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宇波彰現代哲学研究所

多種多様な「知」の交流を通じ文化創造との実践的な橋渡しをめざし、新たな学問分野の開拓を行う研究機関のブログです。

藤田嗣治あるいは戦争画の巨匠

 彼女は頬杖をつきながら、一人カフェで手紙を書いている。大きなインク染みがある手紙。インク壺を倒したのか。苛立って文字を消したのか。どちらの予想も外れているだろう。何故なら彼女の表情は朧気で、視点は定まっていないからだ。片方の目はそこに、もう一方は向こう側に向けられている。いや、そうではない。この絵をしっかりと見つめると、彼女が斜視であることに私は気づいた。藤田嗣治が1949年に描いた「カフェ」という作品を、私は7月31日から10月8日まで東京都美術館で開催されている「藤田嗣治展」で初めて、実際に目の前で見た (「カフェ」には三つのバージョンがあるが、彼女の斜視が一番はっきりと判るものは今回展示された作品である)。この絵に描かれた彼女が斜視であったこと、それが藤田の戦争画に関する謎を説く一つの手がかりになるのではないか。私はこの発見によって、一般的に見れば、「カフェ」という絵とは直接には関係しないであろう藤田の戦争画 (展覧会には戦争画である「アッツ島玉砕」と「サイパン島同胞臣節を全うす」とが展示されていたが、この二点の戦争画は異端的なものとしてぞんざいに、その意味を厳密に問うこともなく展示されていたことも注記しておこう) について改めて真剣に考えてみたいと思ったのだ。
 藤田や彼の描いた戦争画が論じられているテクストは多数存在している。藤田の絵について特別に研究している訳ではない私でも、菊畑茂久馬の『フジタよ眠れ』や『天皇の美術:近代思想と戦争画』(副題のあるものは、二度以上表記する場合、副題を省略して示す)、田中比佐夫の『日本の戦争画』、田中穣の『藤田嗣治』、司修の『戦争と美術』、近藤史人の『藤田嗣治:「異邦人」の生涯』、河田明久監修の『画家と戦争:日本美術史の空白』、柴崎信三の『絵筆のナショナリズム:フジタと大観の“戦争”』、平山周吉の『戦争画リターンズ:フジタ嗣治とアッツ島の花々』、富田芳和の『なぜ日本はフジタを捨てたのか?:藤田嗣治とフランク・シャーマン 1945~1949』などには一度は目を通した。これらのテクストを読むと、藤田の戦争画の問題は極めて複雑な様相を呈していることが理解できる。藤田は、元々は良家の末っ子として生まれ、甘やかされ、自分の名を売ることに長け、確固とした思想基盤はなく、軽妙に世の中を渡り歩いた画家であった。だがこうした個人的側面に反して、彼の描いた絵画、特に戦争画には軍部への追従と率先して軍国主義プロパガンダに協力した側面が多々ありながらも、現存する作品では『アッツ島玉砕』以降、鬼気迫るものがあり、さらには神聖な威厳さえ感じさせる力がある点を、どのテクストも一致して強調していた。
 しかし、何故このような戦争画を藤田が描いたのか。また、戦争画制作以前の藤田の作品と戦争画との関係性、戦争画と戦後の彼の作品の関係性とは何かという問題について詳細に考察しているテクストは見つけられなかった。それゆえここではこの問題について以下の三つの側面から検討していこうと思った。最初の側面は藤田の戦争画を前期と後期に分けてその特質を探るというものであり、第二のものは藤田の戦争画と無残絵の巨匠である月岡芳年の浮世絵との連続性を考察しようとする側面である。第三のものは冒頭で語った「カフェ」と藤田の戦争画との関係を探ろうとする側面である。

藤田嗣治の戦争画
 1938年、日華事変勃発後の日本軍による漢口攻略作戦時に、藤島武二、石井柏亭、石川寅治、田辺至、藤田嗣治、中村研一という6名の画家が海軍省嘱託として戦地である中国に派遣されたが、藤田が初めて戦争画を描いたのはその時であると言われている。その後、彼は多数の戦争画を制作したが (菊畑茂久馬の『フジタよ眠れ』には、スケッチなどを入れると500点以上を制作したと書かれている)、戦火や藤田自身による焼却などによって現存する代表作はアメリカから日本に無期限貸与され、東京国立近代美術館に保管されている14点である。その14点とは、「南昌飛行場焼打」(1938:これ以後藤田の作品の後に書かれた数字は制作年を示す)、「武漢進撃」(1938)、「哈爾哈河畔之戦闘」(1941)、「十二月八日の真珠湾」(1942)、「シンガポール最後の日 (ブキ・テマ高地)」(1942)、「アッツ島玉砕」(1943)、「ソロモン海域に於ける米兵の末路」(1943)、「○○部隊の死闘――ニューギニア戦線」(1943)、「血戦ガダルカナル」(1944)、「神兵の救出至る」(1944)、「ブキテマの野戦」(1944)、「大柿隊の奮戦」(1944)、「黛空挺隊敵陣に強行着陸奮戦す」(1945)、「サイパン島同胞臣節を全うす」(1945)である。このセクションではこれらの作品を中心に検討していく。
 先ず、上記した作品は「南昌飛行場焼打」から「十二月八日の真珠湾」までの前期と「シンガポール最後の日 (ブキ・テマ高地)」以降の後期に二分して考察することが重要であると思われる。何故なら、前期の作品は明るい色彩画面のものが多く、後期に見られるような残虐な殺戮場面は直接描かれてはおらず、軍艦、軍用機、戦車などの兵器が構図の中心となっている作品であるが、後期の作品はこれとはまったく異なる以下の特徴を持っているからである。それは画面全体の暗い色調、人物の動きの激しさ、多くの人間同士の殺戮図といったものである。また、前期の近代戦用兵器の中心性に対して、画面に登場する人物が持っている兵器が小銃と刀という小型のものであるという特徴も指摘できる。こうした前期と後期の違いに基づき藤田の戦争画を分析していく方法は極めて有効性のあるものである。この違いが何故生まれたのかを問うことによって藤田の戦争画の根本的な問題性を解明することが可能になるからである。
1938年の海軍嘱託で中国戦線に赴いた直後に藤田が描いた戦争画は、前述したように近代戦の主要兵器を画面の中心に据えたものであるが、こうした花形兵器と呼び得るものがあるだけで、戦争画としての迫力も緊張感もない作品である。近藤史人は前記した『藤田嗣治』の中で、『日本の戦争画』で示された田中比佐夫の意見に従いながら、藤田の前期戦争画について、「芸術としての価値を云々することはもちろん論外としても、戦争の記録性や「戦意高揚」の視点から見て藤田の作品が少しでも役に立ったかどうか、疑問である。この時点の藤田には戦争画を描こうとする意欲が欠如していたとしか思えない」と書いている。この時期の藤田の戦争画は大きな絵画的力を持ってはいなかったと断言できるだろう。1941年作の「哈爾哈河畔之戦闘」と1942年作の「十二月八日の真珠湾」も前期のこうした特徴を引きずった作品である。「哈爾哈河畔之戦闘」には別の後期戦争画のような残虐な戦場風景が展開するバージョンがあったという証言もあるが、その作品が発見されていない以上、現存するこの作品が後期の戦争画と通じるものであるかどうかを確定することは不可能である。いずれにせよ、前期の作品は見せかけの忠臣さによって、小手先だけで描かれている感は否まれない。それに対して後期の多くの作品は激烈な情念を込めながら、戦争の残酷な情景を細密に描写している印象を強く受けるものである。
 この差異は彼の内面に反戦的な考えが生まれたからでも、軍国主義に抵抗しようという意識が目覚めた訳でもなく、また、戦争によって尊い命を失った兵士たちや民間の人たちへの哀悼の念や畏敬の念を表わしたいと思ったためでもないと私は考える。藤田の作品の変遷を追うと、彼が日本画や浮世絵の様々な技術を応用することで独自の油彩画技術を作り上げていったことが了解できるが、戦争画におけるこの前期から後期への転換も、日本画や浮世絵を解体構築することによって編み出された一つの方法が完成されたためのものであると考えられるのだ。つまりは、この変化はイデオロギーや内面的な変化というよりも、技術的な発展として捉えることが先ず重要であるように思われるのである。しかし、この問題は複雑な検討を要するものであるゆえに、次のセクションで改めて詳しく論述することとする。
 
月岡芳年の浮世絵と藤田の戦争画
 藤田の後期戦争画の残虐性と悪魔的な神聖さのベースになったものは何か。私はそれを知ろうと思い前述したような藤田に関する様々なテクストを読んでいった。この問の一つの答えとして、たとえば柴崎信三は『絵筆のナショナリズム』の中で、藤田の「日本にドラクロア、ベラスケス、の様な戦争画の巨匠を生まなければ成らぬ。日本は、只、花鳥山水の画家のみを続出する訳には行かなくなった」という言葉を藤田の戦争画制作を解明するためのキーワードとして引用している。確かに、彼の戦争画はドラクロワ、ベラスケスはもちろんのこと、ゴヤ、ジェリコー、ダヴィドといった西洋の偉大な画家たちの戦争画を参照しながら描かれており、その点を注記しているテクストは多い。だが、ただそれだけではない。私はこのセクションの冒頭で書いた彼の戦争画についての問いに対する納得のいく答えを発見することがすぐにはできなかった。しかし、田中穣が『藤田嗣治』の中で書いている藤田の作品のコレクターで、秋田の大資産家であった平野政吉 (彼は縦が3.65mで、横幅が20.5mの大作「秋田の行事」(1937)の制作を藤田に依頼した人物として有名である)の以下の言葉は極めて大きな意味があるように思われた。藤田は「(…)パリ (エコール・ド・パリ)時代から、猫をはじめ、サボ (木靴)、ランプ、めがね、コウモリ傘など、それまで絵の材料には決してならなかったはずの小道具を、画面のなかに持ち出している。幕末の浮世絵版画のやり方を油絵にとり入れて、成功しているのだ」と、また、「(…)油絵の本場で、まともに日本の錦絵を描いて、それを作品として通用させるなんざあ、世にもまれな大馬鹿か、気ちがいか、大天才か (…)」と語った言葉である。平野は藤田の油絵のベースにあるものが日本の絵画技術を応用したものであることを明確に感じ取っていたのである。
エコール・ド・パリの時代のフランス美術界を席巻したあの乳白色のキャンパスの上に引かれた細く黒い墨絵の中にあるような線。雑多なガラクタとさえ思われるオブジェを画面に巧みに配置する構図。こうした絵画技術は浮世絵や墨絵といった日本の伝統美術の技法を研究し、それを独特な手法によって油絵制作に藤田が応用したものである。異邦人の眼差しを基盤とした卓越したテクニックはオリジナリティとしてフランスで高く評価された。日本の絵画技術を要素分解し、新たな油絵の表現方法を創り出すために再構築する作業、すなわち解体構築による絵画創造を戦争画において完成したものが、藤田の後期戦争画であったと考えられるのだ。
 だが、彼はどのような日本の絵を基盤としながら解体構築作業を行っていたのだろうか。それは平野が鋭い眼差しで分析したように浮世絵であるが、特にそのベースとなったものは月岡芳年の絵に典型的に表されたものであるように思われる。芳年は江戸後期の浮世絵の巨匠である歌川国芳の弟子であり、江戸末期から明治初期にかけて活躍した。彼は「英名二十八衆句」などの残虐な殺戮シーンが描写されている無残絵 (血みどろ絵や残酷絵とも言われる)を多数制作したことで有名であり、そうした作品の不気味な魅力に対しては芥川龍之介、江戸川乱歩、三島由紀夫などの作家も言及している。しかしそれだけではなく、歴史画さらには戊辰戦争や西南戦争を描いた戦争画も数多く残している。彼の無残絵と戦争画には共通する特徴が存在する。この二つのジャンルの彼の作品に関して特に注目すべき共通点は、鮮やかな血に彩られた赤がしばしば強調されている点と刀を振り下ろすといった画面の登場人物の運動性すなわちダイナミズムという点である。藤田の後期戦争画は今述べた最初の特徴を排して暗い色調の画面の上に描かれていながらも、二番目の特徴のダイナミズムを継承することによって構築されている。この解体構築作業によって画面にどのような効果が生み出されていっただろうか。
 藤田の戦争画には血は描かれてはいない。前期の画面全体が明るい色調で描写された作品においても藤田の作品には赤い血は流れてはいない。前述したように、この時期の戦争画は戦車や軍用機などの近代兵器が画面の中心となっているゆえに血が流れていないのは当然であると考えられるかもしれない。だが、後期作品の肉弾戦や自決シーンの描写においても血は流れていないのだ。刀を振り上げ切りつける。銃剣を突き刺す。小銃を敵に向けて放つ。そうした戦争の殺戮光景が描かれていれば、そこに鮮血が噴き出ていたり、血の海が流れていても何の不思議もないはずである。だが、そこに血は描かれていない。画面全体を覆う暗い色彩のトーンの中では鮮明な赤という血の色はその強烈さを失う。藤田は彼の戦争画から、モデルにしたと思われる芳年の無残絵や戦争画に描かれていた「血」という要素を完全に排除した。刀を振りかざしたり、銃剣を突き刺すといった躍動感溢れる動きは継承した。しかし、そこには模倣があるだけではなかった。画面の全体的なトーンが暗いため、動きがはっきりとせず、描かれた人物が多いために蠢く人々の激しい動きは中和され、神聖とも形容できるような威厳が付加されているのだ。解体構築によるオリジナリティの創造という藤田の制作方法が戦争画においても確実に実行されているのだ。この制作技術の獲得は藤田のどのような意識あるいは無意識から生まれたものなのか。この点を検討することが是非とも必要であるが、それは次のセクションで詳しく考察していくこととする。
 
異邦人としての眼差し
 藤田がフランスで名声を勝ち得た大きな理由は、彼が外国人だったからである。さらに付け加えれば、彼が自らの異邦人性を武器にするという戦略が成功したからである。しかし、藤田は日本においても異邦人として生きていたのではないだろうか。太平洋戦争中の藤田はそれまでのオカッパ頭と奇抜な服装や行動を改め、坊主頭と国民服という軍国主義政府が奨励するスタイルに変身した。そして多数の戦争画を制作した。外見的には軍国主義政府に従い、当時の日本の環境に同化したように見えるが、1943年に「アッツ島玉砕」が東京府美術館 (現在の東京都美術館)で公開されたときの逸話を知れば、藤田の異邦人性が変わっていないことが確認できる。
この絵の前には賽銭箱が置かれ、絵を見に来た人々は賽銭箱に小銭を投げ入れ、手を合わせた。小銭が入れられるたびに絵の横にいた藤田は頭を下げた。このパフォーマンスは藤田の異邦人性が戦中にも消え去ることなく継続していたことをはっきりと示すものである。異様な光景。たかが一枚の絵、それも自らの描いた絵を拝む老人たちや、その絵に頭を深々と下げる子供たち。彼らは絵の中の人物たちを英霊として崇め、深い哀悼の念を表した。そんな人々を前にして、真面目くさった藤田は一大パフォーマンスの成功を内心ほくそ笑みながら見ていたに違いない。藤田以外の誰がこのようなパフォーマンスを思いつくことができたであろうか。軍国主義体制に迎合しているように見せかけながらも、内面ではそのレジームを軽蔑し、嘲笑し、ファシズム世界とまったく別の世界に身を置き、愚劣な当時の日本の体制を高見から超然と眺めていた者でなければ、こうしたパフォーマンスを敢行することは不可能であった。藤田は軍国主義日本においても異邦人だったのである。
「私が日本を捨てたのではない。日本に捨てられたのだ」という藤田の言葉は、彼の最後の妻だった君代が、戦後のインタビューの中で語ったものである。今年の5月に発刊された富田芳和の『なぜ日本はフジタを捨てたのか?』によれば、君代の正確な言葉は「フジタはことあるごとに私に言いました。私たちが日本を捨てたのではない。日本が私たちを捨てたのだ、と」であったようである。藤田が実際にどう言ったかは定かではないが、彼の中には日本に捨てられたという思いがあったことは疑いのない事実であり、多くの美術研究者や批評家はこの点を強調している。だが、藤田がこの言葉通りに自らを確かに追放者と見なしていたとしても、彼は日本から追い出されるずっと以前から日本という枠を外れ、日本にいながら異邦人であった。いや、エコール・ド・パリの時代以降、何処にいても彼は異邦人であり続けた。解体構築作業による絵画制作。それは藤田が異邦人性を持ち続けることによって可能であった創作作業であった。
冒頭で示した「カフェ」に描かれた婦人の眼差しに戻ろう。斜視について、三島済一が総監修した『眼の事典』の中には以下のように記載がある。「斜視は両眼の視線が正しく目標に向いていない状態である。(…)古代エジプトでは内斜視 (cross-eye)は邪悪の目 (evil-eye)として嫌われていたらしい。斜視は眼位異常にともなって視力、両眼視機能にも異常がみられる疾患である。外見については10歳をこえて成人に向かうほど心理的負担の問題が大きくなる」と書かれているが、「カフェ」の彼女の二つの目が向けられた対象の差異は、彼女の内面も二つの世界に分離しており、彼女がここにいながらもあそこに向かい、あそこを目ざしながらもここにいることを示しているのではないだろうか。そして、それこそが彼女の異邦人性であることも示している。彼女のこの姿はまさに藤田の姿と重なってはいないだろうか。もちろん先ほども指摘したように、この二つの世界を同時に見つめる眼差しを持つ異邦人性があったゆえに、藤田は日本の墨絵や浮世絵の絵画的要素を分解し、それらの要素を新たな形で再構築できたのであるが、その異邦人性は何処にいても他者として排除される立場に彼を追い込んでいった。そう私には思われるのだ。それは彼自らが望んだことであった可能性もあるが、それによって共通基盤としての共同体性というものを藤田は喪失した。しかし、このセクションではこの異邦人性という問題についてこれ以上は言及せずに、最後のセクションで改めてより詳しく論じていく。
 
ジャン=ポール・サルトルは『ユダヤ人』の中で、異邦人であるユダヤ人について、「ユダヤ人問題はわれわれの問題だ」(安藤信也訳)と述べているが、ジュリア・クリステヴァは『外国人』の中で異邦人性という問題をより多角的に分析し、「人とは違う自分を認識した時が外人街道の始まり、人はみな外人、諸々の絆や共同社会に背く存在なのだと覚った時が旅の終り」(池田和子訳) と語っている。共同体が我と他者との間主観的関係によって成り立つものであっても、我と他者の差異は決して消えることはない。共同体が間主観的関係を築けば築くほど我の中の他者性は強まっていく。それゆえ異邦人性は実は誰にでも存在しているものなのだ。しかしながら、その異邦人性の自覚はクリステヴァが言うように開かれた共同体を構築するための鍵に必ずしもなるものとは限らない。異邦人であることを前面に押し出し、そのことによって独自な世界を生み出し、他者を平伏させ、支配する。異邦人性のそういった使用価値も存在するのだ。その使用価値の絵画的利用法に気づいた一人の画家が藤田であったと私は考える。
 絵画を描くために伝統的技術の習得は必須であるが、そうした技術に忠実であるだけでは新たな芸術の創造は不可能である。『なぜ日本はフジタを捨てたのか?』の中で富田は、藤田の絵画制作における手仕事的技術の中心性を強調している。それは藤田の職人技の完璧さを重要視した主張であるが、職人的技術だけでは伝統的な作品は作れたとしても、新たなジャンルの芸術作品は作ることは不可能である。藤田は新たな芸術を創造するためにそうした技術を用いたのであって、その技術の習熟度のみに焦点を当てても無駄である。解体構築作業がなければ、藤田の絵は生まれなかったのである。解体構築によって制作された絵は、要素分解されたものが新たな組み立て作業によって再構築されたものであるが、その作業を経過することによって新たな要素の組み立ては驚くほどの異化効果を発揮する。この効果を明確に表しているもの、それが藤田の後期戦争画である。殺人者が英雄に、絶望し自決する人々が崇高な臣民に、チャンバラ絵が聖戦画に、残忍な殺戮図が神聖な情景に一変する効果。それは解体構築作業から誕生した。この作業を導いたものの中には、藤田の持つ異邦人の眼差しがあった。
 江戸川乱歩は『残虐への郷愁』において、芳年の無残絵を例に取って、「神は残虐である。人間の生存そのものが残虐である。そして又本来の人類がいかに残虐を愛したか。(…)社会生活の便宜主義が宗教の力添えによって、残虐への嫌悪と羞恥を生み出してから何千年、残虐はもうゆるぎないタブーとなっているけれど、戦争と芸術だけが、それぞれ全く違ったやり方で、あからさまに残虐への郷愁を満たすのである」と書いている。戦争と芸術はわれわれの中で眠っている残虐性を求める心を目覚めさせる魔力を持っていることを乱歩は見抜いていた。だが、何故われわれの残虐性は戦争と芸術の中で発揮されるのだろうか。また、何故、われわれは残虐なものに神聖ささえ感じてしまうものなのだろうか。それはクリステヴァが指摘したようにわれわれの中に常に異邦人としての他者が住んでいるからではないだろうか。我の中に存在している他者はポリフォニーを生み出すだけのものではない。排除すべき対象であり続けるのだ。他者は異邦人であるがゆえに排除の対象となる。それゆえ、そうした他者を抱えざるを得ないわれわれの存在性は、我と他者に分裂していく可能性を常に内包している。だが、一般的な存在性において我の中の他者は抑圧されており、自己同一性によって私は私であるという認識の下で、自らの存在の一元性と恒常性とをわれわれは確信している。ところが、特異な人間 (その多くは芸術家と呼ばれるが)は自らの中の異邦人に気づき、我の多重性を感じ取るのだ。
フランスのジャーナリストであるフィリップ・プティとの対話集である『ルジャンドルとの対話』(森元康介訳) の中で、ピエール・ルジャンドルは人間の歴史やアイデンティティといったものの中にある積層性という問題について語っている。時間的な変遷も人間の心的システムも単層的なものではなく、様々に異なる層が組み合わされ折り重なって構築されていることに大きな意味がある点を彼は強調している。そして、以下の二つの発言は藤田の絵画制作を考える上で非常に示唆に富んだものである。「誰も他人の代わりに夢を見ることできない。それと同じように文化というものは孤独の産物、つまりアイデンティティの構成の産物なのです」という発言と「アイデンティティは他性なくしてはありません。両者は一体となっている」という発言である。画家のオリジナリティは画家のアイデンティティを基盤として構築されるものであるが、アイデンティティの積層性、つまりは自己内で積み重なっている他者性は、オリジナルティの大きな武器となる一方で、画家の存在の統一性を引き裂くものでもある。それだけではなく、自己の他者性が増幅すれば、画家は異邦人としての眼差しで世界を見つめることによって、実際に我の外部にいる他者からもアウトサイダー (それを悪魔と呼ぶことも、敵と呼ぶことも可能であるだろうが)として、共同体から追放される運命を担う者ともなる。ルジャンドルの発言を藤田の創作活動に当て嵌めるとき、このオリジナリティとアイデンティティのドラマがはっきりと理解できるようになる。
「カフェ」の彼女の眼差し。それが示すもの、それは異邦人の眼差しだ。複数の我があったとしても、その複数の我が多声的に響き合うならば、我の中の多数の声は一つのハーモニーとなり調和する。しかしながら、多数性は重なり合い一つになるとは限らない。互いに反発し合い、分裂する方向へとも向かう。こことあそことを同時に見つめるゆえに彼女の斜視は忌み嫌われる異邦人としての悪魔の目ともなり得るのだ。藤田の後期戦争画は残虐性と崇高性という相反する二つの世界を彼が併せ持っていたがゆえに創造できた絵であった。その二重性は異邦人性なくしては獲得できないものであったが、藤田が自らの異邦人性を意識的に明確に理解していたかどうかは定かではない。「私が日本を捨てたのではない。日本に捨てられたのだ」という言葉は、自分自身の異邦人性に対して無知であったゆえに語られたものであるようにも思われるが、常に本性を見せようとはしない藤田の偽りの言葉であるとも思われるからである。真実がどうであるにせよ、確実に述べ得ることは、異邦人としての存在の不安定さと流浪性をいつも抱えて生きねばならぬ運命をあの眼差しが象徴している点である。それは片方の瞳の中に聖なる光を持ち、片方の瞳の中に残虐な闇を持つ彼女であるからこそ知ることができる世界。藤田の「カフェ」は彼の戦争画に対する一つの郷愁を示しているようにさえ思われる作品である。
 「カフェ」と藤田の戦争画との間テクスト性を見つめながら、私は歴史の流れの中に登場するゲームすなわち遊戯性の反語的な意味について考えた。残虐性も美であるならば、殺戮の向こうにも芸術があるならば、戦争をどのように描こうとも許されるだろう。ジャン=リュック・ゴダールの言葉を捩って、「正しい絵などはない。美しい絵があるだけだ」と言うこともできるだろう。しかしながら、それがどのように評価されようとも、藤田が戦争に反対せずに、戦争を肯定して戦争画を描いたということは消し去ることができない事実である。その事実に対して自らの異邦人性を叫んだとしても、それが免罪符となることは決してないであろう。「カフェ」の彼女の眼差しがいくら孤独に虚空を見つめていようとも。私は改めて異邦人の眼差しをじっと見つめた。だが彼女の眼差しと私の眼差しがぴったりと合うことは永遠にないであろう。それでも私は彼女の二つに分裂した眼差しを追い続けたいと思った。 

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