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宇波彰現代哲学研究所

多種多様な「知」の交流を通じ文化創造との実践的な橋渡しをめざし、新たな学問分野の開拓を行う研究機関のブログです。

政治空間内のブラックホールについて

 「現代ビジネス」の7月4日の記事としてネット配信された政治学者の中島岳志とフリーライターの武田砂鉄による「「安倍首相は空虚である」自民党政治家を徹底分析して見えた「実像」」という対談には、安倍晋三の政治家としてのイマージュについての考察がなされていた。私は政治学も、経済学も、社会学も専門外ではあるが、この対談の中で語られている安倍空虚説に強い興味が沸き、この説を更に深く検討していこうと考えた。それがこのテクストを書こうと思った動機である。それゆえ、これから行う論述の中で私は安倍晋三という考察対象を分析していくが、それはこの人物の個人史を追うためのものでもなければ、彼の政治イデオロギーについて解明していくためのものでもない。ここで私は考察対象の政治的言説及びそれに伴った言表的行為を言語学的及び記号学的視点から観察することを通して、日本における政治的無責任性への暗黙裡の了解と非合理性への憧憬という問題について明確化していこうと考えている。 

安倍言説空虚説について
 上記した対談の中で武田は安倍晋三の発言について、「いま彼から放たれる言葉の多くは、彼自身の言葉ではない。そのほとんどが他者が用意した言葉であり、誰かを慮る言葉ばかりです」と述べている。また、中島は安倍の言葉に対して「彼の言説を追うと、「コスプレ」だと感じます。思想があるのではなく、右派の「憲法改正」「靖国参拝」というアイテムをコスプレセットとして身に着けている。しかもそれは「保守思想」というよりも、「反左翼」で一致されたアイテムです」という発言を行っている。この二つの発言はどちらも安倍晋三の「空虚さ」を提示しているように聞こえるが、両者の主張にはズレがある。分析の第一作業としてこのズレについて検討していこうと思う。
 先ず武田の発言だが、これは安倍言説が完全に「空虚」であることを示してはいない。何故なら、「他者が用意した言葉」を発することの中には確かに空虚と形容できるものが存在しているが、「誰かを慮る言葉」の中には虚空性は存在していないからである。前者の主張は無能さと言い換えられるのに対して、後者のものは他者を配慮するという姿勢が伺える言語行為だからである。すなわち、前者の意見からは自らの言葉がなく、つまりは主体性がない人間であるという主張が垣間見える。それに対して後者の意見には他者の存在や考えを考慮した結果の発言という主体性のマーカーが記されたものである。何も考えない人間は「誰かを慮る言葉」を語ることはできない。それが如何に受動的な行為であっても、そこには主体的選択が存在しているのだ。それゆえ、前者の発言と後者の発言は同じ内容としてイコールで結びつけることはできない二つの異なる様相が語られているものなのである。
 中島の発言の分析に移ろう。この発言も二つの主張から成り立っている。一つは安倍言説の「コスプレ性」であり、もう一つは安倍言説の持つ「反左翼」という感情性、あるいは、左翼に対する憎悪である。この発言の二つの主張の前者が安倍言説の「空虚さ」の比喩として示されている点では武田の発言と同じ意図が感じられるが、後者の主張が感情的な問題と捉えられる点では武田の発言とは異なる。武田の発言では安倍言説の中に他者を意識した他者の発言に注意を払うという主体的態度という点から見てプラスのイメージが付与されているのに対して、中島の後者の主張では安倍言説が主体的な行為でありながらも感情的というマイナスイメージが付与されているからである。もちろん、武田の主張の中に安倍晋三の脆弱さやナイーブさを、中島の主張の中に信念としての一徹さを見出すことは可能であろう。だが、そうした側面は副次的なものである。このズレは何故起きたのかという問題を考えた場合、そこには二人の共通前提となっている安倍言説の「空虚さ」に対する厳密な考察の欠如があるように私には思えるのである。
 
空虚な言説とプラスチック・ワード
 ドイツの言語学者ウヴェ・ペルクゼンが提唱したプラスチック・ワードは、「実質としての意味がないにも係わらず、それが確固とした意味を内包しているかのように社会・文化的に大規模に流用されている言葉」として定義できるものである。こうした言葉の例としてペルクゼンは「アイデンティティ」、「近代化」、「コミュニケーション」、「エキスパート」といった語を挙げている。プラスチック・ワードは厳密な語意をすり抜け、ステレオタイプであり、漠然としたイメージを支えにして使用される。この定義に従えば、安倍言説はまさにプラスチック・ワードの宝庫であると言えるではないだろうか。
 安倍言説の分析は、国会パブリックビューイングの主催者で法政大学教授の上西逸子がご飯論法の多用という視点から分析している。この論法は意図的に問われた質問の意味を狭く捉え、論点をずらしていく話法である。安倍首相はこの論法を頻繁に用いていると上西は語っている。一例を挙げるならば、2018年5月23日の衆議院厚生労働委員会での国民民主党の柚木道義議員の「採決の前に、ちょっとでもいいです、(肉親が過労死した遺族の代表に) ぜひ面談をしていただく (ことをお願いします)。御答弁をお願いします」(カッコ内は著者補足) という質問に対し、安倍首相が長々と面会には関係のない事柄を話した後で、「いずれにいたしましても、過労死をなくしたいとの思いをしっかりと受けとめ、全力を尽くしていく考えでございます」と述べた答弁はご飯論法の最たるものであろう。質問の答えになっていないだけではなく、質問の内容を無視しているからである。
 だが、安倍言説の論法を語る前にこの答弁には論法と語り得るだけの確固とした意味を持つ言葉がどれだけあるのかという疑問が沸いてくる。上記した柚木議員の質問の主要論点は「高度プロフェッショナル」の制定がさらなる過労死を招きかねないという点にあるが、この点について首相はまったく触れていない。つまり、一般的な対話関係が成り立っておらず、メタレベルでの言葉のやり取りが展開されているだけなのだ。質問されたテーマとはほとんど関係のない事柄が提示されているということは、この答弁で語られている語はすべてプラスチック・ワードであり、それが如何に論証的に見えても実際には何の意味も持たない語の羅列である。そこにはもはや論法という論理展開は存在せず、いたずらに語が積み重ねられているだけであるのだ。
 このことは安倍晋三空虚説を裏付ける実例として示すことができるものかもしれない。だが、私は空虚という言葉は安倍晋三を的確に表現する言葉ではないと思っている。ロラン・バルトは『表徴の帝国』の中で東京という都市の中心が空洞であることについて語っている。この空洞性を私なりに解釈すれば以下のようになる。皇居という空間が近代以降の国民国家システムとは相容れない、国家を構成する国民とは異質な存在者によって占拠されている。その空間以外の場所は国民国家の、そして民主主義という近代国家のベースとなる根本原理のために構築された様々な装置が充ち溢れている。だが、それとはまったく別次元の空間が日本の首都の中心にあるゆえに、つまり皇居が民主主義体制の装置がまったく作動していない特殊な場であるゆえに、首都東京の中心部分は空洞であるのだ。それは法治国家であるはずの、民主主義国家であるはずのこの国の中心に天皇制によって歪められた特異な場が存在しているということである。だが天皇制に関する問題はこのテクストの直接の探究課題ではないゆえに、この問題の考察はここではこれ以上行わず、次のセクションではこの特異性と安倍言説との類縁性についてより詳しく検討していく。
 
無責任性
 大西巨人の『神聖喜劇』の中には、第二次世界大戦終了以前の日本の軍国主義的における天皇という装置に対する「(…)その統帥(とうすい)大権者が、完全無際限に責任を阻却せられている以上、ここで責任は、最終的に雲散霧消し、その所在は、永遠に突き止められることがない (あるいはその元来の不在性が、突き止められる)。……それならば、「世世天皇の統率し給ふ所にぞある」「わが国の軍隊」とは、累累(るいるい)たる無責任の体系、(ぼう)(だい)な責任不存在の機構ということになろう」という有名な言葉があるが、この支配装置の無責任性は第二次世界大戦の終了と共に日本において完全に消え去ったと言えるものであろうか。確かに天皇の統帥権はもはや存在してはいない。しかしながら天皇制は今も続いている。天皇制は日本の国家の礎と言われるが、この制度は自由、平等、友愛とった近代以降の民主主義システムの根本原理とは両立し難いシステムなのではないだろうか。国家の絶対的主権者としての天皇がもはや存在しないことがかえって国家レベルでの無責任さを助長していると述べ得るのではないだろうか。現在の天皇は日本という国家の主権者ではなく象徴である。象徴とは主体性を持った実体ではなく一つの記号であり、主体という側面から見れば空虚な存在として捉えられるものだからである。
 ここで安倍晋三という存在と彼の政治的言説の問題に返ろう。彼の存在性は冒頭の「現代ビジネス」の対談の中でも触れられている青木理の『安倍三代』において明確に示されているが、青木は安倍晋三を「仮面の下に別の顔を持つ狡猾な策士でもなければ、権謀術数に長けた生来の悪人でもない。むしろ凡庸にすぎるほど育ちのいい3世のおぼっちゃま。極端な善や悪などとまったく無縁にすくすくと育ったツクシん坊。だが、だからこそその姿はどこか頼りなく、薄っぺらく、強引な振る舞いに出ても、幅と深さと知性にかけるように思われて仕方ない」と述べている。この青木の言葉は安倍晋三が世襲によって地位を築いただけで中身のない空っぽの存在であるように聞こえるものである。それを裏付けるように青木はこの本の中で安倍を形容するために何度か「空虚」という言葉を用いている。だが、それは正確な形容ではないと私には思われる。安倍はバルトが東京に対して語ったような中心の空洞性によっては定義づけられない存在者である。彼には感情があり、それが如何に反民主的であろうとも民主主義的な国民国家の一つとされる国の首相であり、その職務を遂行しているという確固とした事実がある。そうした存在者が空虚であると断言すれば、われわれ国民はすでに民主主義とは完全に別次元の国家体制の下で生きていることになる。それは現にある法制度も、選挙制度も、われわれの日常的生存性さへも虚構であると述べていることと同じである。確かに、われわれはすでにファシズムへの道を歩んでいると述べ得るかもしれない。だが、ここではその点よりも安倍晋三の持つ青木も指摘している幼稚性や未熟さ、他者の意見を認めない不寛容性、理性よりも感情を優先する非理知的態度といったものに注目してみたい。この態度は彼の政治的言説にも如実に表れているものだからである。
 マルセル・モースは『国民論』において、「国民が伝統をつくっているにもかかわらず、人々は伝統を中心にして国民を再構成しようとしているのだ」(森山工訳)と書いているが、こうした国民と伝統との関係に対する態度は安倍の態度にも共通している。それゆえ、安倍=空虚ではなく、彼は正統的国家主義者の側面を有していると述べ得る。しかし、彼の政治的言説はあまりにも幼児性が目立ってはいないだろうか。国会審議中に平気で野次を飛ばす首相を私は初めて見た。まさに品行の悪い子供の態度である。また今年の初めに下関で行われた講演で語ったという「自衛隊員の子どもが、お父さんは憲法違反なの、と涙ぐんで言った。そんなことをなくすためにも、憲法を改正しなければならない」という発言も異常なものだ。この子どもが実在したかどうかという問題は問わないとしても、「お父さん」が「憲法違反」とはどういう論理であろうか。この発言は「お父さん」=「お父さんが所属している集団」とした提喩表現を用いたものであろう。ここでは個人の存在性がある集団の代表とされているが、この提喩自身も子供じみた視線での語りであるだけでなく、論証としても極めて幼稚である。何故なら、この出来事で問題となるのは自衛隊の違憲性のことではなく、このような社会的な偏見もしくはイジメをどうなくしていくかであり、この文脈で憲法問題が登場することこそがまさに子供の論理であるからだ。ここには安倍言説の稚拙さが如実に表れている。
 このセクションでは安倍晋三の子供じみた態度及び言説を確認したが、以下に論述する最後のセクションではここまで考察した問題を総合化しながら、最初に提起した日本における無責任性への暗黙裡の了解と非合理性への憧憬という問題について検討していきたい。
 
 イギリスとポーランドの二つの国籍を持つ社会学者ジグムント・バウマンは流動する現代社会の問題点をリキッド・モダンという概念を主軸として解明した。バウマンは『退行の時代を生きる』において、現代においては国家がもはや国民を保護することはなくなったと主張し、何の保証も安息もなく荒涼とした世界に投げ込まれた現代人は過去の世界に理想を求めるようになったと述べている。そしてこうした希求をバウマンはレトロピアと呼んでいる。「(…)罠や待ち伏せ攻撃に満ちた、不可解で、計り知れなくて、よそよそしい世界から、なじみがあって居心地の良い、ときには不安定だがさえぎるもののない、ある程度満足のいく記憶の世界に戻るとほっとした気分になる。私たち(、、、)私たちだけ(、、、、、)が持っている (つまりは使ったり悪用したりする) 私たちの記憶の世界――私が「私たち(、、、)」の一人であるゆえに持っている私の(、、)記憶の世界に戻ると」(伊藤茂訳)とバウマンは書いているが、こうした未来への希望のなさがわれわれをレトロピアの方向に導いていくのである。社会精神の退行現象は日本でも顕著に見られ、過去への郷愁を孕んだ言説によってさらに増幅されている。過去への、正確に言えば、明治から敗戦前の昭和期、日本が偉大なる国家であったという幻想を強く呼び覚ますような言説を繰り返し何度も語っている為政者が数多く存在しているからである。その代表が安倍晋三であるが、彼の言説はレトロピア志向の現代のトレンドにぴったりと適合しているのではないだろうか。
ここで少し違った観点から、レトロピア的精神と日本における世襲制の強さという問題との関連性について考察してみたい。日本における世襲制が顕著に現れているものを探した場合に、先ずもって目に付くものが世襲議員であり、その数の多さには驚かされる。上記した本の中で青木は2014年の衆議院選挙結果における世襲議員の状況を「(…)全衆院議員のほぼ4人に1人が世襲になった (…)。これが自民党の当選者に限ると3人に1人が、直後に組閣された第3次安倍内閣になると、閣僚の実に半数が世襲制議員によって占められることになった」と指摘している。この世襲議員数の多さは日本における世襲制度の強さを象徴しているが、オランダの歴史学者イアン・ブルマが『近代日本の誕生』で述べているように、日本が近代化によっても世襲制度が殆ど崩れなかった稀有な国民国家である点はしっかりと認識しておかなければならない。近代以前の制度が未だに存在しているために、過去への遡及が容易に行われ得る国家的資質が存在しているからである。流動化する現代の世界的なレトロピア的傾向が更にそれを増幅させているのだ。
世襲によって地位を築いた者は日本においては、過去の自らの家系の威光を全面に押し出すことによってその特権性を誇示する。その典型的な例が安倍晋三の岸信介への繰り返し行われる言及である。過去の大政治家の血が自分には流れていることを大々的に表明することで、今と過去とが結び合わされ、今の自分が伝統ある基盤を持ったものとして位置付けられる。しかし、それは理知的な言説ではなく情念的言説の表明に過ぎない。ところが、この言説は大衆のレトロピア的志向と上手く適合するのだ。過去への希求という大衆の心理の奥底にある情念にこの情念的言説は呼び掛ける。情念から情念への呼びかけ、それは理性的なあらゆる仕組みの外部にある。それゆえ情念的言説を構成する主体は空洞な存在ではなく、ブラックホールと言うべき存在である。ブラックホールは空虚なものではなく、暗く重く理性的秩序を持たない闇の世界である。ブラックホールを内包する主体とは情念的無秩序さが理知を凌駕している存在者である。それゆえ、その存在者はあるときには空洞に見え、あるときには幼稚に見え、あるときには嘘つきに見え、あるときには無責任に見える。そうしたブラックホールとしての存在が安倍晋三であると私は考える。
だが、個人としてブラックホールを抱えることと、ある政治空間内の中心人物がブラックホール的存在者であることにはあまりにも大きな差異がある。後者の場合、ブラックホールの持つ無秩序さ、非合理性、無責任さ、反民主主義性を宿した暗い闇は他者に伝搬していく。その伝搬は言説レベルに止まらない。つまり、ブラックホール的主体から伝搬した情念の炎は暴力を生み出していくのだ。バウマンは上記した本の中で、「暴力の持つ不健全な魅力は、自らの劣等生――弱さ、運のなさ、怠惰、とるに足りなさ――に由来する屈辱感から一時的に解放されることにある」と語っているが、合理性を失い、未来の希望も失った現代の多くの大衆は暴力の誘惑に屈してしまう。日本における安倍晋三の政治言説の危うさはこの暴力行使への誘惑を孕んでいるからである。
情報が一挙に世界的に流れる現代において、流動性は理知や秩序といったものも押し流してしまうほどの強大な力を有している。それは近代社会が構築した民主主義という枠組みを破壊し、近代社会が乗り越えようとした暴力的な世界を再来させようとしている。暴力的世界はブラックホール的な存在者が近代の生み出した偉大なシステムの指導者として君臨することを許す世界である。その指導者は無責任で、幼稚で、プラスチック・ワードを大量に含む無意味な言説を無限に生産していく。この国の多くの国民はそうした状況を黙認している。情念的言説への情念的了解を合理性よりも優先しているために。そう、彼らはブラックホールに投げ込まれることに満足しているのだ。それだけではなく、暗黒のブラックホールの中で生きることに憧れてさえいる。論理よりもメタ論理が語られることを望み、他者を暴力的に圧することが称賛されているのだ。
 では、この国の未来には希望はないのだろうか。ない可能性は大きい。だが、ブラックホールを抱えた指導者が政治空間の中心から外れたときに厚く重い雲の間から小さな救いの光が差し込んでくるかもしれない。それはほんの僅かな可能性にしか過ぎないかもしれない。それでも小さな光がブラックホールを突き破るかもしれない。私はそれを信じたい。
    

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研究所サイト拝読しております。

北高後輩で、二十代の初め、カントの勉強を志した時期に、宇波先生にご教導いただきました。ご無沙汰いたしてしまっておりますことを、お赦しください。お便りさせて頂こうと思っても、筆無精で、不図、メールで、先生のサイトで勉強させていただくことをご連絡することを、思い立ちました。

鈴木文孝 | URL | 2019年08月03日(Sat)10:53 [EDIT]