宇波彰現代哲学研究所

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魔術的自然 (下)

1989年から1990年にかけてわが国のいくつかの場所で開かれた「ドイツ・ロマン派絵画展」の目録を見てみると、そのときに展示されたフリードリッヒの四点の作品には人間が登場していない。ブリオンとイーグルトンの著作の表紙にフリードリッヒの絵を選んだのが誰であったのかわからないが、彼らの著作が論じている対象には共通のものがあり、そこに似たようなテーマのフリードリッヒの作品が表紙に使われているのは、私にとってきわめて興味のあることである。フリードリッヒの二つの作品は、人間が自然のなかで、いつのまにか自然と同化し、見ている主体と見られている対象との区別がなくなって、その渾然とした状況のなかで陶然状態になっている姿を描いているからである。それはまさにジャン・パウルの『宵の明星』の世界ではないだろうか。

ジャン・パウルとC・D・フリードリッヒは、いずれも18世紀後半に生まれ、19世紀の前半まで活躍したひとである。彼らは、人間と自然とが今日とは非常に異なる関係を持っていた時代に生きていた。この関係は、たとえばトマス・キースの『人間と自然界』(法政大学出版局)に描かれているものよりもはるかに神秘的・呪術的なものであったように思われる。
私が数多いジャン・パウルの作品のなかで、特に『宵の明星』にこだわるのは、ここに述べてきたような人間と自然との関係のなかで、いわゆるロマン主義的自我の別の面が見えてくるからである。一般にロマン主義では超越的なものを求める自我の強烈な存在性が主張される。しかし、ジャン・パウルの『宵の明星』では、自我は自然のなかに埋没し、自然と一体化することによって感覚的に高揚される。死さえも、この一体化のためのひとつの契機にすぎなくなる。

こうした傾向は、本巻に収められたもうひとつの作品『生意気ざかり』においても見出すことができる。ここでも登場人物はたえず移動し、その像はフリードリッヒの「雲海の上の旅人」と重なるし、またつねに旅を続けていた時期のルソーの姿とも重なって見えてくる。それは、「道を求めて出かける以外には何の目あてもないような数日間の旅」にすぎないかもしれない。しかし旅人は、自分と同化し、自分を吸収し、陶酔の状態を与えてくれる自然と出会うのである。たとえばジャン・パウルは次のように書いている。「彼がおのれの最初の一ヴィエルスターを、ヴィーナの山なみと早朝の太陽とを右手に、露にぬれた草原をいっしょに進む虹を左手に見ながら、北東に向かって歩みだしたとき、彼は喜びのあまり両手を東方の音楽のタンバリンよろしく打ちあわせ、すこぶる軽やかに素早く、ひとりでに運ばれて行ったので、ほとんど地を踏む必要もないほどだった!」
山なみと太陽、草原と虹から成るこの世界は、フリードリッヒの絵画の世界である。そこを通りすぎるジャン・パウルの作品の登場人物は、「山なみの上の雲の甘い露をつい飲もうとする眼」を持っている。これはあのステッキを持った、うしろ姿しか見せていない、黒い服の男ではないだろうか。あの男はこちらを向いて自分を主張しようとすることはないははずである。

私はひとりの作家とひとりの画家をあまりにも近付けすぎたかもしれない。しかし二人の芸術家は、いずれも私をどこか別の領域へと移動させる、魔術的な力を持っている。



(付記。このエッセーは、1990年に、図書刊行会刊の『ドイツ・ロマン派全集』第18巻の月報に掲載されたものである。初出のままであり。訂正・加筆は行なっていない。またこれまでの私のどの著作にも収められていない。『ドイツ・ロマン派全集』のこの巻は、ジャン・パウルとクライストの作品を収めている。ジャン・パウルの『宵の明星』などの訳者は岩田行一、クライストのいくつかの作品の訳者は種村季弘である。 
ジャン・パウルの訳者である岩田行一は、私の長いあいだの友人であり、このエッセーも彼の求めに応じて書いた。岩田行一は山下肇先生の指導下に最初はカフカの研究をしていたが、やがてドイツ・ロマン派の文学、さらにはユダヤ系の作家・思想家であるエリアス・カネッティにも関心をいだき、『マラケシュの声』など、いくつかのカネッティの作品の邦訳もしている。
私が法政大学出版局から、ドゥルーズ、ガタリの共著『カフカ』の翻訳を依頼されたとき、私は迷うことなく岩田行一に協力を依頼した。彼は『カフカ』で引用されているカフカのテクストはすべて原文にあたって、自分自身で訳した。この『カフカ』では『審判』は『訴訟』と訳されているが、それも彼の考えに従ったものである。
岩田行一は特異な人物だった。大学を出て銀行員になったが、風呂に入らなかったために、不潔だと言われて銀行を辞め、ドイツ文学に転向した。実家は銀座5丁目にあった「新々飯店」という中華料理店で、私は何度も彼の手になる料理をご馳走になった。夜中に裸で銀座を走りぬけ、「俺は銀座のストリーカー第一号だ」と言っていた。
『カフカ』の校共訳は難航した。ようやく校正刷りが出たが、岩田行一はドイツ語訳によって全部を赤字で埋めた。それをもとに戻すのは大変な作業だった。その前もひとつひとつの訳語で長い時間にわたって話し合いをすることがあったが、共同作業というもののむずかしさを痛感した。
本ができて、私は印税を折半にしようと言ったが、岩田行一は「私はあなたの友人として仕事をしたのであって、印税をもらうわけにはいかない」といって、けんかになった。出版社のひとになかに入ってもらって何とか調停できた。ここにアップした私のエッセーには、このような前史があるのだ。しかしその岩田行一もすでに泉下のひとである。われわれが訳した『カフカ』がすでに16刷になったことを彼に報告しておきたい。2008年7月12日。)

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