宇波彰現代哲学研究所

多種多様な「知」の交流を通じ文化創造との実践的な橋渡しをめざし、新たな学問分野の開拓を行う研究機関のブログです。

泉鏡花の記号的世界(3)

変身、或いは分身といったテーマは、文学が古くから持っているテーマのひとつであり、その解読の仕方も多様であるが、私は泉鏡花のばあいについては、それを記号の二重化、記号の自己増殖、記号の自己反映として把握したいと考える。この考え方によると、たとえば「朱日記」に赤のイマージュが多用されていることにも説明が可能になる。「朱日記」は、バシュラール風に言うことが認められるとするならば、《火のコンプレックス》によって支えられている作品ということになるであろうが、私は火そのものよりも、火の色としての赤または緋という色の側を重視して考えたい。赤い猿の群が動き、赤旗を持ち赤合羽(或いは緋の法衣)を着た坊主が登場する。私には、泉鏡花が「朱日記」という作品それ自体を朱筆か赤インキで書いたのではないかとさえ思える。さらには、この作品は赤い文字で印刷した方がよかったのではなかったかとも思う。この作品で赤という色が支配的なのは、猿が赤いこと、火事の火、坊主の赤い合羽が、相互に反映しているからである。換言するならば、記号が相互に反映することによって重層化されるからである。「朱日記」や「陽炎座」というタイトルそのものに赤いものが含まれている。そして、こうした赤いことばが、作品のなかのさまざまな存在を赤く染めていく。記号が記号を反映し、記号が記号に働きかけるところに、泉鏡花の記号的世界の特徴がある。
このように考えると、「朱日記」などの作品に示されている赤いイマージュの過剰は、もはや《火のコンプレックス》といった概念では説明し切れないものであることが理解されるだろう。泉鏡花、泉鏡太郎というこの作家の名前のなかに含まれている鏡の作用ででもあるかのように、作品のなかのひとつの記号表現は、他の記号表現に映り、増殖していく。
このことは、絵画と言語表現、赤いイマージュだけにとどまらない。すでに指摘されてきたように、泉鏡花の作品には、しばしば溢れ出る水のイマージュがある。しかし、それもまた《水のコンプレックス》であるとして片付けられるものではない。水のイマージュが相互に反映し、増殖していくプロセスの方が重要である。「沼夫人」はまったくの水地獄という感じの世界を描いているが、そこにも次のような記述がある。《薄り路へ被つた水を踏んで、其の濡色へ真白に映って、蹴出し褄の搦んだのが、私と並んで立つた姿・・・・そつくり何時見る、座敷の額の画に覚えのあるやうな有様だった・・・・はてな、夢か知らん・・・・と恍惚となった。ざあざあ、地の底を吹き荒れる風のやうな水の音》。ここでも女の姿は絵画のイマージュの反映であり、それに重なるように、水のイマージュと音が加えられる。水が水を反映して増殖していく世界がある。
このような記号表現の二重化は、《教える》という行為のなかにも現われている。「歌行灯」で、三重が恩地喜多八に舞を教えられるシーンがある。《雑木の森の暗い中で、其の方に教はりました。・・・・舞も、あの、さす手も、ひく手も、唯背後から背中を抱いて下さいますと、私の身体が舞ひました。其れだけより存じません》。
ここでは舞を教える側と教えられる側とが瞬間的に一体化している。したがって、舞という側面に関する限り、恩地喜多八と三重とは、同一の存在の分身として現われることになる。そこでは、舞という同一の記号表現が二人の人間に反映し、二重化している。
情報理論では、反復表現もしくは冗長性は、情報の積みすぎとされることがある。文学や、その他の芸術のジャンルでも、反復表現が装飾性として否定的にとられることがある。しかし、泉鏡花の作品においては、記号の反復表現は、記号の相互的な関係性のなかで成立している。その成立の仕方は、いま流行の用語を使うことが認められるならば、パフォーマンス的になっている。つまり、相互に関係することによって記号表現が作られる。泉鏡花の記号的世界は、さまざまなプレテクストを含んでいるが、それもまた記号の二重性、パフォーマンス性の要素を構成していると言える。そして、一般に泉鏡花の文学言語の装飾性と言われているものが、実はこの言語にとっての本質的な記号表現の相互関係性の現われであることが理解されるだろう。
泉鏡花の記号的世界とは言っても、それが文学にかかわるものである限り、この記号的世界は言語の世界である。しかしこの言語の世界は、そのオートノミーを確立するために、その内部で自己増殖する方法を知っている世界であると言えるだろう。この自己反映、自己増殖が、おのずから装飾的な文学言語を生産した。したがって、装飾性こそが泉鏡花の記号的世界の特徴になる。くり返して述べてきたように、この装飾性はけっして否定的にとられてはならない。泉鏡花の記号的世界は、情報の積みすぎによってのみ成立しているからである。


(付記。本稿は「国文学」1985年6月の泉鏡花特集号に掲載されたものであり、その初出のままである。私の今までの論集に収録されていないので、ここにアップすることにした。同誌には、山口昌男と前田愛の対談も掲載されている。2008年5月15日)

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