宇波彰現代哲学研究所

多種多様な「知」の交流を通じ文化創造との実践的な橋渡しをめざし、新たな学問分野の開拓を行う研究機関のブログです。

13年後

いまから1年前、1995年のことであったが、長野県の諏訪温泉に泊り、次の日に諏訪神社を訪れた。有名な御柱祭はその年には行われなかったが、その舞台になる場所を見たかったからでもある。その近くには、これもまた有名な「万治の石仏」があって、それよりも前に学生たちと見に行ったことがあったが、それも再び見るつもりであった。ところが雨が降り出してきて、石の階段で文字通りのフォールガイとなり、右膝の「皿」を六つに割る大怪我をしてしまった。救急車で病院に運ばれると「重傷ですね」といわれた。なんとか東村山の家まで帰り、近くにある新山の手病院に一ヶ月以上も入院して手術・リハビリをする羽目になった。その病院は、大岡昇平の『武蔵野夫人』でも描かれている、八国山という丘の中腹にある。映画「となりのトトロ」で、母親が入院している「七国山病院」のモデルになった病院でもある。もともとは結核療養所だったが、結核患者が減少して、普通の病院になったと聞いている。病院のひとはみな親切であり、また患者からいかなる贈りものも受け取らない。足が不自由なだけだったから、昼間はゆっくり本を読み、夜は8時消灯なので、イヤフォーンでラジオを聞いているうちに眠りに落ちた。意外な人が見舞いに来てくれたりした。
そのときの、つまり13年前の古傷が今年の3月になって急に痛み出し、一時はほとんど歩けなくなった。整形外科の医師は「変形性膝関節症」だといって、とても痛い注射(ヒアルロン酸)をしてくれたが、そのおかげで膝の痛みはどうにかおさまった。人間にとって「歩く」という運動能力がどれほど重要かが痛感された。また、駅などのエレベーターや、エスカレーター、階段の「手すり」などが、足の不自由な人にとって非常に役立つものであることもよくわかった。
膝の治療をしているときに感じたのは、いわゆる「後期高齢者」の医療費問題の不可解さである。医師も薬剤師も同じような不平をこぼしていた。また、年をとってくると、体が不調になるのは当然であり、医療費が重くのしかることになる。私が週に一度通っていた整形外科医院で、患者であるかなり年をとった女性と受付けの女性とのやりとりを聞くともなしに聞いていると、患者が「今日は先生に診察していただかなくてもいいですから、薬の処方だけ下さい」といっている。受付の係りの女性は「この前お出でになったのが一ヶ月前ですから、今日は診察してもらいなさい」という。二人はしばらく押し問答を繰り返していた。この患者は、「診察」のための費用を払うのを避けたいのである。
後期高齢者の医療費負担が1割だというのは、半分は間違いである。かつてサラリーマンであったような、普通の年金を受け取っている「高齢者」の多くは3割負担である。ラジオやテレビで、よく下調べもしないで物知り顔に高齢者の医療費について語るひとがいる。先日もTBSの「アクセス」という夜10時からのニュース番組で、キャスターが「後期高齢者の医療制度が4月15日から始まりました」といっていた。4月15日から始まったのは年金からの天引きのことである。相手の女性アナウンサーもその誤りを訂正しない。(ついでに書いておくと、この番組にときどき登場する宮台真司の「えらそうな」口のきき方にはどうも反感を覚える。)しかし、こういうことも、自分が「後期高齢者」になったからわかってきたことである。「そのひとの立場にたって」ということがよく言われるが、なかなかそれは難しいことがわかった。ちなみに、私も隣家の「後期高齢者」も4月の年金からの天引きはなかった。(6月にもなかった。)市役所からは、何も連絡がなく、いついくら天引きするのかまったくわからないのである。また、私の膝の痛みを和らげるヒアルロン酸の注射であるが、7回までは保険がきくものの、それ以降は全額自己負担になるという。その注射は一本3000円弱である。そういう制度の存在そのものもわれわれは知らない。だんだんと「情報」が伝えられない時代になりつつある。その上、相手に自分のいうことを伝えようという意識そのものが薄くなりつつあるような気がする。
最近、ある大学の教師をしている友人からメールが届いた。学会の報告の司会をしたが、若手研究者たちの報告に、「原稿の棒読み」が多くなったことを嘆く内容であった。私はときどき放送大学の「講義」を聞く。とても面白いものがある。しかし、なかには「原稿の棒読み」がある。小林秀雄は講演の前に落語を聞いて、どうしたら聴衆を引きつけることができるかを研究したという話がある。例は悪いかもしれないが、ローリングストーンズのミック・ジャガーは(一度その舞台を見たことがある)、リーフェンシュタールの「意志の勝利」を繰り返し見て、ヒトラーの演説から、観衆を熱狂させる方法を学んだという。かなり以前のことだが、大野一雄があるシンポジウムで発言しているのを「見た」ことがある。彼のばあいは「話す」ことがそのまま舞踏であった。
イギリスの哲学者J.L.オースチンの言語遂行論によると、言語には「事実確認的機能」と「行為遂行的機能」がある。相手に向かって話すときは、言語が効果・影響を持つように話さなくてならない。「原稿の棒読み」は、「事実確認的」なレベルでの言語の使用である。この理論は、日常の言語についてだけ有効なのではない。少し見方を変えれば、写真についてもいえるであろう。最近、東京・恵比寿にある東京都写真美術館で開かれた「森山大道展」でそのことを感じた。彼の写真は、見る者に何かを語りかけてくる。つまり、森山大道の写真は、何かの事実や現象を、新聞の報道写真のように「事実確認的」に写したものではない。この美術館のミュージアムショップで入手できる『森山大道論』(淡交社刊)には、多木浩二を初めとする執筆者による森山の写真についての論考が収められている。また公募論文が収められているのもいいことである。なぜ森山大道の写真が面白いかといえば、それは彼の写真が見る者を刺激するからである。  
かつて私の同僚であり、また私に美術についていろいろ教えてくださる人でもあった美術批評家の中山公男さんが、さる2月になくなった。中山さんが口癖のように言っていたのは、「今の日本の美術批評がダメなのは現代日本の美術がダメだからだ」ということであった。批評に値する対象がなければ批評は成り立たないということである。時折学生たちを連れて美術館にいっしょに行く機会があったが、中山さんの眼は、すぐれた美術作品を前にするとキラキラと輝いた。


(付記。本稿は「千年紀文学」2008年5月31日号に掲載された「文化時評」に、かなりの加筆・訂正を行ったものです。いくつかの理由があって、私は千年紀文学の会を退会いたしました。私の時評を読むために、この隔月刊のミニコミを予約講読してくださっている方が何人かいられると聞いていますが、その方々には本当に申しわけありません。そのかわり、これからはこのブログでいろいろ書くことにいたします。2008年7月5日。)

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コメント


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一昨日お会いした者

宇波さま。早速のお手紙有難うございます。昨日、宇波様に私もお手紙を出したばかりです。今日新倉先生とも、電話でお話をしました。宇波様とバスの中で話、その後新宿まで、短い時間でしたがお話できたこと、なんとも偶然とはいえ、楽しい愉快な時間でした。ブログを見て、書き込ませて頂いております。
手紙には色々なものを一緒に送りました。ご笑読いただければ幸いです。
宇波先生の明学での講義日は9月からは何曜日でしょうか。部外者でも、聴講できるならば、時々、お聞きしたいものです。(私は後期、名古屋の大学院での講義が休みですから)

八木幹夫 | URL | 2008年07月08日(Tue)15:40 [EDIT]


なにが知的生活か

田母神論の後編に。渡部昇一の「知的生活のすすめ」はある時期、中学校の管理職に流布されたようで、私は或る校長から本をわたされ、その数ページを読んで唾棄すべきその物言いにウンザリした覚えがあります。まさに、一年に2、3冊しか本を読まないようなアホに限って、こういう本を「知的」と受け止めるのでしょうなあ。昨日(12月17日)は今年のしめくくりで、宇波先生とゆっくりお話したかったのですが、残念。
 このところ、BSで中国の文化大革命の時の「一般人の様子」を特集する番組を見ていて、あのベルリンオリンピックでの映画に映し出されたドイツ民族の「熱狂」を「鏡像」ととらえ、ミメーシスとして主体がイデオロギー的国家的装置へと疎外されていく姿を重ねる思いがしました。あの連合赤軍内部に起こったことが中国では国家規模で起こったのですね。これは他国や過去の話ではなく、この不安と危険は今、確実に日本の無意識下にマグマのように突き上げてきています。ますます、哲学することの大切さを感じる昨今です。

八木幹夫 | URL | 2008年12月18日(Thu)14:31 [EDIT]