宇波彰現代哲学研究所

多種多様な「知」の交流を通じ文化創造との実践的な橋渡しをめざし、新たな学問分野の開拓を行う研究機関のブログです。

今村仁司とベンヤミン (4)

<歴史とは何か>

「衝撃の火花」とか「破局の地平」というところが難解であるが、これはおそらく、『パッサージュ論Ⅳ』におけるベンヤミンの次のような見解を下敷きにしていると考えられるベンヤミンは「形象」(Bild)というものが「ある特定の時代に解読可能になる」と考える。その像の内部で展開される運動が、「特定の危機的な時点」に到達する。それが「今」である。「この今においてこそ、真理には爆発せんばかりに時間という爆薬が装填されている。・・・過去がその光を現在に投射するのでも、また現在が過去にその光を投げかけるのでもない。そうではなく形象のなかでこそ、かつてあったものはこの今と閃光のごとく一瞬に出あい、ひとつの状況(コンステラツィオーン)を作り上げるのである。」(p.19)ここで「状況」と訳されているのはもちろん「星座」のことである。ベンヤミンのこの数行は「星座」の構成のあり方についてのきわめて重要な示唆であり、多くのベンヤミン論で引用される有名な一節である。「過去と現在が一瞬の閃光のうちに星座を構成する」というベンヤミンの「驚くべき」思想に打たれなければベンヤミンを理解することは不可能である。今村仁司には、そのことがよくわかっていた。この歴史観は、通常の歴史についての見方とはまったく異なっている。「星座を取り出す方法」がここで語られている。
それでは、過去と現在が一瞬の閃光で星座を構成するという、神秘的ともいえるこの歴史概念は、実際にはどのようにして可能になるのか。今村仁司が「精読」しているベンヤミンの「テーゼⅧ」は、よく知られているようにカール・シュミットの『神学政治論』(1922年)における「例外状態」の概念を使っている(邦訳で「非常事態」となっているが、原語はAusnahmezustandであり、「例外状態」と訳されることが多い)。しかしベンヤミンは、「主権者は例外状態において決断する者である」というシュミットのテーゼを超えたところで考えている。これまで、ベンヤミンは『ドイツ悲劇の起源』において、シュミットの『神学政治論』で示されている例外状態論、主権論を援用したとされてきた。しかしアガンベンは、ベンヤミンとシュミットの関係を考察した『例外状態』において、シュミットの方が1921年に書かれたベンヤミンの「暴力批判論」を読んでいた可能性が高いとする。そして、「シュミットの理論をベンヤミンの『暴力批判論』への応答として読みたい」と述べる(Giorgio Agamben,State of exception, The University of Chicago Press,2005,p.53、以下SEと略記)ここで「シュミットの理論」というのは、彼の主権論のことである。アガンベンは早くからベンヤミンに関心を持っていて、イタリアでのベンヤミン著作集の刊行に関係し、またベンヤミン論も書いている。そうすると、ベンヤミン、シュミット、アガンベンという星座を作ることができる。アガンベンは『ホモ・サケル』の第一章「主権の論理」で、シュミット乗例外状態論を深く検討し、そこで「例外状態」という概念がキルケゴールへと遡るものであることを指摘している(アガンベン高桑和己訳『ホモ・サケル』以文社、2003,p.27)。そうするとキルケゴールもこの星座に加えることができるだろう。さらにベンヤミンの影響下にキルケゴール論を書いたアドルノも、その星座から除外することは困難になる。
ベンヤミンの「歴史の概念についてⅧ」は「例外状態」をテーマにしているから、ここで付言しておきたいが、アガンベンは『例外状態』の冒頭で次のように書いている。例外状態において決断する者としての主権者というシュミットの定義は、広く解説され、論じられてはきたが、公法における例外状態については理論が存在せず、公法の法律家・理論家は。例外状態を真の法的な問題とはせず、事実問題としているように見える。」(SE.1)例外状態の典型的な例は戦争である。ベンヤミンが「例外状態が日常である」というとき、具体的にどういうことが語られているのか不明確ではあるが、「例外状態」が理論化の対象にもなっていないというアガンベンの指摘は重要である。理論化されていないということが「例外状態」の特色である。
「毎日を非常事態とみること、これが歴史の概念把握であり、簡単にいって、それが歴史の概念である」という今村仁司の見解は、ベンヤミンの歴史概念に対する「驚き」から始まっている。今村仁司は、ベンヤミンのテーゼⅧが「アブノーマルであり、非常識である」とする。「それは常識を転倒させ、常識が幾重にもからみついている自明の硬い殻を破壊する」のである(BR.117)。「この破壊からしか、認識の萌芽である真実の<驚き>が生まれない」という今村仁司のことばには、マキアヴェリに対するアルチュセール、スピノザに対するネグリの驚きと通じるものがある。「驚き」が思考の始まりである。「見知らぬもの」「異様なもの」「他者(別なもの)」が侵入してくることによって思想が始まることを、ベンヤミンと今村仁司は一体になってわれわれに教えてくれる。

(付記。この追悼論文は、雑誌「情況」2007年7/8月号に掲載されたものを大幅に改稿したものである。2008年3月16日)

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