宇波彰現代哲学研究所

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泉鏡花の記号的世界(1)

数年前に岩波書店から刊行された『鏡花小説・戯曲選』全12巻は、伝奇篇・怪異篇・芸能篇・風俗篇・懐旧編・戯曲篇の六つの部分に分類されている。戯曲は文学の形式であり、他の五つは文学の内容についての分類であるから、この分類の仕方はかならずしも論理的とは言えず、戯曲篇も解体して五つの区分のなかに入れることもできたのではないかと思う。しかし、たとえそうしてみたところで、泉鏡花の数多くそして多様な作品を、伝奇・怪奇・芸能・風俗・懐旧の五つのジャンルに厳密に区分してしまうことは困難であろう。泉鏡花の作品には、このような分類を拒否する要素があるからである。この選集の表紙に付された帯には、《鏡花文学解明の手がかりに----ジャンル別編集》というコピーがある。ジャンル別にすることは、泉鏡花の作品に接近する手がかりになるのだろうか。区別をして見えるようになったものが、対象の真の姿なのではない。区別は必要ではあるが、区別をして終りにすることはできない。
また、泉鏡花の作品のなかには、すでに注釈がなければ読解が困難なものが増えつつある。作品と同時代の社会・風俗・言語についての知識が欠けていると、しばしば意味が不明になる。さらに、泉鏡花のテクストのなかに夥しく引用されている、小野小町やら、「東海道中膝栗毛」やら、俚諺、川柳のたぐいまでのプレテクストを、現代の読者はもはや充分に読み取ることはできない。このように、泉鏡花の作品は次第にわれわれにとってわかりにくいものになりつつある。ここでかりに《記号》という用語を使うことが許されるとするならば、泉鏡花の記号的世界はすでに何らかの解読のためのキーを必要とし始めているのであり、そうだとすれば『鏡花小説・戯曲選』の編集の仕事をしたひとたちが、この世界に伝奇・怪異・芸能・風俗・懐旧といった常識的なジャンル分けを設定したのも、この迷宮的世界に分け入る道を求めようとしてのことであったことが理解される。
しかも、すでに述べたように、このような分離はあくまでも人工的なものであり、あとから付け加えられたものであって、読者はその境界付けによって制約されてはならない。自分自身の眼で見ることができるまでの、暫定的な境界付けであると考えなくてはならないはずである。
このように人工的に区別されたいくつかのジャンルの作品を寄せ集めることによって泉鏡花の文学の世界が構成されると考えるのは誤りである。常識的な理解では、部分の集合によって全体が構成されるが、部分が相互に異質なものであるばあいには、かならずしもそうではない。泉鏡花のそれぞれの作品を全部集めて、それが統一的なひとつの全体になるとは言いにくい。『鏡花小説・戯曲選』の解説の大半を書いている寺田透氏は、長年にわたってバルザックを論じてきたが、バルザックの『人間喜劇』のような統一性は、泉鏡花のばあいには存在しにくいように思われる。泉鏡花の記号的世界のなかで、解読可能なコードを少しずつ見つけ、重なり合い、からみ合っているコードを解きほぐしていくという、地味な作業を積み重ねていくことが必要のように思う。
ところで、泉鏡花の記号的世界とはいったい何のことか。それはまず第一に倫理的な意味を排除した、言語表現の世界のことを意味している。記号論の立場で、機能性と記号性とを区別して考えることがある。文章に関してこの区別を適用してみると、たとえば或る機械の使用説明書の文章は、その機械の動かし方を使用者に伝達するという機能を持っていれば充分であって、その機械の美しさについて書いたりすることは余分なことである。しかし、文学の言語は、こうした機能性とはまったく異なった作用をする。もちろんそれは読者に快楽を与えるという機能を持たなければならないが、そうした機能を生産するものが文学の言語の記号性である。
泉鏡花の文学言語は、この意味で高度の記号性を持ち、その文学世界を記号的世界と呼ぶことができるだろう。このような意味での記号性は、普遍的に存在するものではなく、作品と読者との相互的な関係のなかから成立してくるものである。最近、デザインなどの領域で、しばしばテースト(taste)ということが問題にされるが、それはデザインもまた個人の趣向・意識と深い関係があることが意識され始めてきたからであろう。文学作品の記号性というときも、読者の側の意識を無視したものではありえない。だから極端に言えば、いま論じている泉鏡花の文学言語の記号性は、私にとっての記号性にほかならない。たとえば、泉鏡花の文章に見られる過度の装飾性、形容の多用は、私にとってはそれ自体が記号性を高度に示すものであるが、別の読者にとっては、余分なものに見えるかもしれないのである。
ロラン・バルトが『ことばのざわめき』のなかで、《言語のオートノミー》という言い方をしている。バルトはそれが現在ではなくなってしまったことを批判しているのだが、言語表現の自立は泉鏡花の作品では充分に維持されているように思われる。たとえば、「天守物語」の奇怪な登場人物たちは、それだけで一種のサンクチュアリのようなものを構成しているが、泉鏡花のこうした記号的世界はそれ自体で完結しているものであって、それを他の実在に還元しようとする試みは挫折するだろう。
むしろ問題は、それぞれが孤立しているように見える個々の作品の記号的世界を、どのように相互に連絡するかということである。もちろんそれによってひとつの全体を構成することが目的なのではなく、それぞれの記号的世界を相互に結ぶことによって、共通の解読のキーを見出すことが目標である。そのようなキーが簡単に見出されることはないだろう。しかし、たとえば「草迷宮」でくり返して聞こえてくる、《此処は何処の細道ぢや、天神さまの細道ぢや・・・・》という歌が、「天守物語」のなかでも反復されているといった単純なことを手がかりにして考えていくことができるかもしれない。この共通して存在している歌によって、「草迷宮」と「天守物語」とのあいだにつながりができる。そしてこのつながりは、けっして構造や意味内容のレヴェルでのつながりではなく、むしろ意味内容とはほとんど無関係のまま、われわれの意識のどこかに引っかかっているメロディと歌詞、つまりシニフィアンによるつながりであるように思われる。こうしたシニフィアン的なものによるつながりは、泉鏡花のもろもろの作品を横に結合する、思いがけない契機になっているのではないだろうか。もちろんその可能性が大きいと言うことはできないが、そのような可能性を積み重ねていくことが、泉鏡花の世界に近付くためには必要な手順のように見える。

(つづく)

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