宇波彰現代哲学研究所

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長谷邦夫論 ブラックホール的世界/宇波彰

はじめに

この長谷邦夫論は『長谷邦夫パロディ漫画大全』(水声社、2004年)の解説として書かれたものである。初出のまま掲載する。
(2007年11月6日)


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長谷邦夫の作品の最大の特徴は、作者自身のオリジナルなイメージが存在しないということである。すべてが既成のイメージの合成であり、モザイク化である。彼の作品に登場する人物の姿は、彼の作品が書かれた当時において、いずれもひとびとがよく知っているマンガの主人公たちや、実在の人物や、映画のヒーローたち、そして漫画家たちである。それらの人物たちについて無知な読者でも、もちろん作品を楽しむことはできるが、長谷邦夫の仕事には、一種の「同時性」のようなものがあり、読者の記憶の中にないものがあるときには、作品から得られる楽しみが減少するであろう。ただし、それらの架空の人物も、実在する人間も、長谷邦夫の作品のなかでは、同一の価値しか持っていない。ヒトラー、東条英機、佐藤栄作も、あるいはほとんど忘れらていたが、最近話題になった金嬉老(その問題を取り上げた福田恒存の戯曲があった)も、手塚治虫も、美濃部都知事も、もともと持っていたすべての価値を剥奪され、単に「引用のモザイク」の一断片として現れている。しかし、その断片に元来はどのような価値があったのかを知らない限り、長谷邦夫の真の読者になることは困難である。
長谷邦夫の作品はしばしばパロディマンガといわれている。長谷邦夫の作品が先行するマンガのパロディという概念もしくはフレームで考えるのは、きわめて正統的な長谷邦夫論の方法であると思われる。しかし、長谷邦夫の作品を、単にいままでのマンガのパロディという概念で規定することが実は非常に困難であることは、作品に接すればただちにわかってくる。パロディという限りにおいては、パロディの対象になるものが存在するはずであり、またパロディの本質として対象を「批判」するものでることが必要である。しかし長谷邦夫の作品を、「批判マンガ」として読むことは困難である。たしかに、のちにも言及する「風立たぬ」が堀辰雄的な別荘文学・高原 学を揶揄しパロディ化しているといえないことはないが、批判的な要素はないと見るべきである。つげ義春の作品を下敷きにした「紅い花血」のなかで、長谷邦夫はつげ義春の作品から借りてきた少女につぎのように言わせている。「われはつげ義春の<ねじ式>のパロディー<バカ式>を書いた長谷邦夫じゃろう 盗作ばかりしておらんでたまにはわれの作品をかいてみなせえ。」「われの作品」とは長谷邦夫のオリジナルなイメージということである。しかし、少女にそのよう言わせたからといって、ここに長谷邦夫の自己批判を読みとることはできない。これはあえていえば、このせりふは長谷邦夫が自分自身の作品が「盗作」だからこそ独自の価値があるのだという自信の表明である。長谷邦夫の作品の特徴は、「批判」ではなく、新たな映像表現の確立にある。
長谷邦夫の作品は、マンガの世界だけではなく、文学も、映画も、そして現実世界も含めて、すべてを引用・盗用で構築している。『マヌケ式』のあとがきで、長谷邦夫は、田中角栄の「五つの大切」をパロディ化して、「五つのバカを大切にしよう」と書いている。それは有名人・有名漫画家・愛読者・編集者、そして国や社会をバカにすることである。簡単にいえば、すべてを「バカ」にして、相対化してしまうということである。この「マンガ世界」は、いままでのマンガ世界を相対化したものであり、異なったレベルに存在している。世界全体をバカにしてパロディ化しているのが長谷邦夫のマンガの世界である。そうなると、もはやそれはパロディの域を超えてしまう。私はそれを「超パロディ化」と名付けたいが、その超パロディ化を可能にしているものが、徹底的な引用・盗用なのである。ジャック・ラカンの基本的な考え方は、その鏡像段階理論を出発点にしているが、この理論を展開していくと必ず、「私とは他者の言語である」というテーゼに行き着く。ウンベルト・エーコがラカンの理論をまとめて、人間を「他者性の囚人」と規定したことも想起される。つまり、われわれは、自我の確立とか、自己同一性というようなことを言ってはいるが、自分のオリジナルな見解と思っているものが、実はマスメディアの言語の引用にすぎないことは、日常的に経験していることである。長谷邦夫の作品は、人間の自己同一性の成立、言語の他者性といった現代思想のキーワードを先取りしたもののように見えてくる。
それでは具体的に長谷邦夫の作品のなかで、引用や盗用がどのようなかたちで行われているか、それにどういう意味があるのかを考えてみる。作品集『アホ式』に収められている「野豚の如き君なりき」では、「明治年代の千葉県」と最初に指示されていて、「野菊が美しく咲き乱れていた」のであるが、実は伊藤左千夫の原作『野菊の如き君なりき』の存在は最初からどうでもいいことになっている。作品のタイトルだけが引用されているといってもいいはずである。つまり、場面にはたちまち「マリリン・モンロー」、「家畜人ヤプー」、「月光仮面」、「寅さん」が登場して、カーニヴァル的な状況が描かれることになる。カーニヴァルの原型はすでに紀元前2000年のバビロニアにあり、そこでは王の衣装を着た一人の囚人が、玉座に着き、最高の食事をし、王の側女たちと交わり、5日後に殺されたという。カーニヴァルではこのように価値の転倒が行われるが、長谷邦夫の作品では、カーニヴァ をも超えているというべきであろう。すべてをパロディ化しているから、既成の価値にはいかなる敬意も払われないからである。さまざまな要素は、相互に優劣の差異がない状態で作品のなかにぶち込まれる。ブリューゲルの有名な作品「カーニヴァルと四旬節の戦い」のなかに、豚も魚も教会もホテルもそしてキリストもブリューゲル自身も、すべて投げ込まれるようにして描かれているのが想起される。また、カーニヴァルの最中に実際に反乱が起きて祭りと現実が混在した状況を描いたルロワラデュリーの『ロマンのカーニヴァル』が想起される。しかし、長谷邦夫の作品にはもはやカーニヴァルとかパロディといった概念では処理しきれないものが存在する。
長谷邦夫の作品においては、彼自身のオリジナルな「絵」を見いだすことができないのも、彼の作品がパロディの領域を超えているからであるといえよう。すべてが、手塚治虫、藤子不二雄、つげ義春、石森章太郎、赤塚不二夫などの「有名漫画」の引用・盗用・合成・総合である。それのマンガを「引用のモザイク」として作り直し、モンタージュしていくのが、長谷邦夫の方法である。バフチンの理論がきわめて有効に応用されているということさえできるかもしれない。それらの「有名マンガ」は徹底的に相対化され、「バカ」にされてしまう。そして、「バカにする」対象は、単に漫画にとどまらない。堀辰雄の高原別荘的文学『風立ちぬ』は『風立たぬ』へと変形され 、その表紙には「分譲別荘地」などの看板が見える。別荘文学・結核療養文学 、表紙の部分ですでにパロディ化{れているのようにも見えるが、長谷邦夫はもちろんそんなことをもくろんでいるのではない。『風立たぬ』はあくまでもタイトルのレヴェルでのもじりにすぎないからである。それは既成の文学に対する徹底的な「無視」である。相手にもせず、ただタイトルだけを借りるという態度である。また、『アッシャー家の崩壊』『ねじの回転』『白鯨』『黒猫』を初めとする世界文学の名作・傑作が、いたるところで「マンガ化」され、長谷邦夫の世界に引き入れられてしまう。それは原作のマンガ化というレヴェルの問題ではない。長谷邦夫は、名作をマンガで表現しようとしているのではない。名作を新たな作品のモンタージュのための前提となる一種の「場」として使っているにすぎない。それが「超パロディ化」にほかならない。
長谷邦夫が作る異様な「場」は、一種のブラックホールであるといえる。その世界に吸い込まれたもとの作品は、その古典的・芸術的価値をすべて捨て去られる。作品だけではない。歴史上の人物である、亡霊のように登場して、子どもたちに「のらくろ」のイメージを描かせる背景として使われているヒトラーと東条英機の姿も、佐藤栄作も、赤旗を振って「はしれはしれコータロー、ついでにハタノを振り落とせ」と歌っている美濃部都知事も、そこで歌われている元警視総監の秦野章も、モザイクの一断片の価値しかない。それらの人物がいかなる価値の差異も認められないまま、長谷邦夫の作品でいうブラックホールに吸い込まれている。このように、彼の作品のパロディの対象は、世界全体であるとさえいうことができる。すべてを吸い込むのが、長谷邦夫の作品の力であり、この力を理解して考察することが、長谷邦夫の作品についての批評になるであろう。
長谷邦夫の作品を読んでまず感じるのは、その想像力の行使の仕方が、通常の記号表現のばあいとはまったく異なっているということである。私はこれが長谷邦夫の作品のブラックホール的力の源泉であると考える。たとえば、すでに言及した『アホ式』に収められている「風立たぬ」について考えてみる。ここでは、柴又の寅さんが、3001年のマリリン・モンローに会うという設定になっている。タイムトンネルをすぎると江戸川になり、「矢切の渡し」の渡し船に乗った寅さんが、おぼれているマジリン・モンローを救助する。月並みなことばを使えば、「奇想天外」であり、「荒唐無稽」である。しかし、ことばを換えていえば、飛躍する想像力の運動である。通常の連想をはるかに超えた、意外なものとの結びつきがいたるところに存する。精神分析載の領域での「連想」と似たものがある。あるいはカーニヴァル的な、多様なものの混在が重層的に作られているのである。
もうひとつ、『バカ式』に収められている「盗作世界名作全集」の「白鯨」を例にして考えてみよう。もちろん、この作品はメルヴィルの『白鯨』を下敷きにしていて、そのパロディということになるのかもしれないが、けっしてそのように単純に考えてしまうだけではすまされない。長谷邦夫のこの作品が、メルヴィルを批判するものでないことは当然である。パロディであるというのではなく、作品それ自体が長谷邦夫の想像力の運動の場になっている。パロディである限りにおいては、この作品は一種のミメーシスもしくは引用の作品であり、『白鯨』がその引用のためのプレテクスト(引用されるテクストのことを引用論ではプレテクストという)になっている。ところがこの作品は、メルヴィルや石森章太郎を前提にして考えることなどを拒否してしまっている。普通の引用論の方法ではほとんど処理しきれないテクストである。
まず第一に、すでに述べたように、長谷邦夫の想像力の展開には特異なものがある。この作品においても、プレテクスト、つまりパロディもしくは引用の対象になっているもとのテクストが一応は『白鯨』であるから、そこにはモービー・ディックと呼ばれる巨大な白い鯨(私は以前に「モービー・ディック」というこの鯨の名前そのもに、何か運動的なもの、急な速度で動いていくものがあると『メルヴィル全集』の月報に書いたことがある)と、それを執念を持って追いかけるエイハブ船長が登場するのは当たり前である。やがてただひとり生き残って物語を伝える役割を演ずる石森章太郎が登場しているのも理解できることである。しかしなぜか、パイプをくわえ、黒いめがねをかけたマッカーサー元帥も姿を見せている。一つの場面と全く無関係な人物や物を不意に登場させるのも、長谷邦夫の方法の一つであるが、しかし、それが本当に「無関係」で「不意」であるかどうかはあいまいなままである。あるいはむしろ、無関係であるのは外見上のことであり、実はどこかで、見えないところでつながっているかもしれないのである。それは、のちに述べるように、エイハブ船長と座頭市が重層的に描かれているところに感じられる。それにしても、さまざまな登場人物や物がでてくる根拠は不明なばあいが多い。「白鯨」では石森章太郎が「まんが家生活にあきがきて、世界の放浪の旅に出て、この北アメリカ マサチューセッツ州ニューベットフォードにたどりついた」という設定である。そこにはアメリカなのになぜか「深夜スナック鯨亭」の看板が見える。しかしこのスナックの場面のあとはすぐにホテルの一室になるから、あるいはこのスナックはホテルもやっているのかもしれない。その部屋には「安保賛成」のビラが貼ってあり、ホテルの係員は佐藤栄作の顔をしている。そこに銛打ちの女とルームメイトになった石森章太郎は、彼女の口利きで捕鯨帆船ビックフォード号の「見張り役」になる。メルヴィルの原作(?)において真のヒーローである隻脚のエイハブ船長は長谷邦夫の作品にも当然描かれるが、彼はエイハブであっても、アメリカ人のエイハブではない。エイハブ船長のイメージが、まずその隻脚と義足の部分のクロースアップで描かれているのを見るとき、読者はその次に描かれているイメージが「座頭市」であるという予測を、ほとんてることができない。エイハブは座頭市だったのである。勝新太郎による「座頭市」のイメージが現れると、われわれはエイハブ船長と座頭市とに、強力な敵に向かってただ一人で立ち向かう人間という共通の要素があることを感じとる。(ついでながら書いておくが、私は勝新太郎の「座頭市シリーズ」をビデオで全部見て、最初のころの作品には何かホモセクシュアルなものを感じた。)私は、エイハブ船長を座頭市として描くことがけっして全面的に恣意的ではないと思う。この二人の人物には、共通なもの、似ている部分が存在する。また座頭市が盲目であり、エイハブ船長が隻脚である いう二人の身体に障害があることも、似ているところかもしれない。長谷邦夫が、この「類似」を契機にして、エイハブ船長と座頭市を結びつけたのかどうかは不確定であるが。エイハブ船長の座頭市への変身は、意外ではあるが同時に完全な「飛躍」ではない。われわれ、はおそらく無意識的にはこの変身を予測していたのである。しかし、このような解釈は、むしろ自然であるかもしれない。長谷邦夫が座頭市を登場させたのは、このような関係とは無縁な発想である可能性があるからである。ただ、解釈する側からは、そのような深読みを可能にさせるものが、彼の作品に存在している。何かを連想させる力が、つねに長谷邦夫の作品のいたるところに潜在しているように思われてならない。
長谷邦夫の作品は、このようにイメージを意外なところで結合し、分離させる。白鯨は座頭市によって仕留められ、キングサイズの「鯨肉缶詰」として甲板に置かれている。このような想像力の行使は、私には、それはアメリカの哲学者パースが構想し、イタリアの記号学者・小説家ウンベルト・エーコが展開していた「無限記号連鎖」(iunlimited semiosis)の概念と似たところがある。パースは次のように考えていた。記号には対象があり、記号がどういう対象を指示しているかはは解釈項によって理解できる。しかし、その解釈項は、実は別の記号であり、その記号をまた解釈しなければならない。このプロセスは無 に継続される。エーコはこのパースの考え方を展開して、解釈には「辞書的解釈」と「百科事典的解釈」があるとした。そして、パースとエーコは、実在する記号表現について、それを解釈していくと、解釈が求められている記号の元来の対象にはなかなか行き着かず、時にはあいまいなものに到達したり、あるいはどこへも到達できずに、「漂流」してしまうことがあるとした。これは『白鯨』を生んだアメリカ的意識構造の現れであるといえるかもしれない。どこへ行き着くかもしれないまま、船を運航させるという行動のパターンが思考にも現れていると解釈できるであろう。百科事典の「関連項目」をつぎつぎに追いかけていくのは、パソコンにインストールした百科事典を持っている者の快楽の一つであるが、エーコは、解釈の作業に潜在的に含まれている「漂流」をむしろ積極的に評価して、そこに「快楽」があるとさえ考えた。長谷邦夫の作品を読んでいると、パース、エーコのいう「無限記号連鎖」が逆に存在しているように感じられる。つまり、メルヴィルの作品を出発点にして、そこから「漂流」が始まり、読者がその漂流に向きあうという状況が生まれてくるように思われる。(エーコに「無限記号連鎖と漂流」というパース論があり、そこでここに述べた辞書的解釈と百科事典的解釈の問題が論じられている。)パース、エーコの理論と方法を知ると、世界のすべてを記号と見立てて論じていく彼らの方法がわかり、それによって記号としての世界についての見方が変わってくるが、長谷邦夫の作品を読むと、マンガというものの世界を見る眼が変わってくる。長谷邦夫のマンガの世界は、すでに存在するマンガと世界全体を自らの場に引き入れてカーニヴァル的にかき混ぜ、パロディ化し、否定しつつ、それによって彼自身のマンガを生み出すという異様な世界である。
このように長谷邦夫の作品は、現代の記号論の立場から読んでも、きわめて面白いものである。そして、その読解は決してたやすいものではない。すでに少 触れておいたように、「風立たぬ」といっても、それが堀辰雄の作品をもじったタイトルであることは、現代の若い世代には必ずしも自明のことではないであろう。また、長谷邦夫の作品には政治家として砂糖栄作がしばしば登場している。美濃部都知事の姿も見える。そうしたイメージは、しだいに日本人の集団記憶から消えつつある。樋口一葉の小説に注釈が必要なように、長谷邦夫の作品も注釈・解説がそろそろ必要になりつつある。しかし、長谷邦夫の作品は、そうした「解釈」のすべてを拒絶するか、あるいは飲み込んでしまうようなような不思議な力を持っている。
(2001年7月1日)

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