宇波彰現代哲学研究所

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清岡卓行さんを悼む

詩人であり、作家であり、また批評家でもあった清岡卓行さんが、去る6月3日に亡くなった。清岡さんのお宅は私の家と文字通り指呼の間にあり、隣人としてのおつきあいがあった。私の記憶のなかに生きている清岡さんのことを書き記しておくのは、隣人の責務だと考える。
ある日、といってもすでに数十年も過去のことであるが、家の近くの西武遊園地駅のホームで電車を待っていると、そのころ法政大学で教えていた清岡さんが悠然と現れた。そしていきなり、「石田幹之助の『長安の春』を読みましたか」ときかれた。清岡さんは突然に思いもかけないような質問をしてくる人であった。最初にお宅に伺ったときに、清岡さんに「あなたは形而上学をどう思いますか」と質問されたのを覚えている。清岡さんは『長安の春』のなかに、牡丹の花のなかに菩薩が存在するという中国人の詩的な想像力のことが書かれていると教えてくれた。そういう話をするとき、清岡さんは非常に感動したおももちで語るのが常であった。たとえば、以前に私の家の玄関の脇にひともとのニセアカシアがあった。それが咲いていたときも、「あのアカシアは素晴らしい」と清岡さんは私に語ったが、そのときもとても嬉しそうだった。『長安の春』の牡丹のことも、ほとんど興奮したような感じで、「牡丹のなかに菩薩がいるんだ!」と、ほとんど叫ぶように私に話したのである。私は、いまちょうど家の庭に牡丹が咲いているので、帰ったら見ることにしますといった。
翌日だったと思うが、清岡さんから私の家の牡丹の花を見たいという電話がかかってきた。まもなく、背広を着てネクタイを締め、しかも下駄履きという出で立ちの清岡さんが現れた。そして牡丹を前にして黙ってたたずんでいたが、じっと牡丹を見つめている時間は、異常なほど長かった。そのとき私は、清岡卓行という詩人が「対象をじっと見つめる人」であることを実感した。牡丹の花も清岡さんを見つめていたに違いない。清岡さんの長い詩「牡丹のなかの菩薩」をいまわれわれは思潮社の現代詩人文庫『続続 清岡卓行詩集』(2001年刊)で読むことができる。そこには牡丹の花を凝視した詩人の経験が昇華したかたちで示されている。私に語った『長安の春』からの引用がエピグラフとして使われている。王維、杜甫の詩が引用されている。牡丹の花というミクロコスモスから、大きな世界が見えてくるような作品である。「神は細部に宿る」というヴァールブルクのことばが想起される。これはベンヤミンも特に気に入っていたことばであると、ショーレムがベンヤミンを回想した文章のなかに記されている(西田書店刊『ベンヤミンの肖像』に収められている)。また私は以前からアメリカの哲学者チャールズ・サンダース・パースに関心を持っていて、彼に関する論文を書いたことがある。一冊を編集するのに何年もかかるので、私の生きているあいだには絶対に完結しないパースの『年代順著作集』を第6巻まで買っているが、彼の思想の根底にある「連続性」、「無限の共同体」の概念が清岡さんのこの詩に具体化されているような気がしてならない。宇宙は全体としてつながっていて、どこかでわれわれがその一部を見ると、やがてそれを手がかりにしてもっと広い世界を見ることができるようになるかもしれないのである。牡丹の花に菩薩が存在するというのは、その花が世界とつながっているということである。哲学の世界と詩の領域も連続していると考えたい。清岡さんが薔薇の花を愛していたこともよく知られている。しかし、花を見つめるときも、その眼はもっと大きな世界を見ていたのである。
清岡さんの家が多摩湖という人造湖の近くにあることは、彼の詩作品に親しんでいる人であれば誰でも知っているであろう。多摩湖は清岡さんの作品の源泉のひとつであるといえるかもしれない。多摩湖は村山貯水池とも呼ばれていて、大岡昇平の『武蔵野夫人』の舞台のひとつでもある。『武蔵野夫人』で描かれている、カイツブリが貯水池の水に潜ってはまた現れる姿は、いまも変わらない。いわばそのあたりは文学的な雰囲気のあるところである。この人造湖は、時おり修復工事をする。現在も本格的な堤防の補強工事が進行中で、水が抜かれているが、数十年前にも同じように水を抜いて補修工事が行われていた。水が抜かれると、「湖底の村」が現れる。清岡さんは水のなくなった貯水池に異常なほどの関心を示していた。それもまた清岡さんにとっては、たいへん面白いことであるらしかった。湖底には鎌倉街道もあったのであり、水の下に隠れていたものがにわかに露わになったことが嬉しいようであった。そのときも電話があって、『東村山市史』を持っていたら貸して欲しいということであった。私は近所にある石仏にも関心があったので、『東村山の石仏』という地元の研究者の労作や、市の教育委員会が編集した東村山市の歴史の本を買っておいたのである。「湖底の村」を題材にして作品を書くときにも、清岡さんは水のなくなった湖底をじっと見つめる凝視の人であるとともに、「調べる人」でもあった。
あるとき、清岡さんは、路傍で見かけた一羽の鳥を詩のなかに描こうとしたが、その鳥の名前がわからなかったらしい。そのころ私は東村山市の野鳥観察会のメンバーになっていて、毎月一回、日曜日の早朝に多摩湖の周辺で行われるバートウオッチングの集まりに参加していた。そのころ小学生だった私の長男も一緒に行動していたが、彼はいつのまにか私よりはるかに鳥に詳しくなっていた。そのことを伝え聞いていたらしい清岡さんは、ある日の午後、私の長男を自宅に招いて鳥についていろいろ質問したらしい。それもかなり長い時間を使っての質問であったという。(長男はお礼にショスタコーヴィッチの交響曲5番のLPをもらってきた。)やがて清岡さんの書いた詩に「近所の鳥博士の少年が教えてくれた・・・・」という一行があった。それは路傍の一羽の鳥についても、きちんとその名前を調べておくという詩人の心構えの表現であると思われた。

(付記。本稿は2006年7月31日の「千年紀文学」に掲載されたもので、初出のままである。この文章は、どういう回路を経てであろうか、清岡さんを偲ぶ会で、那珂太郎さんによって朗読されたと聞いている。その後、勉誠出版という出版社から、清岡さんの文章や、追悼文を集めた本に収めたいと依頼されたので承諾した。かなり分厚い本らしく、執筆者にも献本はできないということなので、私自身もその本を見ていない。私が尊敬している詩人についてのこの拙稿を読んで下さる方の存在を信じて、ここに掲載したいと思う。(2008年2月21日)

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距離

清岡氏の身近な距離からいろいろなことを教えてくださる文章です。ありがとうございます。
〔小生、メキシコ在住)

山端伸英 | URL | 2009年12月01日(Tue)04:57 [EDIT]


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