もう一つの方法はAとBどちらにも適応可能なCという別な事象を設定することで両者の対立を解消する方法である。
 マルクスの論証は前者の方法を、つまりは、ブルジョワジーとプロレタリアートという相容れない二つの階級を社会共同体内に導入し、その二つの階級の闘争によって近代以降の歴史が発展していくという論証を行っている。ここでレトリックとしての二項対立概念の導入という問題について考えてみたい。近代社会を代表する二項対立事象として、地主と小作農民や貴族と平民という事象ではなく、ブルジョワジーとプロレタリアートという二項対立概念が提示されている点は重要である。前二者の対立階級は近代においても確かに存在していたが、近代以前にも存在していた。近代になって初めて登場したものは後者の二つの階級のみであるからこそ、歴史的発展のためのキーワードとしてこの二つの階級をマルクスはピックアップしたのである。それに加えて、この二項対立概念の導入は、彼の生きていた時代に存在していた多様な階級を二つの階級に還元するという単純化を行っている点でも注目する必要があるものである。
 ベルギーの哲学者カイム・ペレルマン (Chaïm Perelman) は『レトリック (Rhétoriques)』の中で、われわれが誰かに何かを語る場合、普遍的聴衆 (auditoire universel) というものを想定して語ることはあり得ず、必ず特定の一人のあるいは多数の聞き手を想定して語っていると述べている。また、ペレルマンは「誰かに話すこと」と「誰かのために話すこと」は必ずしも一致しないという主張も行っている。この二つの指摘と関連するレトリック的側面で、マルクスが社会階級をブルジョワジーとプロレタリアートという二項対立概念に還元しているだけではなく、自らの言説をプロレタリアートのために語っているという点も強調することができる。この二項対立概念の導入は複雑に錯綜した現実の社会的様相を単純化できるだけではなく、その対立の解消方向の図式化も容易にする。それは前記した「AかBか」という方向性であるが、マルクスはプロレタリアートこそが人間の歴史的発展を担うものであると断言している。
 マルクスはまたブルジョワジーとプロレタリアートの対立関係を、スイスの論理学者ジャン=ブレーズ・グリーズ (Jean-Blaise Grize) の用語で言うならば、「対象の束 (faisceau d’objet)」を導入しながら論証している。対象の束はある事象の様々な側面を併記することによってその事象の特性を説明するレトリック上の方法である。たとえばマルクスとエンゲルスは『共産党宣言』の中で、「ブルジョワ階級は全世界をかけまわる」、「ブルジョワ階級は、かれら自身の姿に型どって世界を創造するのである」、「ブルジョワ階級は、生産手段、所有、および人口の分散を廃止する」と語ることによってブルジョワジーの特質に関する対象の束を構築している。これに対して、「(…) プロレタリア階級のみがほんとうに革命的な階級である」、「プロレタリア階級は大工業の最も独自な生産物である」、「プロレタリアは無所有である」と語ることによってプロレタリアートの特質に関する対象の束を構築している。この二つの対象の束はブルジョワジーが搾取する側でありプロレタリアートが搾取される側である以上、経済活動を基盤とした社会活動が前者による後者の疎外 (Entfremdung) である端的な証明となっている。富める者はより富み、貧しいき者はより貧しくなっていく社会システムが資本主義制度である。この不平等システムを壊すために具体的にどうしなければならないのか。この問題に対するマルクス及びエンゲルスの答えが共産主義であるが、この答えは相容れない二つの対立する階級を設定し、両者の社会的関係を図式化することによって導き出されたものである。ここで忘れてはならない問題がある。それはプロレタリアートのために話すということは可能な限り判りやすく話す必要があるということであり、G.W.F. ヘーゲル (Georg Wilhelm Friedrich Hegel) のように哲学者に向けて話すことではないということである。そしてそれこそがマルクスの実践であった。
 
理論と実践
この映画でも引用されていたが、エンゲルスの『フォイエルバッハ論 (Ludwig Feuerbach und der Ausgang der klassischen deutschen Philosophie)』の中に掲載されている「フォイエルバッハに関するテーゼ (Thesen über Feuerbach)」の第11テーゼである「哲学者たちは世界をさまざまに解釈したにすぎない。大切なことはしかしそれを変えることである」(松村一人訳) というマルクスの主張は、同時代の哲学者への痛烈な批判となっている。この言葉をアンリ・ルフェーブル (Henri Lefebvre) が『マルクス主義 (Le marxisme)』で引用しているフランスの生理学者クロード・ベルナール (Claude Bernard) の「仮説が実験的証明に従う場合それは理論となるが、それに対して仮説が論理のみに従う場合、それは体系となる」という言説によって補完するとき、マルクス主義における社会的実践の方向性がはっきりと見えてくる。前のセクションでも触れたように、たとえばヘーゲル的なレトリックは実証することや多くの読み手に向けて論述することを目的とはしていない。それゆえそれは体系的ではあるが実践的ではなく、その体系が如何に優れたものであったとしても、プロレタリアートにとっては耳を傾けても理解不能な言葉の羅列としか感じられないものであった。マルクスは少数の哲学者のためだけに語ることを決して行わなかった。
 ある学問にとって探究対象の体系化は重要であり、そのためにはその対象を厳密に分析し、対象間の関係を秩序付けていかなければならない。しかしこうした考察作業の前に対象をどのようなレベルから捉えるかという問題が存在する。現実認識においてヘーゲルの問題設定とマルクスの問題設定との差異は、基本用語としての前者における「世界 (Welt)」という語の中心性と後者における「社会 (Gesellschaft)」という語の中心性という違いに明確に現れているように思われる。世界という空間に生存する主体は階級的、地域的、あるいは個別的な主体的特質を持っているだろうか。もちろん一般化した形式においては持っているだろう。だが、それは確実に抽象化されたものである。それに対して、社会という空間内に生存している主体はどうであろうか。われわれが社会内にいる主体を想像するとき、われわれは世界内にいる誰かではなく、ある階級のある年齢のある性別を持った誰かを想像するのではないだろうか。そこには社会的な要因が刻印されており、抽象的な主体ではなく具体的な形式での誰かが想定されている。この用語の違いはマルクスが設定した読み手が普遍的聴衆ではなかったことを簡潔に物語っている。さらに、二人の間に見られる基本用語の転換が、弁証法という根本原理におけるヘーゲルの思想からマルクスの思想へのパラダイムチェンジにも連結していったと考えられるものである。 
「マルクス・エンゲルス」の中で、マルクスがピエール=ジョセフ・プルードン (Pierre-Joseph Prouhdon) の «La propriété, c’est le vol (所有、それは盗みである).» という発言に対して «Quelle propriété (如何なる所有か)?» と問うシーンがあった。この批判には大きな意味がある。何故なら、プルードンは «La propriété, c’est la liberté (所有、それは自由である).» とも主張しているからである。所有が盗みであり、自由であることの理由をプルードンは十分に分析していないのである。問題は資本主義というシステムの存在にある。このシステムの下で私有財産が可能となり、それが社会的なものとして機能する。資本主義体制の下で私有財産の所有は自由であるが、それと同時に、ブルジョワジーは私有財産を増大させるための経済活動を行う。自らの利益を可能な限り独占するために。そこにブルジョワジーのプロレタリアートへの疎外が現出する。それゆえ、ブルジョワジーとプロレタリアートという二項対立概念語の導入は社会的実相をはっきりと提示するために必要不可欠なものだったのである。
このように見ていけば、マルクスの言説の中に解体構築 (déconstruction) を主眼とする作業があることを発見することは容易である。しかし、何故解体構築が必要であるのか。問題はこのセクションの最初に示したマルクスの言葉にあるように「世界を解釈することではなく、世界を変える」ことである。それは言説を構築することが実践となること、すなわちジョン・L・オースティン (John Langshaw Austin) の著作のフランス語タイトルにあるように、«Quand dire, c’est faire (話すこと、それは行うことである) » という言表行為が問題となることである。それこそがマルクスの実践的な思想態度だったのである。
 
時代精神の声
 『経済学・哲学草稿』で、マルクスは「(…) 労働者の解放のなかにこそ一般的人間的な解放がふくまれている (…)」と、さらに、それは「(…) 生産にたいする労働者の関係のなかに、人間的な全隷属状態が内包されており、またすべての隷属関係は、この関係のたんなる変形であり帰結であるにすぎないからである」と語っている。ブルジョワジーとプロレタリアートの二項対立は単純な二項対立なのではなく、より根本的な人間すべてに関連する対立関係を内包しているとマルクスは考えている。それゆえ、この対立する階級はマルクス主義思想の根本原理を表わす用語となり得たのであるが、二つの階級の対立を止揚するためには、暴力革命によるプロレタリアートの勝利しかあり得ない点を彼は強調した。彼の生きていた時代、それがプロレタリアートの声であったことは疑うことのできない事実である。だが、それは現代においても有効な考えとなっているであろうか。あるいはまた、マルクスのレトリックは現代社会にも適応可能なものであろうか。マルクスが言うように実践が重視されるべきならば、こうした問いに答える必要性があるはずである。
私はマルクス主義者ではないが、彼の理論から実践に向かう言説的戦略の正しさは認めるべきだと考える。何故ならば、資本主義体制の下に抑圧され、搾取された民衆を解放することができる手段は、ブルジョワジーの独占する利益を力の行使によって奪い取ること以外にないからである。このテクストの最初の部分で言及した「馬を放つ」は、捕らえられ、人間に服従することを強いられていた馬を自由な大地に帰すために、共同体の掟を破った男、ケンタウロスの物語である。ケンタウロスが捕らえられた馬を解き放つためにできることは、夜中に厩舎に忍び込み、馬を盗み出し、草原に放つことだけであった。ケンタウロスの行為は資本主義体制下の自由についてのアレゴリーである。資本主義体制下での自由は、多くの貨幣を手に入れ、金という権力によって自由を買い取るか、もしくは、資本主義機構の強制する規律を無視し、自分の欲しい何物かを実力行使によって奪い取ることしかできない。マルクスは資本主義体制下の現実を赤裸々に暴き出したのである。
 こうした状況を変えるためには強固な支配システムを破壊する激烈な力が必要である。それが革命という力である。だが、現代においてプロレタリアートの声は民衆の声と一致しているだろうか。マルクスの時代、自分たちはプロレタリアートであると考える民衆はヨーロッパ中に溢れていた。今、目の前にいる人々を見まわしてみよう。プロレタリアートと言い得る人がどれだけいるだろうか。支配する側が作り上げる権力システムは巧妙である。C.ライト・ミルズ (Charles Wright Mills) の指摘にあるように、支配体制は支配される側をホワイトカラーとブルーカラーに分離させた。この分離によってプロレタリアート階級は分断され、階層化されただけでなく、プロレタリアート階級の力も極端なまでに削がれていった。つまり、プロレタリアートの声がもはや民衆の声の代表ではなくなってしまったのだ。それはプロレタリアートという階級の解体を意味した。しかしながら、資本主義システムは未だに強力に押し進められている。
 資本主義というシステムは最良のシステムでも最善のシステムでもない。もしもわれわが自由や平等というものを真剣に実現したいと考えるならば、階級闘争の歴史は終焉してはいないことがすぐに理解できるはずである。ブルジョワジーは世界に君臨し続けているのだから。しかし、現代という時代に生きている民衆の新たな声の代表者は誰なのだろうか。それはマルクスが言ったようにプロレタリアートではない。このことは確かである。民衆の声の新たな代表者を見つけ出すこと、それを行わなければマルクスの理論も実践も過去のノスタルジーとしての意味しか持たなくなってしまうのではないだろうか。
 
 マルクスの思想にはわれわれの未来に直結する何かがまだ存在しているだろうか。この問いについて考える前に、今ここに生きているわれわれはあまりにも過去の歴史に対して真摯な態度で向き合ってはいないのではないかという疑問が沸いてくる。人間の歴史は暴力の歴史である。肉体に加えられる直接的な暴力から制度が強制する暴力へと暴力の形態が歴史展開によって大きく変わっていったが、資本主義システムの下で、権力者によるあらゆる手段を通して民衆を搾取しようとする暴力が存在し続けている。こうした事実を忘れて、われわれは資本主義を唯一の正しい社会システムであると思い込んではいないだろうか。この映画を見ていた多くのシニア世代の観客たちのどの顔にも、若きマルクスが抱いた革命への情熱の炎が燃え盛ってはいなかった。では、何故この場所にいて、映像を見つめていたのか。それはノスタルジーに過ぎなかったのか。ノスタルジー、それも無意味ではないだろう。ノスタルジーを抱けるということは、かつて何かを持ったことがあるということだからである。今、革命の時代から大きく遅れてやって来た世代にとって、プロレタリアートという語は死語となっている。この現実は少なからず現代の様相を映し出している。
 『啓蒙の弁証法:哲学的断想 (Dialektik der Aufklärung: Philosophische Fragmente)』の中で、マックス・ホルクハイマー (Max Horkheimer) とテオドール・アドルノ (Theodor Adorno) は近代社会の基盤を構築した啓蒙主義思想に内在する野蛮性を強く批判した。彼らはこのイデオロギーの持つ強権性について、「存在し生成するものとして、あらかじめ啓蒙によって承認されるのは、ただ統一をつうじて把えられるものだけである。啓蒙の理想は、そこからすべての個々のものが導き出される体系である。この点では、啓蒙が合理論的方向を取ろうと、経験論的方向を取ろうと、変わることがない。個々の学派によって、公理が異った解釈を受けることはあったとしても、統一科学の構造はいつも同一であった」(徳永恂訳) という指摘を行っている。近代の基盤を確固たるものとした啓蒙思想の根本的統一形態とは何か。それは近代的自我であるが、その自我はあらゆる階級の考察から導き出されたものではなく、近代の担い手であったブルジョワジーをモデルとして導き出されたものである。そして、この自由で独立的な自我を持つ近代人と呼ばれる人々が目指した現実的、社会的な統一形態が資本主義システムである。それゆえそこにはこのシステムを絶対視する暴力的な強制力が内在している。ホルクハイマーとアドルノはその野蛮な力を糾弾した。
近代が持つ矛盾と暴力性を激しく非難した点で、ホルクハイマーとアドルノはマルクスの思想を継承している。近代的自我のモデルがブルジョワジーのものである以上、彼らが作り出すシステムは彼らにとって有利なものであり続け、それ以外のシステムを認めないのは当然のことであるだけではなく、近代科学がその強烈な影響下にあるのも当然のことである。近代科学によって客観的真理とされたものの中にも、それを客観と見なす主体の影が反映している。それこそがブルジョワ的主体の影だ。この主体に対して異議申し立てを行うことが可能な主体としてマルクスはプロレタリアートをモデルとした主体を提示した。ブルジョワ型の主体に対するアンチテーゼとしてのプロレタリア型の主体は、階級闘争による革命の担い手となり、人間の疎外を打ち破る新たな主体のモデルとなるはずであった。だが、歴史はそうはならなかった。プロレタリアートという語は、今、死滅しようとしている。それゆえ、ブルジョワジーとプロレタリアートの二項対立によって社会の様相を図式化しようとしたマルクスの論証は現代において有効な分析装置ではない。だが、相反する二項を示し、その葛藤によって社会的実相を図式化する方法は現在も十分に効力のあるものではないだろうか。対立する二項がなければ資本主義体制が唯一の正しいシステムとされ、社会的矛盾は解決されずに、持たざる者の疎外が止むことがなく連続し続けるからである。問題は現代において如何なる二項対立概念を用いるかではないだろうか。新たな対立概念の創造によってマルクスの思想が復活する可能性があるように私には思われるのだ。
この映画を見ないであろう多くの若者たちは、多分、共産主義というものを現実化しようと望んだ多くの人々が実際に存在した時代があったことなど考えたこともなく、ファンタジーにしか過ぎないと思っているのではないだろうか。この映画を見た年配の人々の抱いているノスタルジーと若者たちにとってのファンタジー。何れも共産主義というものを空想的な夢物語として捉えている点で共通している。だが、過酷で貧富の格差を大幅に増大させる新自由主義が歴史の舞台に登場できたように、新共産主義というものも歴史の舞台に登場する可能性を持っているのではないだろうか。マルクスの『資本論』をまったく読んだことがないと語っているにも係わらず、現代の経済学を代表する学者となったトマ・ピケティ (Thomas Piketty) も、この格差の増大が恐ろしい結果を招くという警鐘を鳴らしている。それは資本主義システムの危うさに対する警鐘である。このシステムは何らかの形で乗り越えなければならないものなのである。そのためには新たなレトリックを使った論証が絶対的に必要なのである。
 満杯の映画館から出て、私はゆっくりと、夕暮れの街を歩いた。横断歩道の信号が赤になり立ち止まったとき、向こう側の空にある大きな雲が目に入った。私と雲との距離はどれだけあるだろうか。遠い。とても遠い。しかし、いつかはこの距離も縮められるかもしれない。それが夢ではなく現実になるために、私は、いや、われわれは一歩前に進み出る必要があるのではないだろうか。私は、雲の上に微かに輝き始めた小さな一つの赤い星を、じっと見つめた。 

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