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宇波彰現代哲学研究所

多種多様な「知」の交流を通じ文化創造との実践的な橋渡しをめざし、新たな学問分野の開拓を行う研究機関のブログです。

映画『希望の灯り』を見て

先日、ある上映会で、ドイツ映画『希望の灯り』(2017年)を見る機会があった。原題は、「通路にて」。
舞台はライプツィヒ近郊。巨大スーパーマーケットの在庫管理倉庫での「通路」で起こる様々な出来事が描かれる。時代はベルリンの壁崩壊後十年後くらいの設定か。ドイツ再統一後における旧東ドイツの単純労働者の話である。
腕と背中にタトゥがある新入りの飲料担当クリスティアン(27歳)が主人公。彼に仕事を教える中年男性ブルーノ(54歳)、クリスティアンが淡い恋心を寄せる菓子担当の既婚女性マリオン(39歳)、そしてゆるやかに連帯する夜シフトの仕事仲間たちが脇を固め、話は進行してゆく。
話は進行してゆくといっても、前半とくに際立ったことは起こらず、映像は、クリスティアンが毎日、制服を引っ張って手や首のタトゥを隠す(も隠しきれない)シーンを何度も繰り返し、わけありの過去から「社会」に参入せんとする日課を印象付ける。また、うずたかく積み上げられた商品の出し入れをし、通路を縦横無尽に行き来するフォークリフトの動きを美しくとらえ、巨大倉庫の遠近感のある絵柄なども印象的に映し出し、舞台となる倉庫のありようを反復的に印象付ける。
そうした反復される日課の中で、クリスティアンは、フォークリフトの扱いや飲料の在庫担当の仕事をじょじょに覚えていくのだが、彼に仕事を教え、彼を父のように見守るブルーノは、以前は長距離トラックの運転手をしていて、再統一後、トラック人民公社を買収したこのスーパーに仲間たちとともに採用されており、旧東ドイツ時代への郷愁はことのほか深く、鬱屈を抱えている。また、クリスティアンは、隣の列で勤務しフォークリフトを見事に操るマリオンに思いを寄せ、休憩室でコーヒーを一緒に飲みながら距離を縮めてゆくのだが、マリオンにはDVの夫がいるらしいことがわかる。
みな、心の傷を抱え、孤独であるかにみえるが、お互い深入りはせず、遠巻きにいたわりあう。そんな彼らの関係性を、映画は丹念に描いており、そのディーテイルひとつひとつがいとおしい。彼らはある意味でシステムの歯車にすぎないが、人間らしさは失っていないことがわかる。途中、クリスティアンがマリオンの家に侵入したり、昔の悪い仲間たちと遊んだりする場面があって、ひやりとするものの、結局クリスティアンは、ルーティーンに戻ってきて、映像は、巨大倉庫の労働を反復的に映し出す。
しかし終盤、話は意外な展開をする。昔を懐かしんでいたブルーノが唐突に縊死してしまうのだ。仲間たちは悲しみ、葬儀に参加するが、ここでもとりたてて深入りはしない。クリスティアンの驚きと悲しみも、倉庫で見せるちょっとした表情や、ブルーノの家を訪れるシーンでさりげなく示されるだけだ。しばらくして、技術を習得したクリスティアンが飲料担当の責任者になり、皆に祝福され、クリスティアンは以前より大人びた男となってマリオンにやさしく接するようになる…。

 この映画は、ドイツ再統一以後、かならずしもそれが歓迎すべきものではないと感じる旧東ドイツの労働者のありようを淡々と描くと同時に、クリスティアンという青年の成長を描く物語でもあったのだ。

以上がこの映画の大まかな展開であるが、私がここで特筆しておきたいのは以下の四点である。
第一の点は、体制の変化にありがちなことであるが、世代の違いがブルーノとクリスティアンの運命を分けたこと。ブルーノは、ドイツ再統一以後、かならずしもそれを好意的に受けとめられない旧東ドイツの労働者であり、旧東ドイツに郷愁を抱いている。そのころは妻もいたのであろう。過去をひきずっている。一方、クリスティアンは、今、ブルーノらに導かれながら、悪い仲間から離れ堅実な仕事に着こうとしている青年である。犯罪歴もあるがそれは、未成年時のものであったので、記録が消され、そのことで未来を手繰り寄せている。結果、同じ時間、同じ場所を共有していた二人は、運命をたがえ、ブルーノは死へと、クリスティアンは生へと導かれることになる。
第二の点は、ここに出てくる人たちが、みな「ここよりほかの場所」の夢を小脇にかかえながら生きているということ。ライプツィヒは、夏でも30度を超すことはない、平均温度約8度の寒い内陸の土地であるという。そのため、温暖な海への脱出願望があるのか、休憩室で日焼けを模して裸になる男がいたり、クリスティアンがイタリアのパスタの名を詳しく教わるシーンがあったり、マリオンの家のジグゾーパズルが温暖さを喚起する海辺の光景であったりと、この映画には、温暖な海への逃走線がいくつか引かれている。
最たるものは、ラストシーン。マリオンが「フォークリフトを下げてみて」と言う印象的なシーン。「ブルーノに聞いたの、フォークリフトを下げるとき、波の音が聞こえる」とマリオンは言う。それは油圧装置から空気が抜ける音なのだが、二人は、聞こえるとも聞こえない波の音に耳を澄ませ、微笑む。
映画の中盤、鮮魚室でのこと。ブルーノが、ここを「海」と呼び、水槽にぎゅうぎゅう詰めに飼われている魚の群れを前にして「買われるまではここにいる」とシニカルに言うシーンがあるが、それもブルーノの人生観であり、悲哀と鬱屈にみちた自らの現状を言い当ててもいるのだろう。しかし、同時に、フォークリフトを下げるときに聞こえる海の波の音は、それまでのブルーノの生を維持してきた「ここよりほかの場所」であり、ブルーノの生のささやかな逃走線だったことがわかる。
第三の点は、邦題は「希望の灯り」だが、原題は「通路にて」であること。上述のように、登場人物はみな「ここよりほかの場所」をささやかな希望として生を営んでおり、その意味で邦題もよいタイトルだと思うが、原題のほうが、映画の実態をよく伝えているかもしれない。この映画はほとんどの出来事(たとえばクリスティアンの、ブルーノやマリオンや他の労働者との出会いなど)が、巨大スーパーマーケットの在庫管理倉庫での「通路」で生じているからだ。冒頭の、フォークリフトが通路をダンスするように行き交うシーンや、繰り返される巨大倉庫の通路を撮った遠近感のある図柄はこの映画の主人公がある意味で「通路」であることを象徴してもいるだろう。
翻って、そもそも私たちは、「通路」において人と出会うのだということを思い知らされる。同じ時間でも、通路が一筋違えば会えなかった人とその通路を通してかけがえのない出会いをし、そして別れてゆく。「通路」というその狭く限定された空間と時間は、合目的な手段としてだけあるのではない、他者との出会いと別れを今ここに招き寄せる無限の広がりをもったかけがえのない容器でもあるのだ。そういえば、クリスティアンとマリオンが波の音を聴いたのも、フォークリフトの行き交う「通路」であった。
最後の点は、この映画の労働者に対する監督のまなざしが両義的であること。上述のように、体制が変わり国営から民営に移る過程で体制の変化に取り残される旧東ドイツの労働者に対するまなざしは基本的にやさしく、彼らの生活に寄り添っている。監督は旧東ドイツではシュタージはいたが、今よりも女性は解放され、労働者は大切にされていた、とも語っている。
しかし一方で、監督は、今のライプツィヒは、再統一による繁栄の影で、労働者が社会から置き去りにされていると感じており、今の制度に満足しない人たちが多く、難民排斥デモの暴徒化やポピュリスト政権の台頭に直面しているということにふれ、この映画の登場人物たちのありようは、そうした事態と無縁ではないとしている(藤えりかのインタビュー記事による)。
もともと、ライプツィヒは、ベルリンの壁崩壊以前には、民主化を求める市民たちが大規模な「月曜デモ」を繰り広げ、社会主義体制を倒す原動力となった街だが、こんなはずではなかった、ということか。
もっとも、この映画の舞台となったライプツィヒは、そのような過激な難民排斥がまだ表立って出現していなかった時代の街であり、システムの歯車となっても人間らしさを失わない登場人物たちはそのような排外主義とは無縁に見える。しかし、一方で、移民難民排斥やポピュリスト政権への賛同の遠因となる旧東ドイツの労働者層の漠然とした不満や鬱屈はこの時すでに醸成されていたともいえ、監督はそれを両義的な意味合いのもと、この映画に描き出したのではなかったか。
監督は語っている。「ブルーノのようないい人たちの多くがもしかしたら、選挙でとんでもない政党に投票しているかもしれない。…中略…いい人たちだ。だからこそ難しい」と。
ちなみに、監督は、1981年ライプツィヒ生まれのトーマス・ステューバー。原作は、1977年ハレ生まれのクレメンス・マイヤー。どちらも、旧東ドイツ出身で、少年期にベルリンの壁の崩壊、ドイツ再統一を経験した世代である。
(2019年12月23日記)
    

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