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宇波彰現代哲学研究所

多種多様な「知」の交流を通じ文化創造との実践的な橋渡しをめざし、新たな学問分野の開拓を行う研究機関のブログです。

市原佐都子版『バッコスの信女』を観劇して

 去る1013日、「あいちトリエンナーレ2019」の最終シーンをかざる市原佐都子作・演出の『バッコスの信女―ホルスタインの雌』と小泉明郎作・演出の『縛られたプロメテウス』の上演に立ちあうことができた。どちらも傑作だったが、小泉の作品は、作品に仕掛けられたトリックを公にすることで鑑賞者の受けるインパクトが減少すると思われることから、その再演を考慮し、ここでは、傑作であり問題作でもある、市原の作品についてだけ述べようと思う。

まず、市原が下敷きにした原作のギリシア悲劇『バッコスの信女』のあらすじを振り返っておこう。

神ゼウスと人間セメレの間に生まれた「半神」のディオニュソスは、セメレの祖国テーバイの国を訪れるが、セメレと自らの存在を認めようとしないセメレの姉妹たちの抵抗にあい、彼女たちを狂気に陥れる。さらにはテーバイの女性すべてを狂気に巻き込み、彼女たちをまさに「バッコスの信女」と化してしまう。そうした中で、テーバイの王ペンテウスがひとりディオニュソスに逆らい、これを弾圧しようとするのだが、人間の姿をしたディオニュソスにそそのかされ、ふと信女たちの狂態を見たいという欲望にかられる。そして、ディオニュソスの言いなりになって女装し、信女たちの住まう山行きを決行するも、結局、信女の一人と化していた実母アガヴェとその姉妹にそれと知らず殺されてしまう・・・。

訳者である松平千秋は、この劇について、ペンテウスに狂信と戦って敗れたインテリの姿をみるような近代人好みの解釈があることを紹介しながらもそれを退け、「酒神の起こす熱狂」は「所詮は自然の元素と同じく人間の力を超え、その跳梁の前に人間はまったく無力なのであ」り、「それはしたがってまた人間の倫理―善悪―の枠の外にある」ものであるとし、結局、この劇は、「このような超人間的な力が荒れ狂ったときに人間界に起る恐ろしい悲劇を、豊かな幻想をまじえ、しかし不気味なまでにリアルな筆致で描いた作品」なのだと書いている。死すべき人間に、その小賢しい知と力ではどうにもならない、善悪を超えた大いなる力を知らしめるのが、なるほどギリシア悲劇の神々の世界というものであるのだろう。

では、市原は、この古典劇を現代に蘇らせるべく、いかに書き換えたのであろうか。

市原版『バッコスの信女』は、簡単に説明すると、ディオニュソスからイメージした、半神ならぬ半獣(人間とホルスタインの牛のハーフ)の雌が、以前家畜人工授精師をしていた専業主婦の家を訪れ、「牛の魂」である女性だけのコロスとともに、主婦の秩序にゆさぶりをかけるという話である。ディオニュソスの一団がペンテウスの秩序に揺さぶりをかけるのと同様である。その意味で、性別は違うものの、半獣はディオニュソス、主婦はペンテウスに匹敵するだろう。実際、ペンテウスがディオニュソスにそそのかされて信女たちの狂態を見たいという欲望をおさえきれないのと同じように、主婦は半獣が住むという「女性を愛する女性」だけからなる牧場に対する興味をおさえきれず、半獣とともに潜入するのである。だが、ペンテウスと違って、主婦はここで快楽を得たようだが(犬による不明瞭な言葉で報告されるだけではっきりしないが)殺されず、逆に半獣を去勢して、首尾よく家に戻り、ペットの犬とともに、焼き肉を焼くシーンで終幕を迎える・・・。

市原によれば、書き換えのポイントは二つ。一つは、半神で女性的な風貌もあわせもつディオニュソスから、半神ならぬ半獣の性別のはっきりしない存在をイメージして主役にしたこと。もう一つは、ギリシア悲劇が男性だけで演じられ、観客もほとんど男性だったのに対して、演者もコロスもすべて女性にしたことである。市原はこうした設定によって、動物と人間、男性と女性という対立を描こうというのではなく、一見対立しているように見えるものも重なり合うところもあるがゆえに、「複雑なものを複雑なまま提示したい」と発言しているのだが、このことの意味をはっきりさせるためには、市原の書き換えのポイントをもう一つつけ加える必要があるだろう。それは、この劇が、ギリシア悲劇のように神対人間の対立構造をとっておらず、その代わり、主婦の住む日常世界とフロイトのいう「抑圧されたものの回帰」という対立構造をとっているということである。

 というのは、ディオニュソスからイメージした主人公の半獣は、牛(ホルスタイン)と人間のハーフで、男性器をもった雌という設定で、不気味な表象であるが、フロイトが「不気味なもの」という論文で書いたように、それは、「一度抑圧を経て再び戻ってきた、慣れ親しんだもの」なのであり、リビングダイニングで自らの性理論をまくしたてている専業主婦の日常生活の裂け目に襲来する不気味なものの二つの特徴(克服されたアニミズム的確信の再出現と抑圧された小児コンプレックスの再活性化)を備えた表象であると考えることができるからである。

 一つ目の特徴からみておこう。この半獣の表象は、この主婦が、家畜人工授精師をしていた独身時代、デンマークから十万円で取り寄せた日本人男性の精液(ちなみにこの主婦は子供が差別を受けないように日本人の精液に限定して取り寄せているような「日本人」である)を、発情した雌のホルスタインに気まぐれから注入することで生まれたという経緯があることを示す表象である。半獣の表象自体は古来より神話や昔話の中でなじみがあり不気味ではないが、それはすでに「克服された原始的(アニミズム的)確信」であり、現代では、牛と人間のハイブリッドはありえないという科学的知識と人道上の保証があるがゆえにその再出現は不気味に映るのだともいえるし、それにもかかわらず、将来、遺伝子技術によって不可能なはずのそれが可能かもしれないと思わせる点で不気味だともいえる。

「とりあえず仕事したくないし 家がほしいし・・・なんとかこの男のたいしたことないワイシャツに毎日アイロンかけて たいしたことない飯食わせて たいしたことないセックスして そうすればたぶん死ぬまで 家に住めてご飯食べれるっていう そのシステムのなかで安住したいと思ったの」と語る主婦は、こうしたシステムに安住しているため、家畜人工授精師をやっていた独身時代のことはすでに過去のことになっているが、この半獣の表象の回帰によって、家畜人工授精師としてやってきた仕事がホルスタインにとって酷なものであることを改めて想起させられる。

ホルスタインの雌は、その生理を人間に利用され、雄との交合によってではなく、人工授精によって妊娠し、子を産むが、その乳は、人間によって搾取され、老いると殺される。その雄もまた雌の存在なしに強制的に射精され、子種としての精液を取られ、のち、他の肉牛同様、人間の食する牛肉と化す。その「非人道性」または「非牛道性」を主婦は認識するが、すぐに、「私のしてた仕事だって ニンゲンのために必要ですよね もっと感謝されたいくらいです それこそまやかしじゃなく人の役に立っています だって肉も牛乳も安定してほしいですもん それをどうこう中途半端に言われたくないです」と語り、その想念を打ち消す。牛へ同調する意識はすぐさま人間と牛を対立させる意識によって否定されるのである。そもそも同じ動物なのに、犬はペットとして家庭内でかわいがられ、牛は人間の食糧となることが理不尽だとはよもや思わないのだ。それがゆえに、半獣が牛肉を食するとき、人間の脳で肉を味わいながら、同時にウシの声を聴くという訴えは、荒唐無稽ながら、観客を悲哀の情に誘う。

しかしまた、一方で、人工授精で子供をつくるようになり、人の体が現代科学によって細分化されシステムの一部と化している現代の人間と、こうした牛の間にどのような隔てがあるのかという問いもまた観客に生まれる。抑圧されたものの回帰としての半獣の表象は、人間と牛の対立と同時に同質性をも訴えてやまないのである。

もう一つの重要な特徴は、この半獣の表象が男性器をもっているということであろう。この設定は、半獣が両性具有であり性別がわからない存在だと考えるよりも、副題「ホルスタインの雌」に端的に表れているように、基本的にこの半獣は雌=女性であり、フロイトのいう、「不気味なもの」を生み出すもとになる、抑圧された小児コンプレックスの再活性化したものだと考えるべきだと私は思う。

フロイトといえば、ファルス中心主義というおおざっぱな批判が投げかけられることが多いが、女性の性愛の複雑さを見逃してはいないことに注意しなくてはならない。フロイトは、「女性の性愛について」など女性の性愛を扱ったいくつかの論文で、女性はその性器領域がふたつあることから、両性性を有することを主張している。幼児期には、女児が男児と同じく母を欲望する時期と、その後、それを父親へとむけかえ、母親と競合するエディプス・コンプレックスへ参入する時期があり、これらは共存し、どちらも完全には克服されないとしているのである。ユングが、小児の性愛について、男女ともに、異性の親を愛し、同性の親に敵意を向けるというエディプス・コンプレックス(女児の場合をエレクトラ・コンプレックスと呼んだ)を見出したのとは対照的である。フロイトは、女児にあっては、そのような男女対称の在り方は見出されず、父親への愛着をもつそれ以前の段階で、母親との関係が「非常に豊かで多面的な構成をしており」、それが執拗に続くとし、これを前エディプス期とよび、重要視したのである。

そして興味深いことに、この少女の前エディプス的原始期についてフロイトは、それが「ギリシア文化の背後にミノス的ミケーネ的な文化を発見したのにも似た驚愕をあたえる」ものであり、男性の分析家であるフロイトにとっては「分析学的にとらえることが困難で」、「まるで特別にきびしい抑圧をこうむりでもしたかのように、ふたたび生気をとりもどすことがほとんどできないもののように思われた」が、一部の女流分析家たちは、母親の代理者への感情転移が行われたためだろう、「このような事態を容易に明らかに認めることができた」と書いているのである。

してみると、この劇で、半獣は、自らを人工授精によって誕生させた母ならざる母に会いに来た子供として登場し、「私は私の精液を母の子宮に泳がせ 私は私の生まれ変わりを母に産ませて 私は私の母の乳首に吸いつき飲む 噴き出すその白い液体を 私は私の魂をそうやって救ってあげたい 母の魂も救ってあげたい」と歌い、母と交っていやされたいというタブーにふれた欲望を口にするが、この表象は、フロイトのいう、抑圧された前エディプス期における女児の母への欲望を、子牛が母の乳を人間に搾取されているために飲めないでいる不満とともに語っている表象だと考えると了解しやすいのではないか。実際、半獣は、自らについた男性器を「大きなクリトリス」と呼んでいて、女性の両性性を誇示しているし、ラストシーン近くで、母によって去勢された半獣は、「マスターベーションをやめさせるためですか」と母に問いかけたのち昇天している(前エディプス期において女児の性的活動を誘発するのも制止するのも母である)。また、半獣は「神」という言葉を何回か口にするが、総合的にみて、神とは半獣自身のことであり、幼児期の全能感と関わるものだと解釈できるだろう。

それゆえ、半獣の住む、バターマッサージによって牛の雌も人間の女もいやされるという、「女性を愛する女性」だけからなる牧場についても、フロイトが男性であるがゆえに分析によって到達することができないと告白した前エディプス期に関わるものだと考えられる。もちろん、これは、「プロロゴス」で、主婦が女性とのゆきずりの性的接触から、やわらかいものに目覚め、「女性はみんな女性が好きなんじゃないかって そっちのほうが本当は普通っていうか・・・だってみんな自分のことは大事じゃないですか これまで男に女同士の関係は切断されてたってなんかわかったような感じがしたんです・・・私たちはいつも柔らかい側で自分よりも硬いものばかり相手にさせられてきた気がする」といった気づきがあったことに呼応しているのだが、こうした同性愛的世界も、前エディプス期に由来する性的世界であることを牧場の表象は語っているだろう。ただし、こうした世界は、男性の視点を内面化している者にとっては通常厳しく抑圧を受けているために、容易には姿を現わさない。実際、主婦が半獣とともにこの牧場を訪れたときのことも、報告する犬の片言によってうっすらと浮かびあがるのみだ。しかし、作者も演者もコロスも女性だけにしたことによって、うっすらとではあるが浮かび上がらせることができたともいえるだろう。

このように、抑圧されたものの回帰としての男性器をもったホルスタインの雌の表象は、先に見た、牛と人間との対立を時に凌駕する同質性を示すばかりでなく、男性と対称的にとらえることはできない女性の性の複雑さを示してやまないものであることをここで改めて確認しておきたい。

以上、この劇を、フロイトを導入することによって、分析してきた。一見、アンモラルな言葉が野放図に展開しているように見える劇的世界がしっかりとした構造をもっており、フロイト理論をも参照できる内容になっていることがわかる。半獣は結局去勢され、昇天し、あとにはペットの犬とともに焼き肉を楽しむ主婦の姿が残るだけというラストシーンは賛否両論があろうが、これも、半獣の世界が、主婦の堅固な日常に回帰してきた抑圧されたものだったことを明確に示すものとなっているだろう。作者は、グローバルスタンダードな価値観に照らしたとき、倫理的に危うい題材を、理論的に裏打ちされた構造によって慎重に扱っているのである。少なくともそう解釈できる。しかし、だからといって(そう解釈したからといって)作品がその危うい起爆力を失ってしまうわけでもないだろう。

なにしろ、半獣は昇天してしまっても、背後のスクリーンを破って出現した時のその哀感ただよう姿とセリフまわし、観客を圧倒してやまないみごとな歌と時に常軌を逸するかにみえるダンス、そして牛の魂であるコロスの、セリフ内容に不似合いな清らかな合唱とロック調のダンスは、一度立ち会ったら忘れられない力をもっており、繰り返される、タブーにふれる描写にいささか辟易しつつも、いつの間にか、半獣やコロスはわれわれの分身と化してゆく。われわれは半獣やコロスとともに、牛になり、女になるのである(ドゥルーズ=ガタリのいう動物への生成変化、女性への生成変化をここで想起してもよかろう)。

そしてまた、実際にアテネで行われていたというディオニュソス祭が、巨大な男性器をねりまわす祭であったことを想起すれば、「大きなクリトリス」を掲げて牧場へと向かう儀式はうまい書き換えであり、女ばかりのディオニュソス劇にふさわしい、どこか滑稽ながらインパクトのある設定だったといえる。これらは、まさにディオニュソス的で、松平千秋のいう、原作『バッコスの信女』がもつ「野性的な美と迫力」が実現されていたといってよいだろう。

それゆえこの劇は、主婦の日常に抑圧されたものは、何度でも回帰し、「人間」や「男」や「日本」にタガをはめられたわれわれの日常を何度でも揺さぶり、徐々に浸食し、ついには人々が動物や女性への生成変化を遂げていくだろうことを予感させる、危うい起爆力をもった現代版ディオニュソス劇たりうるものとなっているのである。(了)

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