宇波彰現代哲学研究所

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泉鏡花の記号的世界(2)

泉鏡花の多様な作品を横に結び付けるもの、おそらくそれは外見の多様性にもかかわらず泉鏡花の作品の根底にあるもののはずである。それが見出されるという保証はないが、私は泉鏡花の作品のなかで、しばしば絵画と言語表現とが結び合わされて記号化されていることに注目したい。ただし、私がこれから言及するいずれのばあいも、泉鏡花は特定の絵画作品について述べているわけではない。
「風流線」「百」の冒頭に次のような部分がある。《五大夫は去ぬる月、粟生の茶店で古襖の大津絵の、若衆と娘とが抜け出して、土間の床机に並んだのを美しく見た夢の、未だ覚め果てぬ?と疑うた》
ここでは、大津絵という視覚的記号表現と、泉鏡花の文学言語とが二重化している。つい最近も私は上野のデパートで開かれていたささやかな大津絵の展覧会を見たばかりであるが、そこで百万円前後で売りに出されていた大津絵は、元来は民衆の美術であり、「風流線」の舞台となっている時代ならば、誰でもが眼にすることのできるものであったはずである。そういう大津絵のイマージュと作中の人物とを重ねて記号表現しようとするところに、泉鏡花の記号的世界のひとつの特徴がある。或いは、それは非常に重要な特徴なのではないだろうか。
《絵から抜け出てきたような》という言い方があるが、通俗的なこうした表現のなかに思いがけない真実が隠されていることがあるのであって、大津絵の人物と作中の人物とを重ねる泉鏡花の手法をよく検討しなければならない。ここでは、イマージュと言語表現とが同一の存在の分身のようになっている。そしていずれもが、記号表現としてのみ存在するのであって、実在を指示対象として持つことがない。
このように、絵画のイマージュと、言語表現による描写とを重ねることは、表現されたもののレヴェルで言うならば、《分身》が存在することになり、表現行為のレヴェルで言えば《反復表現》(記号論では通常は《冗長性》という用語が使われている)が存在している。泉鏡花の記号的世界の最も大きな特色は、この反復表現の多用である。一般的な理解では、この反復表現は泉鏡花の文学における装飾性と言われているものであるが、たとえ装飾性ということばを使うとしても、私はそれをネガティヴな意味で使うつもりはない。泉鏡花がしばしば絵画に言及するのは、この反復表現=装飾性を追及するためである。
「春昼」の語り手である《散策子》は、《三軒の田舎屋の前を過ぎる間に、十八九のと三十ばかりなのと、機を織る婦人の姿を二人見た》のであるが、それに続けて泉鏡花はこうした女性の姿は《女今川の口絵でなければ、近頃は余り見掛けない》と書いている。「女今川」というのは、元禄のころに刊行された、女性のための絵入りの教訓書のことであるが、ここでも機を織る二人の女性の姿を、江戸時代のイラストと重ね合わせて表現しているのである。
この「春昼」のなかで、語り手である《散策子》が、久野谷の観音堂に参詣するシーンがある。この建物は次のように描写されている。《五段の階、縁の下を、馬が駆け抜けさうに高いけれども、欄干は影も留めない。昔は然こそと思はれた。丹塗の柱、花狭間、梁の波の紺青も、金色の龍も色さみしく、昼の月、茅を漏りて、唐戸に蝶の影さす光景、古き土佐絵の画面に似て、然も名工の筆意に合い、眩ゆからぬが奥床しう、そぞろに尊く懐しい》。ここでも、観音堂のリアルな描写よりも、言語表現の運動が先行し、それを土佐絵が支えるという構造がはっきりと現われている。観音堂の描写ではなく、土佐絵を言語で表現しているとさえ言えるだろう。つまり、記号表現相互の運動が優先しているのであり、私はそこに泉鏡花の記号的世界の大きな特徴があると考えたいのである。
「高野聖」にも、《それ畜生道の地獄の絵を、月夜に映したような怪しの姿》という表現がある。地獄の絵が反映したところに言語表現がある。換言するならば、こういうばあいの泉鏡花の言語表現は、指示対象を持つものであるよりもむしろ、記号表現を二重化したものであり、それによってそれ自体のオートノミーを保有している。
「草迷宮」にも次のような一節がある。《・・・・巨刹の黄昏に、大勢の娘の姿が、遥かに壁に掛った、極彩色の涅槃の絵と、同一状に、一幅の中に縮まつた景色の時、本堂の背後、位牌堂の暗い畳廊下から、一人水際立った妖艶いのが、突きはせず、手毬を袖に抱いたまま、すらすらと出て、卵塔婆を隔てた几帳窓の前を通る、と見ると、最う誰の蔭になつたか人数に紛れて了つた。其だ、此の人は、否、その時と寸分違はぬ・・・・》
ここでも、《極彩色の涅槃の絵》と作品のなかの情景とが重なり合い、渾然としていて、記号が記号を写し、記号が記号を反映するという泉鏡花の文学言語の特徴がよく現われている。
泉鏡花の作品のなかに、時たま変身や分身(ドゥーブル)が見られることも、ここに述べてきた記号の二重化という手法によっていると見ることができるだろう。たとえば、「龍潭譚」では、主人公は斑猫に刺されて美しく変身する。それは虫に刺されてであると同時に、魔(エテ)に憑かれた結果でもあるが、肝心なことはそうした媒介のあり方よりも、むしろ記号的世界のなかの記号的な存在が、この世界のなかで変身するということ、つまり、記号の二重化もしくは多層化である。「夜叉ケ池」でも、晃と学園がドゥーブルとして存在している。
「陽炎座」の登場人物であるお稲は、《今年如月、紅梅に太陽の白き朝、同じ町内、御殿町あたりの或家の門を、内端な、しめやかな葬式に成って出た》お稲ちゃんとそっくりであり、ここにも分身が存在していると見なくてはならない。
また「女仙前記」でも、谷間で老人が出会ったという女、死んだその女から老人があずかったうさぎを欲しいという女は、いずれも雪という名であり(うさぎもまた同じ名前である)、この二つの作品では、死者と生者が分身として存在している。そしてここで注意すべきことは、この二つのばあいには、お稲、雪という名前が重要な役割を演じていることである。名前の同一性が、存在の同一性を保証するという構造になっている。もちろん、雪という名前が白という色を連想させると言うことは可能であるが、ここで肝心なのはむしろシニフィアンとしての《雪》という名前である。これは、《此処は何処の細道ぢや・・・・》という歌が、その意味内容によってではなく、シニフィアンとして、「草迷宮」と「天守物語」とを結び付けているのと似た構造である。

(つづく)

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