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宇波彰現代哲学研究所

多種多様な「知」の交流を通じ文化創造との実践的な橋渡しをめざし、新たな学問分野の開拓を行う研究機関のブログです。

エスペラント語の世界を考える

 『歴史・文学・エスペラント』という本を知人の言語学者が送ってくれた。この本は伊藤俊彦というエスペランティストが書いた批評集であるが、私はエスペラント語に関する知識は皆無に等しい。だが、そんな私であっても、この本には非常に興味深い問題が多数書かれており、関心が途切れることなく一気に読むことが出来た。また、伊藤は平易な文体で、簡潔にこの本を書いており、その点でも好感の持てる著作となっている。
 しかしながら、この本を読み終えた私は「国家言語ではない言語によって語ることの意味とは何か?」、「エスペラント語で書かれたテクストの政治性」、「エスペラント語と理想主義」という三つの問題について考える必要性を感じた。何故なら、エスペラント語の持つ特殊性は、一般的には言語と密接に連結していると思われている国民性、民族性、地域性といった問題との断然が確実に存在している点にあると私には思われたからである。 

国家言語ではない言語を語ることの意味とは何か?
 エスペラント語を作ったラザーロ・ルドヴィゴ・ザメンホフの国籍は何処かと問われ、ポーランドと答える人が多いのではないだろうか。確かに、1859年に生まれ、1917年に死去した彼はユダヤ系ポーランド人である。そのために、彼の国籍はポーランドであったと私も思い込んでいた。しかし、伊藤の書いたこの本には「ロシア・エスペラント運動の歩み」という批評が収められているが、そこにある「冒頭、他ならぬザメンホフがロシア帝国臣民として登場する。表紙に掲載された第1回ロシア・エスペラント大会 (1910年) での記念写真では、ツァーリの肖像を背景に、最前列中央におさまっている。当時のポーランドは帝国ロシアの版図の一部だったからだ」という言葉を読んで、ザメンホフが生きていた時代、ポーランドという独立国家が存在していなかったことを私は思い出した。
 国家と言語は切り離されないものであるという意識をわれわれは強く植え付けられているが、国家と言語の関係が強調されたのは、近代の国民国家成立以降のことである。この点に関して、言語学者の田中克彦が『エスペラント―異端の言語』の中で、18世紀に「(…) 近代国民国家が、国語だの国家語だのというものを人類史上初めて作り出した (…)」点を強調しているように、国家と言語の強い結びつきは近代が人類史上初めて生み出した問題設定なのである。
 国民国家という概念の発明は、一民族一国家という方向性をも有するものである。そのために、近代以降、民族紛争の最先端で言語問題がしばしば取り上げられてきた。こうした対立は戦争にまで発展する場合が多々あった。その対立を解決するための一つの手段として国際語の必要性が議論されたのは、歴史の必然的な流れであったかもしれない。エスペラント博士の名前で刊行されたザメンホフの『国際語』の中には、「(…) 言語は文明の原動力です。私達が動物より優れているのは言語のおかげです。そして言語が高度であればあるほど、人民の進歩はますます速度を増すようになります」(倉内ユリ子訳) という言葉が見出せるが、そのすぐ後で、エスペラント博士は言語の違いが巻き起こす民族及び国家間の対立問題について述べ、「民族自身が互いに争い合っている人々の住む都会に一度でも住んだことのある人ならば、国際語が人類にとっていかに大きな利益をもたらすかということを確かに感じたことがあるはずです」と主張している。ザメンホフの国際語創造による平和の構築という考えが端的に表れた言葉ではないだろうか。
 だが、こうしたザメンホフの希求はエスペラント語が作り出されたことによって実現したであろうか。伊藤が書いている多くのエスペランティストの不幸な生涯を読むと、答えは否ではないだろうか。エスペラント語には国際語であろうとしたゆえの不幸な歴史があるのである。
 
エスペラント語で書かれたテクストの政治性
 『歴史・文学・エスペラント』を読んで驚かされたことの一つに、何と多くの政治的文学作品、評論やルポルタージュがエスペラント語で書かれているのかということであった。この本の特に文学に関する章で紹介されている作品は、必ずと言ってよいほど政治的な弾圧を受けた人間が描かれた作品である。何故これほど政治的な作品がエスペラント語で書かれているのか。著者の伊藤は、紹介した作品の選択には恣意性があることを否定してはいないが、彼の関心が特別に政治的な作品に偏っていたとは思われない。では、その理由は何であろうか。それはエスペラント語が抵抗の言語として語られてきた歴史があるからであると私には思われる。
 田中克彦は前述した本の中で、「言語の壁を乗りこえる手近かな一つの方法は、それぞれ自分の母語をすてて、既存のある特定の有力な言語に乗りかえることである」という発言を行っているが、話者が多く、政治・経済的にも影響力の強い言語を国際語とすれば、言語の壁を乗り越えられるという意見が繰り返し主張され続けている。日本における英語帝国主義に迎合する英語教育が強調されている現状を考えれば、このことがよく理解できるであろう。強力な政治力、経済力、あるいは、軍事力を持った国家が用いている言語に従えばよいという短絡的な考えの下で国際語が選ばれるとすれば、少数言語や、様々な分野での競争力のない言語は国際言語とはなり得ず、それゆえに消え去ってもよい言語と見做され、実際に消滅への道を進むこととなる。
 エスペラント語は特定の国家の政府の力を背景に誕生した言語でもなければ、すでに多くの話者が存在していた言語でもない。一人の眼科医が民族間の、国家間の対立を超えて国際語として確立しようとした言語である。強力な権力を背景とした言語ではないゆえに、万国の労働者全体の国際語に、世界平和を切望する平和主義者のための国際語になり得る言語であると多くのエスペランティストが考えた。だが、その理想主義は国家権力にとって余計なもの、邪魔なものとなった。何故なら、エスペランティストを中心とした反政府組織が出現することを権力者が恐れたからである。伊藤のこの本にはソビエト政府に、ナチス政権に、あるいは、敗戦前の軍国主義日本政府に様々な形で弾圧を受けた多くのエスペランティストが登場する。
 ウラジミール・ヴァランキン、ユージノ・ミハルスキ、ユリオ・バギー、エウゲーノ・ランティ、大場嘉藤、高杉一郎。これらすべてのエスペランティストの名前を私はこの本を読んで初めて知ったのだが、彼らが弾圧を受ける大きな原因の一つとなったものがエスペランティストだからであった。平和のための国際語によって語っているといくらエスペランティストが主張しても、権力者は彼らを抵抗者と見做し、粛清しなければならない大いなる敵対勢力であると考えた。権力者たちにとってエスペランティストたちは目障りな存在でしかなかったのだ。それゆえ、エスペラント語は抵抗の言語となっていたのである。
 
エスペラント語と理想主義
 エスペランティストの理想主義と平等主義及び平和主義は、近代国民国家政府には受け入れ難いものであったとも述べ得る。ファシズム、軍国主義、スターリニズムの時代以前でも、例えば、中村彝が肖像画を描いたことで有名な盲目のエスペランティストのヴァシィリー・エロシェンコは、エスペラント語を駆使して長期に亘って日本や中国などを旅行したが、盲目に加えて、エスペラント語という異形の言語を話す者であったゆえにスパイであると疑われた。理想主義を掲げたためにかえって弾圧を受けることとなったエスペランティストの運命を象徴する中村彝のエロシェンコ像には受難者たちの姿の象徴が表されてはいないだろうか。
 伊藤が『歴史・文学・エスペラント』の中で多くのページを割いているランティの生涯に対するテクストを読むと、数多くのエスペランティストが確固とした政治思想や理想主義的イデオロギーを持っていたと思うであろう。だが、ウルリッヒ・リンスの『危険な言語―迫害のなかのエスペラント―』を読むと初期のエスペランティストが必ずしも左派勢力と親近性が強かった訳ではないことが理解できる。リンスは「(…) エスペラントを学んだのはまず非政治的な人たちだったし、当時の運動は意義のある社会主義者なら「階級敵」のうちに入れるにちがいない人たちにちがいない人たちによって、がっちり統制されていた」(栗栖継訳) とも、「(…) 既成の労働団体や党はエスペランチストたちを無視し、支持するにしてもへっぴり腰で、なかには白眼視する団体や党さえあった」とも述べている。エスペラント運動は当初政治的中立主義者を中心に広まっていったのである。
それが次第にプロレタリアートを中心とした左翼思想と強く結びついた運動として拡大するようになったのである。リンスは「(…) 一九二〇年代の終りになるといくつかの国で新会員を獲得する点で、労働者エスペランチストたちの方が規模や効果にかけては「中立主義者」をはるかにしのいでいた (…)」と書いている。こうした時代背景の下で、エスペラント運動は左翼思想との関係性を強めていき、その一つの中心となったものがランティを中心に1921年にプラハで設立されたSATサート (国民性なき全世界協会) である。この創立大会の結びの言葉は「偽善的中立主義くたばれ、資本主義くたばれ、SAT万歳!」であったように、SATはエスペランティストが中立主義的であることを拒否し、プロレタリアートの連帯による資本主義の打倒を強く打ち出し、エスペラント運動にとって重要な存在となっていったのである。
しかしながら、こうした行動主義はエスペラント運動を弾圧される方向に導いていった。伊藤のランティについてのテクストは反資本主義、反ファシズム、反スターリニズムを生涯貫いたランティの姿勢が明確に描かれているが、彼の意志の強さとエスペラント運動に賭けた情熱に反して、歴史はランティにも、エスペランティストにも激しい受難を与えた。伊藤のこのテクストには書いてはいないが、数々の苦難を絶えた強靭な精神を持ったランティであったが、最後は現状に絶望し、メキシコでピストル自殺を遂げた。エスペラント的理想主義者の死。歴史的変遷の中で、エスペラント運動の理想主義もランティの死のように儚く消え去ってしまった。われわれはこう語るべきであろうか。
 
弾圧の後で
 エスペラント運動は様々な弾圧の歴史を越えて発展したと断言できるだろうか。そうした疑問が沸き上がってきても当然であろう。世界の現在のエスペラント語話者は100万人という統計がある (150万人程度という説や、200万人程度という説も存在する)。また、エスペラント語を母語とする話者も約1000人いると言われている (母語話者人数に関しても諸説がある)。数の多さや少なさは大きな問題ではないかもしれない。だが、ザメンホフが求めた国際語としての、平和主義を中心としたエスペラント運動ははたして成功したのだろうか、エスペラント運動は年月を追うごとに前進しているのかと問うことは無意味なことではないだろう。
 その答えは「そうだ」とも、「そうでない」とも断言できないものである。何故なら、1887年にエスペラント博士が書いた『国際語』が発刊されてから130年以上が過ぎ去っているが、それにも拘らず世界のエスペラント語話者は100万人程度しかいないと言うことも可能だからである。しかしながら、あの大弾圧の時代を乗り超えてもエスペラント語が世界中の多くの人々に今も話され、多数の出版物が発行されているという事実を見るならば、エスペラントの緑の星の輝きを称賛すべきであると述べることも可能であろう。
 問題はこの言語が誕生してから約130年という期間にあまりにも多くの人々が、エスペラント語話者であるということだけで、虐殺されたり、強制収容所に送られたり、国外追放に遭ったという事実があることである。誕生から短い期間しか経っていないにも拘らずこれだけ激しい弾圧を受けた言語は他には存在しないであろう。それはこの言語が人工言語であったからではなく、創案者のザメンホフがユダヤ人であり、彼の人類人ホマラニ主義スモという理想主義が世界制覇を目指すユダヤ思想に基づくものであると多くの独裁者や権力者たちに見做されたためであった。彼らにとって邪魔となる平和主義や平等主義、あるいは、自由主義といった思想がエスペラント語の基盤にあると思われたからである。高貴なる思想はその崇高さゆえに弾圧の対象となったのである。
 こうした弾圧をエスペランティストは確かに乗り越え、現在も尚世界中でこの言語を使い生きている。しかし、それで十分なのだろうか。この書評の最初で、私は伊藤の本を読んで感じた三つの疑問点について書いたが、抵抗の言語としての特質がなければエスペラント語は生き残らなかったのではなかったかという思いを、伊藤の本に載っている政治小説の書評、リンツの本、大島義夫と宮本正男の書いた『反体制エスペラント運動史』を読んでいくと抱いてしまう。特に、大島と宮本の書いた本の中に登場する軍国主義日本に日本人として立ち向かい、日本国民に軍国主義日本の行っている戦争の愚劣さを語り続けた長谷川テルと、ベトナム戦争に反対し、首相官邸前で焼身自殺した由井忠之進という二人の日本人エスペランティストの行動の中に、エスペラント語の持つ抵抗性を私は強く感じてしまう。言語は言語であり、それ以上でもそれ以下でもない。科学として言語を捉えれば、そうであろう。しかし、それだけではない言語の言語性も存在するのではないだろうか。
 
混在した痕跡の歴史性
 ジャック・デリダが彼の死の年に行ったインタビューを本にした『生きることを学ぶ、終いに』の中で、「私が「私の」本を残す (…) とき (…)、私は、出現しつつ消滅していく、けっして生きることを学ばないであろう、教育不能のあの幽霊のようなものになるのです。私が残す痕跡は、私に、来るべき、あるいはすでに到来した私の死と、そしてその痕跡が、私より生き延びるという希望とを、同時に意味します。それは不滅を求める野心ではなく、構造的なものです。私がここに紙切れを残し、立ち去り、死ぬ。この構造の外に出ることは不可能であり、この構造が私の生の恒常的な形式です」(鵜飼哲訳) という言葉を語っている。エスペラント語とエスペランティストの歴史を詳しく知った時、私はこの言葉を思い起こした。痕跡として残るものとは何であろうか。それは言葉である。だが、その言葉は誰の言葉で、誰に向けて語られた言葉だろうか。
 エスペラント語はその誕生の時から、混在した声を内包していた。ザメンホフの理想主義や平和主義は、ユダヤ思想やシオニズムと一体のものであると権力者から批判された。また、平等主義や自由主義を持つ言語と見做されたゆえに、あるいは、全世界のプロレタリアートを団結させる言語であると見做されたゆえに、多くのアナーキストやコミュニストがエスペラント語を学んだ。それに反して、政治思想から切り離された国際交流の手段としてこの言葉を役立てようとした中立主義者と呼ばれたエスペランティストも常に存在していた。
ミハイル・バフチンの対話理論の中には、ポリフォニーという概念とカーニバル性という概念が共存している。どちらの概念も、われわれの対話関係を表す概念であるが、前者が穏やかで調和的な多声性を示すのに対して、後者はカーニバルの狂乱のように統一されない、様々な喧騒に満ちた声の重なり合いを示している。歴史はエスペラント語が、ポリフォニー的で、均整の取れたハーモニーが流れる言語として存在することを許さなかった。歴史はカーニバル性を内在させることで、対話し続ける言語として存在するようにエスペラント語を導いていった。
 それゆえ、エスペラント語の歴史は幸福な歴史であったとは決して述べることができない。だが、そのカーニバル性ゆえにこの言語は決して国家主義や民族主義と結びつくことなく、進むことができたとも述べ得るのではないだろうか。そして、そこにこそこの言語の特質があると考えることは誤りであろうか。カーニバル性を抱えた抵抗の言語として。
 
 この書評の最後に、伊藤の『歴史・文学・エスペラント』がわれわれに語り掛けたものの意義について検討しようと思う。冒頭で示したように、エスペラント語のテクストには多くの政治的テクストが存在している。それは上記したように、この言語が辿ってきた歴史のためであった。伊藤はこうした歴史を持つエスペラント語のテクストを時代、発刊場所を問わずに網羅的に紹介している。それゆえ、この本はエスペラント語テクストの地平全体を見渡すという役割を十分に備えている本となっているように私には思われる。
 また、伊藤はこの本の中で、エスペラント語に訳された様々なテクストの紹介も行っている。セネカ、ラ・ロシェフコー、ハインリヒ・ハイネ、ジョン・マクレー、サビーネ・ディートリッヒ。こうした世界の様々な文人の書いたテクストをエスペラント語に訳すことでエスペラント運動が広がっていた側面がある点もわれわれは忘れてはならない。自国や自国文化を紹介するために、エスペランティストはエスペラント語を積極的に活用した歴史がはっきりと示されているからである。相互交流は自己の存在性を明かし、他者の存在性をしっかりと見つめ、対話を行う行為である。そうした理念に基づき、エスペラント語が語られてきた歴史を、伊藤のテクストを通して私は明確に知ることができたのである。
 この本の読者の中には、伊藤が水平的な広がりを重視し、垂直的な深さという点では十分な考察を行っていないという印象を抱く人も少なからず存在するであろう。確かに、この本は詳細な、厳密な、体系的な研究書ではない。だが、エスペラントの世界へと読者を導くガイド・ブックとして大きな位置を占めることができる本である。「() 脱構築は‹然り›の側、生の肯定の側にあります」とデリダは上述した本の中で語っているが、伊藤の『歴史・文学・エスペラント』はエスペラント語の脱構築への一つの大きな契機となり得る本である。エスペラントの脱構築はこれからも続いていくだろう。私は伊藤の声の向こうにあるエスペラント語の響きに耳を傾けた。 

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