宇波彰現代哲学研究所

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魔術的自然 (上)

ジャン・パウルの『宵の明星』のなかには、ドイツ・ロマン主義の特徴的なものが最もはっきりしたかたちで現れているように見える。たとえば、この作品のなかには「インドのエデンの園」という表現を見出すことができる。これは、サイードが批判したようなオリエンタリズムのひとつの表現と見ることもできるかもしれないが、しかしここでは東方を一種のユートピアとして見ようとする意識が働いていると考えることも可能だろう。「インドのエデンの園」は、具体的・現実的な場所ではなく、幻想の領域で構想されたものにほかならない。
そしてこの『宵の明星』においては、いたるところで「法悦の歌」が鳴り響いている。ことばによって書かれた作品でありながら、音楽があまねく存在する。また、エコロジー的という形容では描写しつくすことのできない、緑に満ちた環境世界のなかで、何か芳香を発する物質が偏在しているようにも感じられる。ウィトゲンシュタインが設計した家のように、あらゆる感覚が重なり合って刺激される作品、それがこの『宵の明星』であるように思われる。そして、ジャン・パウルの作品の登場人物と読者が経験するのは、すでに感覚的快楽のレヴェルをはるかに超えたものであり、法悦の境地、恍惚の状態に近付くものである。こうした頂上体験のなかで、たとえばエマーヌエルは死を迎えることになるのであり、したがってエマーヌエルの死には死につきまといがちな暗いものが欠如している。この作品においては、亡霊たちがどたばた騒いでおり、死んだ人間たちがあちこち飛びまわっているのであり、生者の世界と死者の世界の境界は問題とされない。「エマーヌエルの恍惚忘我の境は生をはるかに超えていた」とジャン・パウルは書いている。

この恍惚状態は、登場人物の内面の側だけの作用で生じるものではない。『宵の明星』において特徴的なことは、登場人物が自然の世界から作用を受け、その作用に対して反作用を重ねていくプロセスのなかで、しだいに興奮がたかまっていくところにある。ジャン・パウルは、失神した者たちが経験する、「懐疑的な作用をおよぼす神経の恍惚状態」について語っている。現代人ならば、こうした精神状態はドラッグやスピードによって得られるものであるかもしれない。しかし、ジャン・パウルの作品の登場人物たちは、そのような人工的・機械的な手段を必要としてはいない。彼らは、異常な魔力のようなものを持つ自然のなかで徐々に神経を麻痺させていく。たとえば、旅に出たヴィクトルは、森のなかで次のような体験をする。「視神経が麻痺し、漂う色彩の薄片に先導されながら、彼は暗いドームのような森のなかへ入って行き、彼の心は気高くなり、敬虔な祈りにまで高まった・・・・・・」
ヴィクトルの視神経は、ドーム状の森のなかへ入る前からすでに麻痺してしまい、目の前には色のついた何か薄片のようなものがちらついているのである。「彼を遠くから見ていた者は、彼を狂人と思った」が、しかしヴィクトルは「かき傷をつけた顔を丈の高い、ひんやりとした草に押しつけ、陶酔しながら、春の不死の母の胸にぶらさがった」のである。
いたるところに神経の麻痺があり、恍惚状態があり、限りのない気分の高まり、陶酔がある。おそらくエマーヌエルの臨終のシーンはこうした意識状態の高まりの頂点であり、『宵の明星』それ自体の頂点であると言えよう。ジャン・パウルには、限りなく高いところを目指し、ついに山頂に立って陶酔の状態に入るという感じを与えるものがある。それは、高さや頂点を目指すコンプレックス状のものの表現であるが、そこにはつねにその人物を取りかこむ自然がある。

『宵の明星』をフランス語に訳したのは、『ロマン的魂と夢』の著者であり、『幻視者バルザック』の著者でもあるアルベール・ベガンであった。フランスにおけるドイツ・ロマン派研究の系譜については別に考えなくてはならないであろうが、少なくともペガンの業績を踏まえて書かれたと思われるドイツ・ロマン派文学論のひとつが、マルセル・プリオンの『ロマン派のドイツ』(Marcel Brion、L’Allemagne romantique、Albin Michel、1963)
であろう。全三巻から成るこの大作の第二巻は、ノヴァーリス、ホフマン、ジャン・パウル、アイヒェンドルフを論じている。そしてアルバン・ミッシェル版のペーパーバックの表紙には、C・D・フリードリッヒの「朝日の中の女」の一部が用いられている。
このフリードリッヒの作品のなかの女性はうしろ姿で立っている。そして遠い山の向こう側にある太陽の光を見つめている。太陽それ自体は描かれていず、黄色い筋になった光線が見えるだけであるが、その女性は両手を少しあげて、じっと立ちつくしている。私には、この女性が一種の陶酔状態にあるように思われてならない。
またイギリスの批評家テリー・イーグルトンの新著『美的なもののイデオロギー』(Terry Eagleton、The Ideology of the aesthetic、Basil Blackwell、1990)は 、美的なものと精神的なものとが結びついているだけではなく、さらにそこに政治的なものもわかちがたく接着している近代西欧の意識構造を、カント、ニーチェ、フロイト、アドルノなどの思想とからませて論じた著作のように見えるが、そこにもC・D・フリードリッヒの作品が表紙に使われている。それは「雲海の上の旅人」というタイトルの作品である。この作品においても、「朝日の中の女」と同じように、ステッキを持って雲海の上の山頂に立つ男はうしろ姿しか見せていない。彼は、わき上がる雲の向こう側の高い山を見つめている。この男もまた、「朝日の女」のなかのうしろ姿の女性と同じく、巨大な自然の持つ魔術的な力によって麻痺させられて動けなくなってしまっている。

(続く)

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