宇波彰現代哲学研究所

多種多様な「知」の交流を通じ文化創造との実践的な橋渡しをめざし、新たな学問分野の開拓を行う研究機関のブログです。

象徴空間論

日本で「空間」ということばがいつごろから使われていたのか、まだ調べていないが、1906年に刊行された上田萬年、松井簡治編の『大日本国語辞書』には、「空間」には二つの意味があるとしている。ひとつは「あきてある所、物の無き場所、すきま」であり、もうひとつは哲学の用語として、「一般無限にして、物体の延長の成立しうべきもの、上下・四方・遠近・長短などによりて表わさる」と説明してある。つまり、「空間」とは一般的な用語としては、「物がないところ、すきま」にほかならなかった。ところが、このような空間についての定義は、およそ百年近くたった現在の国語辞典にも受け継がれているように思われる。たとえば、1999年版の『新明解国語辞典』では、「空間」の第一の意味は「そこを満たしている固体や液体が何も無い場所(ひろがり)」であり、第二の意味は「上下・左右・前後の三次元にわたる無限の広がり」である。表現は少し変わってはいるが、『新明解国語辞典』の記述は『大日本国語辞書』の記述と本質的には違っていない。「空間」とは、「空いているところ」であり、「何もない場所」なのである。ここにでてくる「場所」ということばも、改めて考える必要があるが、それについてはのちに述べる。
空間論の古典の一つとされているボルノウの『人間と空間』の訳者たちによる注には、「時間に対する時刻、刻(とき)のような日本語は、空間にたいしては見あたらない」と書かれている(p318)。しかし、内田繁は、『インテリアと日本人』のなかで、日本語には古来「ウツ」ということばがあるとする。「うつろ」ということばにも、なんとなく空虚な響きがあり、辞書で引いてみると、「うつおぎ」は中空の木のことであり、「うつおぶね」は中をくりぬいた、カヌーのような舟を指す。「ウツワ」もまた中が空虚な容器のことである。そして内田繁は、「ウツワは中がカラッポであるがゆえに、何かによって満たされる」と書いている(P96)。ここには象徴空間論にとって重要な示唆がある。たとえば食器というウツワは、食べ物を入れることによって、満たされる。「満たされる」という行為によって、ウツワは食べ物を入れるという機能を持つようになる。それと同じようにして、「空間」も何かによって満たされることによって、機能もしくは意味を持つようになるのではないだろうか。
一般に、空間には二種類あるというのが、通常の空間論の前提である。一つはデカルト的空間であり、あらゆる方向に均質な、物理学的・数学的・抽象的空間である。これに対して、アリストテレス的空間は、前後・左右・上下などで均質ではなく、人間の意識にとっての空間である。ボルノウは、『人間と空間の』の冒頭で、哲学がいままで時間についてはさまざまな考察をしてきたのに対して、空間の問題はなおざりにされてきたとして、次のように批判する。「人間の現存在の空間的構えという問題、あるいはもっとわかりやすくいえば、具体的な、つまり人間によって体験され、生きられている空間という問題はまったく表にたたないできた」(p13)。このような空間は、中がカラッポであるデカルト的空間とは対立する。そのウツワを何かで満たすことによって、それはアリストテレス的空間に変質する。
象徴空間とは、デカルト的な空間に対立するこのような「生きられている空間」がシンボル化されたものであると規定できる。ここで、シンボル化ということについて、あらかじめ規定しておくことが必要であろう。ラカンの概念では、一般に「象徴界」と訳されている「ル・サンボリック」は、ほとんど言語の領域のことであり、言語によって規定されたもののことである。「象徴界」という訳語に引きずられて、迷うケースがしばしば見られるが、これはむしろ「記号界」という訳語にしたほうがいいと考えられる。実際に、アメリカ文学者の巽孝之はその著作『メタファーはなぜ殺される』のなかでは、 symbolicに記号象徴という訳語を用いている。このように考えるとき、象徴空間とは、記号化・言語化された空間のことであるといえる。
このように言語化・記号化された空間は、身体感覚によって経験された、アリストテレス的・ボルノウ的な空間の存在をその前提として必要とするであろう。ロバート・フラハティによるカナダのイヌイットの生活のドキュメンタリー映画「極北の怪異」(1922)には、その主人公であるナヌークという男が、すべてが真っ白な雪と氷の世界のなかで、自分の位置を確定し、仲間たちをつれて出発するシーンがある。おそらくナヌークは、普通の人には感知できないような、微小な記号を自然のなかに見いだし、それを頼りにして方向を決定していたに違いない。これは、身体的・感覚的な次元で世界を区分けしていく行動である。市川浩の概念を使うならば、「身分け構造」である。身体が対象世界を区別し、差異化いくのである。しかし、この段階では空間はまだ十分に言語化・記号化されているのではない。
空間の言語化・記号化は、空間を何らかの言語・記号によって表現することから始まる。ボルノウの引用によると、カッシーラーは、アメリカ先住民族のズニ族について、「北には空気が、南には火が、東には土が、西には水が配置されている」と書いている。中国の四神思想もほぼ同じように方向に色と動物を配当している。玄武・白虎・青龍・朱雀がそれぞれ方向と結びつく。これは今日でも相撲の土俵の黒房・青房などに名残をとどめている記号表現であり、それによって空間が差異化されている。
ここで、先に引用した内田繁の「ウツワは中がカラッポであるがゆえに、何かによって満たされなければならない」という見解に戻らなければならない。ここ言われている「ウツワ」を、デカルト的な空間であると仮定するならば、そこを満たす「何か」を言語・記号であると考えることができるのではないだろうか。何もない空虚な空間に、名を与え、色を付け、動物や植物を配当することによって、その空間には「意味」が与えられる。それはまさに「空間のシンボル化」である。
そして、たとえば空間のある方向にあるものを「青」という色で記号化すると、今度はそのように記号化された空間が、逆に人間に対して影響力を持つようになる。アフォーダンスという概念が、対象が意識・言語を持つと考えることであるとするならば、そのようにして記号化された空間が「アフォーダンス」として機能するということになる。空間ということばは今日では、たとえば都市空間・居住空間・家族空間などというように使われつつあるが、都市空間を記号化していくのは人間の仕事である。道路に標識を付け、屋根のかたちや瓦の色をある程度まで統一したりするのは、それによって作られる空間が、人間に対してアフォーダンスとして機能することが求められるからである。空間は元来は空虚であり「カラッポ」である。そこに何かを入れるということは、その空間を特別な空間として、意味を持たせることである。そして、人間が意味をもたせたその空間が、それ自体の言語を持つようになり、人間に対して語りかけてくる。それがアフォーダンスということである。われわれは建築物を作る。それは、新たな空間を作るということであるが、その空間は生きている空間であり、アフォーダンスの機能を持っている空間である。
ボルノウはプルーストの『失われた時を求めて』で描かれている二つの空間の対極性について論じている。それは、「スワンの方」と「ゲルマントの方」である。この二つの空間は、異質なものとして主人公によって意識されている。それは、主人公の身体的・感覚的な差異化を基礎にして、「スワン」「ゲルマント」という言語記号によって差異化さえているからにほかならない。この二つの固有名詞によって、二つの空間は異なった意味を持ち、異なったアフォーダンスを提示するのである。
 
参考文献
ボルノウ、大塚恵一、池川健司、中村浩平訳『人間と空間』(せりか書房、1988)
内田繁『インテリアと日本人』(晶文社、1999)
巽孝之『メタファーはなぜ殺される』(松柏社、2000)

(付記。2000年秋に、東京三田の建築会館で行われた日本建築学会主催の「空間」に関するシンポジウムにおいて、フランスの地理学者オーギュスタン・ベルク氏と私が講演し、討議する機会があった。本稿はそのときに同学会の機関誌「建築雑誌」に掲載された拙稿に多少の訂正をしたものである。特にラカンの三領域論については、その当時の私の理解が浅かったので、その部分は改稿してある。なお、「象徴空間」(espace symbolique)という用語は、ブルデューの『実践的理性』にも見出すことができるが、ブルデューのばあいは、ここで論じているのとは異なる。それについては、このブログにアップしてある、ブルデューの『結婚戦略』についての拙稿を参照していただきたい。2008年4月16日)

PageTop

コメント


管理者にだけ表示を許可する