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宇波彰現代哲学研究所

多種多様な「知」の交流を通じ文化創造との実践的な橋渡しをめざし、新たな学問分野の開拓を行う研究機関のブログです。

S.クラカウアー「サラリーマン―ワイマール共和国の黄昏」(1930年)を読んで

まず本書表題ともなっている「サラリーマン」Die Angestellte(直訳すれば、被雇用者)についてであるが、本文では残念ながらサラリーマンとはいかなる社会的存在か、適確な社会学的ないし経済学的定義が見いだされず、1920年代末で350万人という数字だけが提示されている。訳者あとがきを参考にすると、英語でいうwhite-collar workerに当たるものであろう。工場での現場労働に従事する労働者階級とは区別された、技術者やオフィスの事務員や商業施設のサービス従事者、つまり管理業務者から秘書、経理士やタイピスト、ブティック店員にまで至る新中間層や公務員層を指すものと理解していいだろう。

 

本書紹介の序文(1959年)によれば、サラリーマンがナチス党に占める率は、労働人口にサラリーマンが占める割合に比べ極めて高かったそうである。第一次大戦後のハイパー・インフレで資産を失った旧中間層(小商店主、小地主などの小資産家)がワイマール政治から疎隔され、やがてナチス党に合流するにいたった歴史的事実とある種パラレルな関係にあることがうかがわれるだろう。いずれにせよ、都市化・大衆社会化のなかで急増するサラリーマンという新しい階層の動向・状態にクラカウアーが着目したことには、先見の明があったというべきであろう。しかも彼の手法が当時珍しかった直接現場に赴き、自分の目で観察し、聞き取りを行なうというものであり、その成果が本書だという。

当時の急進左翼やインテリ階級は「観念的な進歩信仰」や理性信仰にあぐらをかきドイツ観念論の伝統!-、生身の人間との接触を欠いていたという。我々は「生存権」を人類史上初めて謳ったワイマール憲法下、社会政策はお手のものだったと思いきや、しかしサラリーマンの職場の生々しい報告はめずらしかったようだ。社会民主党の官僚主義化や急進左翼(共産党?)の現実乖離のため、諸党の理論政策にサラリーマンの動向が反映されていなかったのである。そして放置された脱落サラリーマンたちは、命がけの飛躍でナチスに活路を求めていくのである。

やや脱線する話だが、1930年代の負の経験をドイツ・ジャーナリズムは踏まえているのだろうか。ドイツのいわゆる高級紙(quality paper)と日本の三大紙を比べてみた場合、一番大きな違いを感じるのは、前者の、現場と事柄の直接性・具体性に徹する姿勢である。例えば、インドの僻村でアレバ社による原発の巨大プロジェクトが計画されているとき、その影響を受ける村々の住民のひとりひとりに生活の苦難や事業による地域生活の激変の様子を語らせ、安易な一般化は行なわない。たとえて言えば、住民の顔が見え、記者の聞き取りの姿勢が直に伝わる血の通った記事を書く。日本では記者クラブ制の弊害が言われて久しいが、記事が加工されていて生身の素材の持つ迫力が感じられないのと対照的である。

 


 1920年代始めのハイパー・インフレの終息後、ドイツは急速に経済復興し、産業構造の高度化による管理部門の肥大化、金融業・商業サービス部門・運輸交通部門・公務労働の拡大にともなってサラリーマン層は増大した。工業都市からサラリーマン都市への転換にともない最初の大衆社会化の波が押し寄せ、都市文化が花開いてベルリンは世界文化都市へと変貌した。しかしその一方でオフィス・ワークに合理化・機械化が進み、省力化のためサラリーマンの地位は不安定化した。とくに大戦による職場進出とインフレの結果、サラリーマンの下層を多く占めていた女性たちが、プロレタリア化の洗礼をうけたという。これに不況が重なるとサラリーマンはとどめを刺され、失業者へと転落するのである。

クラカウアーはサラリーマンに特有な職場幻想についても目配りしている。「サラリーマンの大多数は、個性の独自性とやらを要求するような仕事どころか、個性を要求する仕事さえやってはいない。・・・適所に関して言えば、職場というものは、いわゆる個性に合うようにつくられた場所ではなく、それぞれ生産及び分配過程の必要に応じてつくられた、企業内の場所である」。まして合理化の結果、サラリーマンの職務処理権限は狭められて単純化し、個性価値はどこにも見出せなくなる。労働からの疎外(=失業)をまぬがれた場合でも、一般サラリーマンは労働における疎外はまぬがれないというわけである。またサラリーマンには個性どころか衣服、態度、顔付きなどが似かよう均一化画一化が進み、そのことが企業経済が必要とする消費者欲求(需要)を呼び覚まし、ますますサラリーマンの資本への従属性が深まる。サラリーマンの職場でのヒエラルヒーは、「自転車乗り」と揶揄される態度を強いるという。いわく「上に向かっては頭を下げ、下は踏んづける」。昨今はやりの「忖度」は、なにも日本資本主義の専売特許ではないわけだ。

1920年代の後半期は全体的には好況だったにもかかわらず、それでも不況期の合理化によってサラリーマンの中高年層にも打撃が向けられる。給与が高く諸手当もかさむので企業にとっては負担なのは明らかなので、昨日の終身雇用の身分から一転首切りの不安におびえる日々になるという。失職、離婚、死が最後の解決法と絶望的につぶやくアンケート結果。現代と似ている現象は、都市の文化現象のうちにみられる。クラカウアーは「若者文化」のまやかしを糾弾する。人生経験の価値は軽視され、「雇用者層ばかりでなく全国民が中高年齢者にそっぽを向き、おろおろしながら若さそれ自体を賛美している・・・若さを祭り上げる偶像崇拝は,死からの逃避のしるしだ。死を見つめてこそ生の意味が分かる・・・(生と死の緊密な結びつきを無視し、年齢を侮れば)若さの勝利ではあるが,生は台なしになる」。

 たしかに現在のグロバリゼーションの勢いに乗った「若者文化」は、けっして若者たちを尊重する文化ではない。巨大なIT化した娯楽産業がはぐくみ伝播させる「若者文化」は、若者たちから若者的価値を簒奪し、それを商品化し巨大な利得のために瞬間瞬間利用するだけの使い捨て文化にすぎない。娯楽産業にとっては若者たちが引きこもろうが、自立不可能になろうが、自殺しようが知ったことではない。

 「若さを法外に持ち上げることは、必然の尺度をこえて年齢の価値を低下させ抑圧することである。この二つの現象は、現在の経済的社会的条件のもとでは人間が生を生きていないことを間接的に証明している」。

 若者文化へのクラカウアーの危惧と批判は、今日でも通用するだろう。若者文化にまつわるアンビバレンツな現象―多種多様な若者文化の隆盛と若者の存在危機―を見据え、そこにつきまとう資本や権力の網の目を暴露し、その網の目から若者文化を救い出し、若者尊重の文化へと機能転換する、そういう闘いが我々には必要なのだ。

 

 クラカウアーは、サラリーマンの行動心理学と国家や企業の大衆操作戦略との関係を考察する。疎外された労働(労働の単調さや無内容さ、強度など)への不満が昂じないように、資本の側はサラリーマンの生活に刺激をあたえ、気散じの方向に人々を誘導する。その典型が大衆的な癒しの場としての娯楽場(ロカール)であり、映画館である。映画の役割は、「現行社会の弊害や土台から目をそらさせて現存のものを正当化し、みせかけの社会的頂点をスクリーンに映して大衆を麻痺させている」。また「全体として脱政治化のための媚薬である」スポーツの大きな役割にも注意を喚起する。

 

 最後にクラカウアーは、我々にとっても重要な提言をしている。ひとつは、繰り返しになるが、反資本主義的態度を示す若い急進的インテリに対し、彼らが目立つ社会現象にしか反応しないと批判する。

 「かれらは人目につく堕落を弾劾し、それにかまけて、われわれのふつうの社会生活を構成するちいさなできごとの結果を忘れている。・・・この急進主義者たちの急進主義は、バルコニーから指令を出すより、現実の構造にほんとうに浸透したら、もっと力をもつであろう。日常は、それに反乱を起こす能力のある者が放っておかれたら、どうして変わればいいのだ?」

 とかく大状況主義から革命をふりかざす急進派に対し、日常生活のなかにある小さな変革の芽に着目し、それを地道に育てるべく意識転換せよというのである。もうひとつは、労働の疎外は不可避として、外から精神的な充実を与える手段として芸術、学問、ラジオ、スポーツを動員し活用するのではほんとうの問題解決にはならないということ。

 「機械化された労働は非就業時間にも人間に影響し簡単にカッコでくくって切り離せるような仕事では絶対にない」、「労働における有害な影響を抑えられるのは、労働から目をそらす意識でなく、それに引き込む意識だけ」として、職場での疎外との正面からの闘いが不可避だとする。

 その際注意すべきは、集団主義のとりこにならないことだという。集団が力を生み出すと考えて、集団を究極目的とする教条主義的態度は、人間を画一化し従属者の型をつくるので誤っている。究極目的を作るのは共同体(集団)ではなく、共同体(集団)をつくる人間および人間の認識なのだということをどこまでも忘れてはならないというのである。これはマルクス主義の伝統的組織思想に対する頂門の一針ともいうべき哲学ではなかろうかと思う。

 

 クラカウアーが実態調査し、そこから引き出した教訓とも言うべきものは、おそらく生かされなかったのであろう。ドイツにまもなく襲いかかってきた大恐慌の波は階級対立を激化させ、そのことによってナチスは千載一遇のチャンスをあたえられた。繰り返しになるが、労働者階級との溝を埋められず、階級的にも孤立し寄る辺を失ったサラリーマン層は、大挙してナチス党に身を投じ、破滅していったのである。苦境に陥った社会階級や階層(若者や高齢者、女性)たちに必要な時に有効な組織化の手が及ばなければ、なんらかの新たなファシズム的形態がその空隙に入り込み、彼らの囲い込みに成功することもありうること、このことを我々は肝に銘ずるべきであろう。


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