宇波彰現代哲学研究所

多種多様な「知」の交流を通じ文化創造との実践的な橋渡しをめざし、新たな学問分野の開拓を行う研究機関のブログです。

「かけがえのない個人」というイデオロギー

サラリーマンをやっている友人がこんなことを言っていた。「サラリーマンと武士ってのは似ている」。彼は何も、サラリーマンには美しさがあるとか、崇高な存在であるとか、そうしたことを主張したいわけではない。彼の言い分は以下の通りだ。サラリーマンも武士も割にあわない。割にあわないことこの上ない。しかしながら、この割のあわなさ、不条理を、「これこそがまともな人間のあるべき姿だ」という信念に基づいて、なかったことにしながら生きている。いや全くやっていられない、という愚痴である。
この割のあわなさをなかったことにしてくれる信念を、アルチュセールがいう「想像的なもの」「イデオロギー」と見なすことができる。もう放送は終了してしまったが、テレビ番組『プロジェクトX』の人気は「想像的なもの」としての役割を果たしたところにある。オジサンは中島みゆきによるテーマソングを聞いただけでグッとくるのである。この「想像的なもの」という言葉は、当然のことながらラカンの「想像的関係」「鏡像段階論」「小文字の他者」といった精神分析の概念を踏まえている。
 想像的なもの=鏡像は、自己の十全な姿を先取りして示してくれる他者である。幼児期においては鏡に映った自分の像が、ままならない身体、寸断された身体という不快なイメージから自己を救い上げてくれる。時を経て他者が十全性を示す役割を果たし、それが自我を定立させる。ラカンが行ったことは、「デカルト的自我の解体」である。デカルト以来の、我を確認する我さえいれば自我は確立されるという西洋哲学の伝統の解体である。スタンド・アローンの自我というものは存在しえず、十全性を先立って示してくれる他者が必要なのである。それが特定の個人なのか、イデオロギー的表象なのかは問わず。
吉本隆明はその著書『カール・マルクス』(光文社文庫)の中で、フォイエルバッハの宗教批判について簡潔な解説を試みている。人間は自分の本質を投げ出し、その投げ出した本質を再び自分の中に取り入れる。その投げ出した=疎外した本質が神として第一義のものとして主人となり、その大元である人間は第二義のものとなり従属するのだという。吉本によれば、マルクスはこのフォイエルバッハの宗教批判に基づき、国家や法というものを分析した。市民社会に生きる人間が、自分の本質を外に投げ出して法や国家を形作る。この法や国家を吉本は同書の中で「幻想的なもの」と表現している。法や国家はマルクス主義の言語でいわゆる「上部構造」である。
ラカンやアルチュセールを踏まえて吉本の表現を振り返れば、投げ出される=疎外されるものとしてある「人間の本質」は、人間の本質であるべきと考えられるもの、人間の本質であれかしと考えられるもの、と厳密に言い直すことができるだろう。ここにきて「幻想的なもの」は「想像的なもの」とつながる。
アルチュセールはイデオロギー、イデオロギー的表象、実践の三段階に分けて思考している。アルチュセールは宗教を例に出して、イデオロギー的表象は神に対する諸観念、実践はミサに行くなどの行動としている。では、最初のイデオロギーとはどういうものだろう。イデオロギーは物質的な存在を持つとアルチュセールは説く。また、イデオロギー的表象について、この表象がイデオロギーを諸観念に還元するという表現が見られる。こうしたことから推測するに、イデオロギー(物質)→イデオロギー的表象(精神)→実践(物質)という図式があるようだ。イデオロギーは物質的要請によってまず動き出す。上部構造は下部構造に対して相対的自立性を持っているとか、下部構造による決定は最終審級における決定である、という点ばかりが強調されるアルチュセールの理論だが、従来の唯物論中心のマルクス主義に対しても目配せを行い、慎重に論を展開しているようだ。
文頭で働いている人、サラリーマンの友人の言葉を引き合いに出したが、次は働いていない人にご登場いただこう。彼は、大学卒業後、いわゆるニートをしながら法科大学院の試験を受け続けた。二年間色々な学校を受け続けたが、結局受験勉強に対して集中力を発揮することはできなかったらしい。彼は受験のたびに「手応え良かった」と言い続けたが、彼を知る者たちは「戦いは彼の手応えの遥か上空で繰り広げられていることになぜ気づかないのだろう」と陰で言っていた。今度は専門学校に入り(専門学校は法科大学院と違って試験無しで入れる)、現在は会計士を目指している。司法試験どころか、法科大学院の入学試験も通らない人間が会計士試験をどうにかできるはずはないのだが、「今は税理士に人が流れていて会計士になりやすい」とかなんとか、都合のいい情報だけを取捨選択して夢想に近い思考を抱いているらしい。趣味のことで言えば、それについて語り始めればあまりの情熱と知識量に人を呆然とさせるような、いわゆるオタク的愛情を彼は持ち合わせていない。彼のジャンルというべきものはない。しかし、テレビCMや映画を見て、これはセンスがない、なっていないと批判するのは得意である。法科大学院を目指している間、「俺、広告業界とか向いてるかも」と思い立ったこともあったが、広告業界などは当然資本主義の牙城にしてエリートの集まるところ、渡りがつくはずもない。
どうやら、彼の根底にあるのは「自分は特別なセンスを持っているので人より少ない努力で人より多いリターンを得てしかるべきだ」という夢想らしい。その夢想に基づいた、スタイリッシュに多くを得る仕事のイメージ(実際にどうであるかは別として)というのが、弁護士だったり広告業界関係者だったり会計士だったりするわけだ。
こうした彼の夢想の温床となっているのは何だろう。それは、現代日本の社会や教育によって保証されている、「人間はそれぞれ特別な存在である」という考えに他ならない。この「かけがえのない自己」イデオロギーの延長に、彼の「自分は特別なセンスの持ち主」という発想がある。
彼は、その増加が懸念されているニートとかワーキングプアという存在になるであろうことはほぼ間違いないが、そうした社会的弱者を並べてみて、さて階級意識などという大仰なものが生まれるだろうか。生まれるはずがない。彼らの意識は「階級」ではなく「かけがえのない個人」を志向しているのだから。横に並ぶ、客観的な指標や肩書きを共有する者を見ても馬鹿にするだけで、「自分はこいつらとは違う」「そのうちすげえことしてやる」という具体性の全くないイメージを新たにするだけである。連帯して変革のためのアクションを起こすなどということは絶対ありえないし、連帯感すら生まれない。
ルカーチは『歴史と階級意識』の中で、階級意識は自然発生しえず、前衛たる党がそれを注入しなければならないと説いた。この場合、階級意識の以前に想定されているのは空白である。しかし現代日本では、空白ではなく「かけがえのない自己、個人」イデオロギーがすでに教育や社会によって注入されている。彼らがそのポジションを獲得したのは、過程を見れば明らかなように、望んでのことだ。努力を忌避するための努力をした結果である。主体に欲望を抱かせ、望んである種の行動に駆り立てる、それがイデオロギーの特徴である。彼らの持っているのが空白ではなくイデオロギーであることの証左といえる。ゆえに、もし彼らに批判的知性を以って社会に対するアクションを起こすことを期待するなら、それはイデオロギー闘争の様相を呈する。
しかし、ここで批判的知性を持つと自負するものは、自らに問いかけなければならない。もし彼らに対して批判的知性の働きかけを行使するなら、それは「かけがえのない個人」イデオロギーよりも優れたイデオロギーを自分が所有しているという前提、彼らはそちらのイデオロギーを持つべきだという前提、二つの前提に基づいている。
あるイデオロギーが他方より優れているという思想、それを他者に強要しようとする行動、それこそが地上に絶えぬ全ての争いの源泉ではないのか。他者が向かうべき方向を他者よりも熟知しているという傲慢、それこそが暴力の萌芽ではないのか。
自らが揮う暴力を最後の暴力として理想を実現するというボルシェヴィズムが生んだ様々な悲劇、イデオロギー闘争に端を発する数限りない紛争、そうした幾多の悲劇を経た私たちがするべきことは、もう一度暴力を肯定することではあるまい。レヴィナスの説く倫理に見られるような、相同性を完全に欠いた存在として、計量することが絶対に不可能な無限として他者と向き合うこと、それは哲学に特有の極論で、理論としてはともかく実践には不向きかも知れない。しかし、そうした倫理と、他者への働きかけとのせめぎあいを引き受けること、それこそが現代を生きる私たちの仕事ではないだろうか。
さて、稚拙な論を偉そうに展開している私も、ニートやワーキングプアという問題は他人事ではない。アルチュセールによれば、「高等教育を受けたイデオロギーの専門家」に待ち受けているのは「半失業的知識人」という未来らしい。なかなか愉快痛快で絶望的な未来である。(紙幅の関係により参考文献などを示した脚注は省略した)


(専修大学文学研究科 哲学専攻 修士課程)

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