宇波彰現代哲学研究所

多種多様な「知」の交流を通じ文化創造との実践的な橋渡しをめざし、新たな学問分野の開拓を行う研究機関のブログです。

万博の終焉/宇波彰

名古屋万博論について

 名古屋万博のような巨大な催しは、国家と大企業の管理の下でのみ可能となる。しかしその実態はなかなか見えてはこない。名古屋万博は(旧)通産省の指導によって計画されたものであり、最初の事務総長は、通産省の審議官の職にあった有能な官僚の天下りであった。トヨタが全面的に支援したのも当然である。国家と大資本に協力したのが、中沢新一などの「知識人」であり、菊竹清訓のような保守的な建築家であった。
 名古屋万博は、まさにアルチュセールのいうイデオロギー的国家装置であり、そこから支配階級の支配的イデオロギーが発信されていた。それは巨大な国家的・大資本的祭典であり、そこに集まってきた人々の顔は、みな同じように見えた。 (2007.11.11)


―・―・―・―・― 以下本文 ―・―・―・―・―


       
       万博の終焉
                     宇波彰

かつては博覧会は訪れる者にとって未知の「情報」を提供する場所であった。アントナン・アルトーは、20世紀演劇に画期的な革新をもたらしたとされる。そして彼の「残酷演劇」の発想はバリ島の芸術に由来する。しかしアルトーはバリ島に実際に行ったのではなかった。岡谷公二は、「シュルレアリストたちと南方」(「ユリイカ」)1988年2月号)で、アルトーが「1931年の植民地博覧会で見て深い感動を受け、その演劇観の上で甚大な影響を蒙った」バリ島の劇と舞踊について論じている。アルトーはバリ島に行かなくても、「博覧会」でバリ島の演劇に接し、その意義を理解したのである。同じようにアンリ・ルソーも博覧会で見た熱帯の植物に魅せられて、その作品にエクゾチックなイメージを与えた。そのような例はほかにもたくさんあるであろう。しかし、現在は未知の世界の情報を得るのに博覧会を必要とはしていない。実施、名古屋の万博を見ても、それを計画し、運営している側に「未知の国も情報を提供しよう」という意志が存在するとは思えなかった。現代の情報は、博覧会経由でなく、マスメディアやインターネットで、もっと正確に、もっと迅速に得ることができる。その意味では博覧会はもはや不要である。実際に、名古屋万博のそれぞれの建物のなかには、たしかにその国の産物・観光などについての情報があり、特産品を「土産」としてう販売したりしているが、海外に旅行する人の多い現代では、その効用は薄れている。北海道の土産を品川駅で売っているが、万博の各国の館にある売店は何となくそのことを想起させた。かっては、万博は訪れたことがない異国の情報を提供する場であったが、時代の変化はそうした機能を万博に求めなくなったのである。実際、人気の高いトヨタ館に行ってみると、そこはトヨタの自動車についての宣伝の場所ではなく、精巧に作られたロボットたちの「パフォーマンス」の舞台であった。円形劇場のように作られた会場でロボットたちが行進しながら音楽を演奏する(本当に演奏しているのではない)。それはきわめて現代的な情景であった。とはいうものの、そこではロボット自体が非常にモダンな美しさを示していてそれを見ているわれわれが新しい時代の到来を実感することはできるが、トヨタ館でトヨタの自動車のことにつて知ることができるわけではない。トヨタの製品の宣伝を万博がするのではない。もっと違ったのが見せられているのである。トヨタの技術が単に自動車を作るだけではなく、ロボットも作ることができ、そのロボットたちをこれからどういう領域で活躍させるかというメッセージがそのショーには込められているように見えた。ある意味ではそれも情報であるのかもしれない。しかし、会場にいる「観客たち」は単純にロボットたちの演技を楽しんでいるように思われた。「情報」が提示されているのではなかった。

名古屋の万博の会場では移動は基本的には徒歩であるが、電気自動車、人力による二人乗りのタクシー(東南アジアのリキシャに少し似ている)、ゴンドラなどが使われている。化石燃料を消費しないで、地球の温暖化を防ごうという意志の表現である。この催しの主体である「2005年日本国際博覧会協会」が発行したパンフレットによると、名古屋の万博のメーンテーマは「自然との調和」である。反対運動があったにもかかわらず、里山をかなり破壊して作られた会場そのものが自然との調和を破っているが、何とか緑の部分を残したいという意識は感じることができる。問題は「自然との調和」というメーンテーマが「理念」として掲げられるだけで、それがどれだけ参加者の意識に浸透していくかということになると、それはまた別の問題だというほかはないであろう。「自然との調和」という理念を嘲笑するかのように、アメリカではハリケーン「カタリーナ」が、日本でも各地に集中豪雨が襲って大きな被害をもたらした。それらの災害が「天災」であるというのなら仕方がないであろうが、どのばあいも人間自身にも責任のある災害であることがしだいにわかってきた。産経新聞(9月6日)の社説は、都市水害をテーマに論じている。それによると、都市の豪雨がこの10年に激しくなったのは、地球温暖化で、海面の温度が上昇し、水蒸気が増えたためにそのエネルギーが蓄えられて台風やハリケーンが巨大になる。他方、大都市ではヒートアイランド現象が進んで、その地域の上昇気流が雷雨・集中豪雨を招くということである。つまり、ニューオーリンズを襲ったハリケーンも東京の下町のマンションを水浸しにした集中豪雨も「自然との調和」を忘れた人間が責任を負うべき部分が大きいのである。名古屋の万博はその「調和」を回復するためにどういう」ことをしたのであろうか。たしかにフランス館に入ると、そこではフランスの観光案内をしているのではなく、ゴミのなかから使えるものを探している少年たちの姿など、世界各地の汚染の状況を伝える映像を巨大なスクリーンに投影している。環境保護を訴える映像と思われる。ただし、わかりやすい説明があるわけでないから、来訪者たちは暗い会場に腰を下ろし、大きな音の音楽を聞きながら茫然としてその映像を眺めているだけであった。彼らは屋外の暑さにすっかり参ってしまい、涼を求めてフランス館の中に入っているようにしか見えなかった。環境が悪化しているという映像を説明もなく流すことが「自然との調和」になるのかどうか疑問である。そこから考えると、およそ万博のようなイヴェントがひとつの「理念」を掲げても、それはたんなることばの上だけの「理念」に終わり、現実はそうした理念をはるかに超えたところで動いているのである。名古屋の万博が「自然との調和」をモットーにしていたそのときに、それを怠った人間にハリケーンや集中豪雨が襲ったのは皮肉なことである。それは「理念」が空虚であることをはっきりと見せつけるできごとであった。

名古屋の万博は、正式には「2005年日本国際博覧会」である。「万国」とか「国際」とはインターナショナルのことである。いままでの「万博」は世界のさまざまな国が集まって博覧会を開いてきたからそういう名称が与えられているのだが、インターナショナルという概念そのものが、いまや危機にある。私はアントニオ・ネグリ、マイケル・ハートが2000年に刊行し、世界各国で大きな話題になった『帝国』のことを念頭に置いているのであるが、今日の国際情勢は「国民国家」の概念をしだいに薄めつつある。もちろん現在でも国家間の紛争はたえることがないが、少なくとも経済の面では「帝国化現象」が進んでいる。また、多くのひとたちが国境を越えて移動しつつある。ネグリ、ハートはこれを「越境の時代」として規定しようとした。「帝国」が現実化しつつあるという彼らの論点には無理なところもあるが、名古屋の万博を見て感じたのは、彼らのいう「帝国」がこの万博で縮小されたかたちで見えているということであった。つまり「国際」もしくは「万国」という概念が急速に色あせているとことが、この万博で感じられたのである。

 名古屋の万博は1500億円の予算で行われた「国家行事」である。したがって、日本政府が指導権を握っているのはいうまでもないことである。この万博の名誉総裁は皇太子であり、事務総長のポストは以前の高級通産官僚が持っていた。(皇太子が来訪するときは、当然のように厳重な警戒と交通規制がされ、来訪者の行動は制限される。)この万博の総合設計は菊竹清訓である。彼の作った有名な建築作品の一つが、東京の両国にある「東京都江戸博物館」である。下駄を履いたような異様に高いこの博物館の下のあたりは、時たま強い風が吹く。建物が高いからである。それは62メートルあるが、設計者によると、かつて存在した江戸城の天守閣の高さと同じにしたからであるという。東京都江戸博物館は、江戸時代の国家権力の記号をまともに再現しているのである。私はかつてその東京都江戸博物館が、江戸時代に民衆をパノプチコン風に監視していた江戸城天守閣の再現であるのは問題だとしてこの建築を批判したことがある。建築家が巨大な建築物の設計を求めるとき、しばしばそれは権力の記号になる。(最近の話題の映画「ヒトラー 最期の12日」にも登場しているナチス・ドイツの建築家シュペーアのことが想起された。)名古屋の万博もまた、日本という富裕で巨大な国家権力が、民衆と外国からの訪問者に権力の大きさを示そうとした国家行事にほかならなかった。1970年の大阪万博は、その国家行事を一種の「祭典」として行いたいという思考が存在していた。しかし今回の名古屋の万博では、「祭典」という傾向も希薄である。ここに述べてきたことをまとめて考え直すと、「万博の終焉」とつぶやくほかはない。

PageTop

コメント


管理者にだけ表示を許可する