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宇波彰現代哲学研究所

多種多様な「知」の交流を通じ文化創造との実践的な橋渡しをめざし、新たな学問分野の開拓を行う研究機関のブログです。

対話と教室――パオロ・ジョルダーノ『コロナの時代の僕ら』を読んで

 ベタな前口上から始めよう。これから述べることは2020年、今まさに全世界的に流行している新型コロナウィルス(COVID-19)に関連する内容だが、ここで述べられることは個人の見解であり、筆者の所属する組織の見解などとは一切関係がない。……と言っておけば何を言っても許されるというわけでもないが、なにぶん進行中のことでもあるので必要だろう。
 少し前に話題になった本の話をしよう。その本とはイタリア人作家パオロ・ジョルダーノ(1982年- )によるエッセイ集、『コロナの時代の僕ら』(原題:Nel contagio)である。この本は2020年2月末から3月頭にかけて著者が書き下ろしたエッセイ27本をまとめたもので、日本語版(2020年4月24日早川書房より発売)には2020年3月20日付の『コリエーレ・デッラ・セーラ』紙に掲載された著者の記事「コロナウィルスが過ぎたあとも、僕が忘れたくないこと(Quello che non voglio scordare, dopo il Coronavirus)」があとがきとして追加されている。なお、日本では緊急事態宣言が出てから最初の週末である2020年4月10日19時から48時間限定で早川書房のwebサイトにて全文読むことができた。その後、この記事を書いている2020年5月14日現在でも、少なくとも著者あとがき(先述の新聞記事)のみは全文を読むことができる。
( https://www.hayakawabooks.com/n/nd9d1b7bd09a7
 
 著者について詳しいわけではないし、これを機に著者の他の作品を読むということもしていないため、前置きはこのくらいにして、後はこの状況において本稿の筆者が思ったことを備忘録的に書いていこうと思う。まとまりがないことはご容赦いただきたい。 

 さて、朝テレビをつけてもネットを開いても(筆者は購読していないが恐らく同様だろう)新聞を手にとっても目に入るこの新型コロナウィルスについて、何が言えるだろうか。世界中の多くの人々にとって大きな影響があるであろうこの状況で、生活の何らかの影響が出ていない人の方が少ないだろう。個々人の生活だけではなく、社会もまた大きく変化を要請されている。今回の事態に対しての行政の対応への不満は挙げだせばキリがないだろう。いつからこの国の政治家はコメディアンも兼ねることが義務付けられてしまったのか。著者はあとがきにて次のように書いており、そこに描かれるシナリオを避けたいというのは筆者も同意見だ。
 
「支配階級は肩を叩きあって、互いの見事な対応ぶり、真面目な働きぶり、犠牲的行動を褒め讃えるだろう。自分が批判の的になりそうな危機が訪れると、権力者という輩はにわかに団結し、チームワークに目覚めるものだ。一方、僕らはきっとぼんやりしてしまって、とにかく一切をなかったことにしたがるに違いない。到来するのは闇夜のようでもあり、また忘却の始まりでもある。」(パオロ ジョルダーノ. コロナの時代の僕ら (Japanese Edition) (Kindle の位置No.739-743). Kindle 版.)
 
まさかこれだけのことがありながら何も変わらないなんていうことがあるわけもない。そうお考えの人もいるかもしれないが、十二分にありえることだと考えている。実際、今回の変化をあくまで急場しのぎの対応として、「また元の通りに」と願う声は大きい。もちろん不便になったことを元通りに、というのは自然なことだ。しかし今回の事態で明るみに出た不合理なことの数々を元通りにしたいと願う人はそう多くはないのではないだろうか。しかしそうは思いつつも戻るのだろう。こうしたシナリオを避けるためにも必要なこととして、著者が読者へ送るメッセージは次のようなものだ。
 
「もしも、僕たちがあえて今から、元に戻ってほしくないことについて考えない限りは、そうなってしまうはずだ。まずはめいめいが自分のために、そしていつかは一緒に考えてみよう。僕には、どうしたらこの非人道的な資本主義をもう少し人間に優しいシステムにできるのかも、経済システムがどうすれば変化するのかも、人間が環境とのつきあい方をどう変えるべきなのかもわからない。実のところ、自分の行動を変える自信すらない。でも、これだけは断言できる。まずは進んで考えてみなければ、そうした物事はひとつとして実現できない。」(同書 (Kindle の位置No.743-748). Kindle 版.)
 
不謹慎と石を投げられるかもしれないが、コロナウィルスによって変わった社会で、不便だ、困るという声も多くあるが、同様に変わってよかったと言われる点も多くある。スーパーやコンビニの労働者へ唾や罵声を浴びせることは今はできない。東京の異常に混雑する通勤電車に座ることができる。そもそも通勤しなくて良い(この文章を書いていた時は5月上旬だったのだが、5月も中旬になり、また状況は変わりつつ、それも悪い方向へ戻りつつあると言って良いだろう。東京はまだ緊急事態宣言が解除されてはいないとはいえ、空気は日常に戻りつつあるのではないか)。上司に読ませるためだけに印刷し、その意見をもとにデータを修正し再度プリントアウトして上司に再度確認をとり、やっぱり電子データで共有しなくて良い。上からテレワークを命じられたために、ICT導入に乗り気でなかった人々が嫌でも学ぶ。家に帰ったら手洗いうがいをする。挙げればキリはないだろう。
 
 本題に入ろう。今回私が主に考えたいことは、大学や学校の「授業」というものの在り方についてだ。……と改めて自分の書いた文章を見返すと、そこまで大層なことは述べていないので、後からこの文章を見返して問題点を整理していくためのぼんやりとした備忘録だ。特に大学関係者でなければあまり関係のない話ではあるので、今そんなことになっているところもあるのか、と話半分に読んでもらえれば幸いである。
2020年4月1日には文部科学省より「学事日程等の取扱い及び遠隔授業の活用に係るQ&A」という文書が出た。この内容について細かく触れるつもりはないのだが、私が気になったのは何度か登場する次の文言だ。「面接授業に相当する教育効果」。オンライン授業をするにしても、面接授業(要するにいつも行われている教室での対面授業)に近い教育効果を担保する必要がある、ということで、この面接授業とオンライン授業とが比較されている。
はじめからオンライン授業を実施しているならば話は別だが、今回はコロナウィルスのこの状況に対応するため、「急場しのぎ」でオンライン授業に対応しているのだ。少なくとも筆者が所属する大学では9月までの春学期は全面的にオンライン授業になることが決定した。多くの教員(そして学生も同様)にとって、オンライン授業は面接授業の代替物でしかない。面接授業からオンライン授業へ「移行」するのだから、いかにして「面接授業でしていたこと」をオンライン授業で「再現」するかが焦点となる。ここに大きな落とし穴があるように思う。筆者はオンライン授業推進派でも経験者でもなんでもないが、少なくとも素人目からしても言えることは、オンライン授業を面接授業の代替と考える限り、オンライン授業は面接授業の劣化版でしかない。慣れたものを別な方法で再現しようとすればそれまで通りにいかないのは当たり前の話だ。ノートに鉛筆で文字を書くようにして毛筆で文字を書くことができないのは日本の義務教育でよくある話だと思う。PCでオンライン授業をするのも同じことで、道具が身体に馴染んでいないのだ。
同じ授業料で昨年度までは高い質の学習を提供されていた学生が、翌年は同じ料金で劣化版を提供されたとなれば、授業料の返還を求めるのもやむなしだろう。面接授業とオンライン授業(とりわけリアルタイムのオンライン会議システムを用いない場合)は同じ「授業」といっても別物なのだ。もちろん少人数の演習授業など、オンライン会議システム等を用いて、面接授業に似たような環境を作り出している授業もあるだろう。しかし実験や実習はもちろんのこと、それだけでは解決しない問題も山積みである。40人近い学生がいて、教員はもちろんのこと、学生にもPC操作が苦手な人がいる、なんなら自宅にPC環境がない、PCが苦手な学生がそれまでワープロソフトとメール、webブラウザを使うくらいの(あとはせいぜいPowerPointなどのプレゼンテーションソフト)PCが苦手な教員にPC操作について質問する。大学のLMS(Learning Management System)のサーバーがダウンして学生も教員も授業に接続できない。学生は授業を複数受講する上に、学生の通信環境が不明、いくつかの学内の調査では光回線やWi-Fi環境すらなく、スマホの4G回線のみ、あるいは自分の環境がわからない、という学生もいるとのことだった。通信に制限がかかる(いわゆるギガ死)ことによる、教育の不平等を避けるために授業はリアルタイムで振り分けられた授業時間内に行うのではなく、基本をオンデマンド型とし、動画を配信するにしても短く容量を抑えたものを、等々。とりあえず壊れはしないから色々とソフトウェアを立ち上げて試してみればなんとなく使い方もわかってくるはず……と思う人がいれば、その人は十分にリテラシーのある人物だろう。ソフトウェアのどこになにがあるかというデザインは、ユーザーが直観的にわかりやすいよう配慮されてデザインされることが多いので似通ってくる、つまり一つ覚えれば応用が効くのだが、それができる人ばかりであればあれやこれやとマニュアルはいらない。
 
 ここで改めて考えなければならないことは教育の質と平等性の問題だろう。学生が学費を支払い教育を受けているのだから、それに見合うだけの授業を当然大学側は提供しなければならない。しかし学生の通信環境に配慮し、通信制限がかかり不当に授業を受講できない学生が出ることは避けなければならない。これは大きな組織であれば無難な選択だ。
ただ、そうして強行された授業の質はどうだろうか。リアルタイムの会議システムを使って授業をすればいいというものではないが(そこにも既にこの短期間で提起された様々な問題がある)、少なくとも面接授業をオンラインの、それも面接授業にするというのは、学習塾に通って講師の授業を聞いていた学生が通信教育に変えることに等しいだろう。筆者は学生時代、学習塾には通わず通信教育を始めては辞めを繰り返していたクチである。長年のノウハウが蓄積されたプロの通信教育でも学習を継続させるのはそれだけ困難なことなのだ。
そこで逆にポジティブな(楽観的な?)意見として提起されるのは、いわゆるアクティブラーニングの重要性である。要するに、やらされてるうちは身につかない(あるいは習得が遅れる)し、自分が好きでやっていることは身につくのが早いということだ。学生が主体的に課題に取り組み授業へ参加することが特にオンデマンド型の授業では強制される。授業に出席してもらえていた点数が、課題を提出しなければもらえないのだから。勤勉な読者は大学までわざわざ進学して、自ら主体的に学ばないということは理解できないかもしれない。しかし残念ながら全ての学生が自分の学びたいことを選択して進んで学習に勤しんでいるかといえば、そうではないのが現状(あるいはいつの世も)だ。また、主体的に興味を持ったように思われても、それが視野を狭めるということもある。そのために教養科目も設置されているだろうし、学習させられているうちはその必要性がわからず、後になってもっと真面目に勉強していればよかった、というのが学生の常である(なお、後になって後悔するから、と言って学習を強要するのは往々にして逆効果である)。どのようにして学生の学習への動機づけを行うか、それが喫緊の課題である。詳しく調べてはいないが、オンライン授業だと面接授業に比べて授業をドロップアウトする学生の割合が増えるという調査と、オンライン授業では学生が主体的に学ぶので成績が良いという調査、どちらもあるようだ。
 
 さて、授業を平等に受講できる環境を作るために、通信環境に配慮した授業デザインを、という話はどうだろうか。これは教室ではどこでも起こりうる問題で、つまりは学生のどのレベルに基準を設定するかという問題である。ハイレベルな授業ばかりでは学生はついてこれない、しかし一部のより上を目指す学生の要求には応えることができる。逆に誰でも理解できるようにとレベルを落としては、より詳しい内容を学びたい学生には退屈な内容になってしまう。通信環境についても似たような構図が成立している。光回線を引いて通信環境に問題がなく、個室があり、ヘッドフォンとマイクとカメラを用意できる学生はリアルタイムのオンライン授業で問題がない。一方でスマホの4G回線のみで、PCは家になく、家で一人になって落ち着いて受講できる環境にもないという学生。スマホの小さい画面から先生の共有するスライド資料やハンドアウトのPDFを見る必要がある。あるいは発言する時には周囲の生活音が頻繁に混じり上手く教員にも聞き取ってもらえない。極端な例だがありえない話ではない。
 ここで特に問題になるのは、教員の側がオンライン授業に慣れていないという点だ。リアルタイム授業を行うのであれば、面接授業に近いものを演出できる。しかし通信教育のようなオンデマンド授業は初めてのことなので探り探りだ。当然後者の質は前者に比べて落ちる。通信環境の整った学生はより質の良い授業を受けたいと思えば前者を望むだろう。あるいは、後者の方が拘束されずに楽と思うかもしれない。これに対して通信各社は、学生向けに4G回線等の通信量の緩和策を提供している。もちろんそうした配慮の有無に関わらず、古今問わず不真面目な学生というのはいるもので、通信量に配慮した授業を行った結果、通信量が「浮く」ので、外出もできないしその分はYoutubeで動画でも見よう、となるらしい。外出できても学生の娯楽としてYoutubeなどの動画サイトは広く普及している(ここでYoutubeとすぐ言ってしまうあたりも既にバイアスがかかっており、実際はTikTokだとかInstagramとかで短い動画を見る人も多いのかもしれない。筆者はとうにイマドキの学生ではない)。筆者は大学から環境に配慮しろ、とばかり言われていたので、むしろ感心してしまった。それはそうなる。さすがに卒業論文を書いたりもするだろうから、PCくらいは買っておいては、と思ってしまうし、そうなると調べ物をするにもブラウジングする時だけスマホでテザリングとはいかないので、PCを使うためにも工事不要の格安ルーターを導入した方がいいのでは、とも思うのだが、そこは各々の家庭の経済状況なので強制はできないのだろう。いや、できないのだろうか。学費の免除や減免措置はあるし、そうしたICT機器の貸出を行っている大学もある。そもそも大学へ進学せず就職という道もあったはずで、そうではなく進学を一応「選んで」はいるのだ。もちろん就職するためにとりあえず大学を出ておく、という学生が多いことは承知している。様々な環境、経済状況の学生もいるだろう。しかし本当に困窮していて、それでも学問の道を諦めきれない苦学生、というのは果たしてどれだけいるのだろうか。
 
 教育の質に関して、もう一点気になること、忘れたくないことがある。それは、もしオンライン授業で面接授業と同じだけの教育効果を上げられるならば可能、ということが文科省から認められるのであれば、それまでの授業はなんだったのだろうか。もちろん過渡期であって、オンライン授業というのはこれまでメジャーな手段ではなかったのだから、致し方ない面もあるが、面接授業には面接授業でなければできないことがあるのだから、その利点を活かすよう授業デザインをしなければならない、ということになるだろう。結局アクティブラーニングみたいな話にはなるが、ただ教師の話を聞くだけならば、動画で良いのではないか、実際に公開講座を動画で配信、というのも増えてきている。例えばコレージュ・ド・フランス(フランスの最高峰の高等教育機関。講義自体は公開されている)の講義もPodcastで録音や録画、資料を視聴することができる。……という声もあるのだが、実際のところ、ただ話を聞くだけでも直接話を聞くのと動画を長時間視聴するというのは異なる体験で、単純に代替できるものでもない。ただ、これはむしろ感心したことシリーズなのだが、学生は教養科目の退屈な話は、1.5倍速や2倍速で聞くらしい。2倍速で理解できる内容なら2倍速の方が時間も効率的に使えてお得だ。もし難しい内容であれば該当箇所を繰り返し聞いたり、等速に戻したり、あるいは外国語学習であれば0.5倍速にする等もできるだろう。授業内容や進め方が相手によって変わらないような内容、講義科目の一部であったり、特にガイダンス等は直接話を聞く必要もないのかもしれない。ただもちろん、全ての学生がちゃんと動画を見なさいと指示して見るとも思えないので、重要な事項はやはり直接会って伝える、ということも必要にはなるだろう。動画視聴の場合、「ながら」になる可能性は高いと筆者は考えている。動画をきちんと見ずに、何か他のことをしながら見るのだ。もちろん教室で授業をしても寝ていたり、スマホをいじっている学生は出てくるものだが、動画越しと、直接の人間のまなざしとは質的に異なっている。
 
状況が状況なので、最初はまず授業オンライン化が決まり、対応しなければならない。先生方も学生も不安だ。だからまず最低限、授業実施を目指す。あんまり頑張りすぎて課題を出しても、教員にとっては一つの授業でも学生はその課題を10倍やることになる。
最初はまずオンライン化に乗り気でない(手間が増えるのだから乗り気になるわけがない)教員を鼓舞するために、簡単で最低限の仕方でいいですよ、と手招きをする。しかし「最低限」で学生が満足するか、あるいは満足以前に、上手く進行しない授業に納得するか。課題だけ出て指示のない授業が授業といえるのか。進研ゼミならもう少し細かい指示が出るだろう。その道で長い進研ゼミですら、ノウハウの蓄積があっても学習の継続は難しい。もちろん単位の取得と補習ではモチベーションに違いがでることは当然なのだが。
 教育の質を高めよう、いつも口頭で細々と説明していた教科書を補っている部分もなんとかしよう、と頑張っている先生もいる。しかし一方で、先生にとっては一つの授業でも、学生にとっては10分の1の授業だったりもする。先生がみんな頑張って課題を出すと、学生にはその課題が10倍のしかかるのだ(ただし真面目に学習しなさいという声は考えないものとする)。課題の量が授業の質ではない。ではPC操作の苦手な教員でもどう教育の質を上げることができるのか。様々なソフトウェアを駆使してあの手この手でICTが得意な先生がオンライン授業に関する様々な事例を提供することはできるだろう。しかしそれができる先生ばかりではないし、使うソフトウェアが増えると学生が混乱するという事態も実際に生じている(ある授業は学内LMSで、ある授業はZoomで、ある授業はMicrosoft Teamsで、ある授業はGoogle ハングアウトで、Google Meetで、はたまたそれらを併用して……)。始めはまずPC操作に不慣れな教員でもできるようにとシンプルなことから始めたかもしれない。それは急な対応だったのだから致し方ないことだ。しかしいつまでそれを続ければ良いのか。仮に今回のコロナ騒動が収束したとして、また同じようなことが繰り返されないとも限らない。あるいは、大学で本格的にオンライン授業というものが導入されないとも限らない。そうなると次に教員の側も新しいシステムに適応するよう、学習しなければならなくなってくる。どれだけ単純で、かつ質の良い、「コスパの良い」授業が、それはオンラインか面接かを問わずでもあるのだが、必要とされている。
 
筆者は授業オンライン化の対応をするために、なぜか大して詳しくもないが各種LMSやOffice 365のアプリケーションについて学び、それを各先生方に教えるという機会に恵まれた。教員が普段慣れないICT機器を駆使して、なんとか現状に対応しようとしている状況はよくわかっているつもりだ。しかし、一方で、「先生方がどれだけ頑張っているのか学生にも知って欲しい、理解して欲しい、職員も対応に追われ、非常に時間と労力を費やしている」と言われると、それでよいのだろうかと考えてしまう。それは学生に向けて発信すべきことだろうか。教職員みな、今の混乱した状況に対応すべく、学生の学習が継続できるようできる努力をしている。しかし、教員が授業の準備をすることが学生に理解を求めるようなことだろうか(ここには、現状が非常時であり、通常以上の労力を払っていることへの敬意を抱くべきという暗黙の指令と、学生に想像力のないクレーマーにはなって欲しくないという願いが込められているだろう)。それは学生に向かって「こっちは努力しているから低品質で我慢して」と言うことと同義ではないのか。「頑張っているから単位をくれ」という学生に普段単位は出さないだろう。そこには頑張っていたらもう少しテストで点数がとれるだろう、という期待や日頃のお互いの信頼関係なども絡むだろうが、学生にとっても教員は初対面だ。初対面の人間から「頑張ってるから容赦して」と言われても、納得しないことは多いのではないだろうか。これは日本人が優しい心を失っただとかそういう話ではない。学生に我慢を強要してはならない。理解を求めたところで本人に直接言わなくなるだけだろうが、それはただ喉元を通り過ぎるまでの辛抱で良いのか。学生の言論から、学生の指摘から目を背けてはならない。非常時だからと全てが許されるわけではなく、コロナウィルスは免罪符ではない。教員側がむしろに学生から教えられなければならない。人に教える中で自らが気付くことは多い。教室はその意味でも対話の場なのだと思う。これはただディスカッションをすればいいということではない。コロナが過ぎ去っても忘れたくないことの1つだ。
 
アクティブラーニング、という言葉にはなんとなく違和感や抵抗がある筆者だが、ではアクティブラーニング的なことをしろ、とはいっても、なにかにつけてディスカッションをしろという話でもないだろう。語学教育で、文法の説明をして、練習問題をして、解説をして……。筆者もこうした形式の授業をしていたが、それは面接でなければいけなかったのだろうか? 教える側が問われることになっている。かといって学生に発言させればいいわけでもない。例えばこの話は学生がつまらなさそうだ、とか、文法の説明をしていても、学生の顔を見て理解度を測る等でも良い。双方向性というのは、ただ喋ることだけではない。人間のコミュニケーションは音声言語によるものだけではない。Zoom会議で授業をすれば双方向的なのでもない。オンデマンド型の授業でも双方向性をもった授業は可能だ。ならば考えなければならないのは、学生と教員とでどんなやりとりをして、そのためにはどんなツールを選ぶのか、どのような授業をデザインするのかということだ。
 
口で言うのは簡単だが、ではこうしたら良いというモデルケースをここで提示できるものではない。無責任ではあるが、ここでできるのは自戒も含めた問題提起くらいだ。すっかり自分の話ばかりをしていたが、冒頭のジョルダーノの話に戻るならば、「何を忘れたくないか」を考えることだ。もちろん考えることで全てが解決すれば苦労はない。しかしこうしていくつかの問題点を挙げ、書き留めておくことはできる。本稿では主に大学教員側の話だが、学生側についても思うところはもちろんある。それは日本のICT教育についてもだが、まずそのわからないと言っていることについて、「わからない」と発信しているその機器で、「わからない」ということについて調べればいい。なんなら今のスマートフォンなら大体話しかければ勝手に調べてくれる(これは教員側も同じだが)。その質問は教職員が答えるべきものだろうか。とはいえ、慣れない状況で少しでもコミュニケーションを増やす機会になると思うと否定的にもなりきれない。困難な状況での苦労を共有したという連帯感も生じうる。始めは皆わからないことなのだから、わからないことを責めるのではなく教えるのが教員の務め、と考えてはいるのだが、いざ自分のこととなると忘れてしまっていたらしい。ただ、甘やかしてばかりいては自分で調べる能力が身につかないのだから、調べてわかることはまず自分で調べる、ということだ。もちろん調べた結果に満足して間違ったままでいることもあるが、少なくともパソコンの使い方に関してそれはないだろう(そんな高度なこともしていないので)。もちろん教員は割り振られた授業の内容を教えるのであって、そんな機械の使い方なんて、と思われるかもしれないが、シラバスには大学としてどのような能力をこの授業で学生に養ってもらいたいかという項目を記載したりもする。大学の方針によるだろうが、社会に出て必要な能力(「社会に出る」なんていう言葉は嫌いだが)を色々と教えなければいけないらしい。らしいとか教員が言ってはいけない。その「社会で必要とされる人材」像に沿った教育ができているのであれば、会社で「なんでそんなこともわからないのか」ということも減るのだろうが、人間の多様性も減るのだろう。ただそれはここでの本題ではない。
 
 なんだかまとまりがないが、最初に戻ってみよう。一冊の本から出発しておいてその本にはほとんど触れてこなかった。しかしエッセイ集という特性上、特に新しい情報や知見が得られるというタイプの本でもないので、概念を抜き出してというわけにもいかない。とはいえ、「コロナの後でも忘れたくないこと」をまとめるという企図はやはりこの書物から出発したものだから、この書の名前を挙げてここに自分の思うことを書くことは間違いではないだろう。
 
「読者のみなさんがこの文章を読むころには、状況はきっと変わっているだろう。どの数字も増減し、感染症はさらに蔓延して世界の文明圏の隅々にいたるか、あるいは鎮圧されているかもしれない。だが、それは重要ではない。今回の新型ウィルス流行を背景に生まれる在る種の考察は、そのころになってもまだ有効だろうから。なぜなら今起こっていることは偶発事故でもなければ、単なる災いでもないからだ。それにこれは少しも新しいことじゃない。過去にもあったし、これからも起きるだろうことなのだ。」 (Kindle の位置No.63-65).
 
確かに状況は2月とはだいぶん異なっている。先月は数字が増大し、今月は数字が減少している。いわゆる「コロナ禍」も収束の気配(というより期待)が濃くなってきている。きっと多くのことが一時のこととして忘れ去られ、元通りになるだろう。あの時は大変だったね、色々と手間が増えて面倒だった、それで終わるのだ。ジョルダーノは「感染症とは、僕らのさまざまな関係を侵す病だ」(No.82).と述べる。私たちは自粛の名の下に様々な交流を絶たれ、「事態が収束したらまた」と約束を交わす。しかし今回教育の現場で生じたことは、規律権力という関係をも等しく感染症が侵したということだ。ウィルスにとって人間は丁度良い媒介でしかなく、そこに上下はない。上下のないことが理想だと言うつもりはない。権力関係は人間がいる場所にはどんな間柄であれ生じるものだ。ただ少なくとも、今回の騒動の中で、教員から学生への呼びかけが増え、少しでもコミュニケーションをとろうとする意志を、対話の意志を忘れたくないと私は考えている。
 
2020年5月15日 

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