宇波彰現代哲学研究所

多種多様な「知」の交流を通じ文化創造との実践的な橋渡しをめざし、新たな学問分野の開拓を行う研究機関のブログです。

『カラオケ化する世界』考

「カラオケ」については一度語りたいと思っていた。カラオケとはいうまでもなく「空(カラ)のオーケストラ」の略であるが、それはその言葉の響きとともに今日の様相を象徴的に映し出すありようそのものである。それがグローバル化して普及するとき、そこから見えてくるものは何か、その点で『カラオケ化する世界』(ジョウ・シュン+フランチェスカ・タロッコ著 青土社2008年)は結構面白かった。カラオケとはまさに情報通信時代における「コピー複製文化」の産物である。この本は、それがアジアなどにおいてどのような社会的・文化的意味をもつのか、その特徴をよく捉えている。ただし、発祥の地である日本でのカラオケのもつ社会的意味とその役割を深く捉えていないところがあり、日本との比較文化考という点ではやや物足りないところがあった。
 
その点に立ち入る前に、まず自分のカラオケ体験から語らなければならない。この私も何を隠そう、サラリーマンを曲りなりとも25年近くやったからカラオケとはあながち無縁ではなかった。いくら「正統派サラリーマン」ではないといえ、企業に属している以上、私といえども「付き合い」というものがあり、その一つが皆でカラオケへ行くことであった。日本の企業社会では意味性のある「コミュニケーション」を回避して(ハーバーマスの言う「コミュニケーション的行為」などはトンデモハップン)、「建前」と「本音」を使い分けながら「付き合う」ことがいわば処世術である。ただどこまでも仮の処世術だからその「付き合い」は実際には企業構成員の内面に愚痴などのギクシャク感情をともない、それは結果として企業活動の人間関係にも支障をきたすことになる。そこでそれをセラピーするために「ノミニケーション」などの手段が動員されるのだが、ほかでもなくカラオケも企業社会内部に発生する人間関係のギクシャク感情をとにかく一時的に溶きほごす潤滑油的な手段である(あった)。
なぜ、日本ではカラオケは潤滑油的な手段になりえるのか、それはカラオケで人々は「歌」を歌っているわけではないからである。私のカラオケ体験が1990年ごろまでであったこともあり、それはあまりに一面的な私の見方であるかもしれない。ただ、そのようにあえて言う理由は、カラオケで歌われる、典型的な歌謡曲の様式と「空(カラ)のオーケストラ」の特性にある。
もちろんカラオケでは、ここでもっぱら取り上げる歌謡曲だけでなく、ポップス、フォーク、ロックなどさまざまなジャンルの「音楽」が流される。以前はカラオケとはもっぱら中高年層が歌謡曲を自己充足的に集団で「歌う」場のイメージが強かったが、現在では若者が屈託なく自分の好きな曲をただただ「歌い」、楽しめる場へと変貌しているところもある。その点では、カラオケへ行く人々の様相は今や多様であり、一義的に何か意味づけをおこなうことは実態とかけ離れる危険も伴う。この『カラオケ化する世界』の主題もカラオケにまつわるグローバル世界における多様な様相、実情を描き出すことにある。ただ「一面的」であるという謗りを免れないことをあえて承知して、このカラオケの源基形態が「中高年層が自己充足的に歌謡曲を歌う場」にあったとすれば、そこからカラオケのエッセンス(本質)というものを抽出しておくことは、今日のポストモダン状況のありようの一端を解き明かす上で重要な作業のように思える。何といったってカラオケはコピー複製文化の台頭と軌を一にした今日の情報通信の所産なのだから。日本の場合、それに企業のコンフォーミズム文化がうまく融合していることが大きな特徴であるが…。

歌謡曲の歌詞は、「酒場」、「港町」、「涙」、「人生」、「女(ヒト)」など、誰もが一見了解可能な言葉(もちろん名詞だけでなく、形容詞も含めて)の記号の集積(羅列)から成立しており、極端に言えば歌詞はいずれの言葉にも置換可能である。要はそこには格別の実体的意味性はなく、ただ人々は一見了解可能な言葉の様式(フレーズも含めて)にゆだねて自己充足している。皆、歌の意味そのものよりも、様式(フレーズも含めて)のもつ安心さにゆだねることに心地よさを感じているのである(その限りで言えば、イタリアオペラなどにもそういう要素はあるが・・・)。
ところで、様式性(形式)で成り立つ同じ歌謡曲であるが、昔、飲み屋で流しのギターの伴奏でよく歌ったことを懐かしく思い出す。それはナマの伴奏で、しかも肉声で、そこにはともかくも自力で歌っている感慨があった。下手でもとにかく肉声、ナマの楽器の音を発するがゆえに、「歌謡曲とはいえども」バカにはできない、何かある協働的な表現行為があった。
その点で言うと、カラオケで歌謡曲を「歌う」人々を見ると、そして、そこでの空(カラ)の伴奏とマイク(エコー)という機器類による人工的補充を見るにつけ、その彼らは「歌を歌っているわけではない」という思いにすら駆られる。この違いは途轍もなく大きい。ご当人はただでさえ歌謡曲のもつ置換可能な記号の羅列(様式)に心地よさを感じているのに、これにカラオケ演奏とマイク(エコー)という人工的な手段が加わったら、それは、協働的な表現行為というよりも、自己陶酔→自己充足という閉鎖的な「自己空間」の一丁上がりである。「ただリモコンのボタンを押すか、スイッチを回すだけで、すべての夢は現実となる。テクノロジーは魔法であり、カラオケは奇蹟を起こす。「自分でやること」「マイクで歌うこと」は、自分が何がしかの満足すべきことをやり遂げたという幻想を生み出す」(本著)。これはもうエコー(増幅)と「カラオケ」ゆえの豪華な伴奏の力(オーディオ・ビジュアル機器)の何物でもない。一瞬当人の置かれている現実的地平よりもはるか先に夢のごとく気分よく運んでくれる。これがすべての魔力(幻想)の源泉である。「皮肉なことに、人前でこれ見よがしの態度を取れることこそ、カラオケの大きな魅力である。礼儀正しさが何よりも重視され、慎ましさが美徳とみなされる文化(注:日本の文化)において、カラオケは人間のエゴを加速する機会を提供するのである。[・・・]つまり「自分が主導権を握っている」という感覚を提供するのである」(本著)。
カラオケで歌謡曲を気持ちよく「歌っている」オジサンたちを見ていると、この描写はまさにピッタリである。ここには日本の企業風土の窒息しそうな雰囲気から一時的に開放された姿(愚痴の一挙的転換による憂さ晴らし)があり、この点にカラオケの効能がある。でも実に奇妙な効能である。

まずは、企業の場合、「とくに新入社員や女性社員にとって、カラオケは実際に社内の強制活動」(本著)の面は当然あるが、ともかく一度に集う(席を同じくする)ことに意味がある。そして、次に誰もが日頃の上下関係を離れて主人公になることによって、それは日頃欠けている「コミュニケーション」の補充物になる。一緒にいることが何よりも重要なのだが、銘々は勝手に自己充足する、この共存(同席)のおかしさ。もちろん、そこでは意味のある実体的な会話をする必要のないことが肝要である。それでは、目的とする潤滑油の「コミュニケーション」にならないからだ。だから、歌としては、実体的な意味をもつ歌詞などではなく、記号の羅列のような、フィクションの歌詞のほうが望ましい。そして、それにそれぞれが主人公になれる仕掛けがあれば・・・。
日頃地味で目立たない社員(とくに女性)などは、もちろん隠れたる本能が発揮される面もあるが、この仕掛けのおかげで急激に「変身」できてしまう。時にその「パフォーマンス」が大受け(バカ受け)して、ご当人はそれにより大いなる自信をもち、日頃の職場のコミュニケーションはうまくいくというわけだ。これほどアッパレなことはない。
思い起こすのは、接待におけるカラオケの効用である。酒の接待よりも客をカラオケにつれて行くことのほうがはるかに気分的に楽だった。なぜなら、酒だと少しは実体的な、意味のある会話をせざるをえないことも時にあり、客相手では苦痛になることもあるが、カラオケではご当人が勝手に気持ちよくなってくれて、こちらは何もせずにすむからである。
この絶妙なバランスの効能がカラオケにはある。カラオケにおける、日本の企業社会のコンフォーミズム文化とコピー複製文化の融合。それこそがカラオケを描くに当たって描き出すべき第一の要素であった。

ところが、本著で描かれている東南アジアにおけるカラオケに対する人々の熱狂振りなどを見ると、私のカラオケに対するやや否定的で、シニカルな見方、事情は一変する。情報通信機器の高度化-カラオケ文化のグローバルな伝播による安上がりなコピー複製「音楽」の出現で、彼らは一緒に容易に歌う機会をもてるようになった。そのことのもつ意味は東南アジアの人々にとっては限りなく大きい。いわば娯楽としての音楽の大衆化、平準化。金のかかる伴奏者(オーケストラをはじめとする楽器演奏者の存在)がなくとも、カラオケがそれを極めて安い費用で賄ってくれるから、彼らは「伴奏つき」で歌えるようになる。これはコピー複製だからこそ可能になることで、この意味は日本と東南アジアでは決定的に異なる。東南アジアではカラオケで曲が聞こえれば、一斉に皆が歌いだす。その情景は手に取るようにわかる。彼らは私が揶揄するカラオケ-コピー複製「音楽」のもつ人工的な否定的イメージなどはもろともせず、歌うという自らの表現方法を堂々と獲得しているに違いない。「貧しさ」、底抜けの明るさゆえにカラオケは立派な表現ツールになった。
グローバル化時代では、カラオケは移民労働者にとって自己のアイデンティティを再確認する重要な手段になっている。それほどカラオケのもつ意味は大きい。ここで描かれる、カナダへ移民した中国人のコミュニティ、群馬県・邑楽郡大泉町(工業団地)の出稼ぎ日系ブラジル人のコミュニティ、彼らはコミュニティのカラオケで歌う機会がなかったら全く救われないという印象すら受ける。「週末の間、大泉は日本中から集まる若い日系人が溢れ、彼らはATRやチョッペヴィデオなどのナイトクラブに集まって、サンバを踊ったり、カラオケを歌ったりする」(本著)。この雰囲気は街の情景とともに、ちょっとは実感できる。20数年前以上、私は仕事でこの工業団地に泊りがけで出かけ、そのころはまだ数は少なかったが、そうした兆しに遭遇していたから。

一体「歌う」という行為はどういうことなのか・・・



(2008年2月29日)

PageTop

コメント


管理者にだけ表示を許可する
 

トラックバック

TB*URL
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

【オーディオ・ビジュアル機器】の口コミ情報を探しているなら

オーディオ・ビジュアル機器 に関する口コミ情報を探していますか?最新の検索結果をまとめて、口コミや評判、ショッピング情報をお届けしています…

人気のキーワードからまとめてサーチ! 2008年04月05日(Sat) 12:48