宇波彰現代哲学研究所

多種多様な「知」の交流を通じ文化創造との実践的な橋渡しをめざし、新たな学問分野の開拓を行う研究機関のブログです。

装飾としてのジャック・ラカン

ジャック・ラカンの思想のほとんどは、「語られたもの」の記録である「セミネール」を媒介にしてでなければ知ることができない。ラカンは1981年に亡くなっていて、すでに死後17年が経過しているが、そのセミネールの記録のすべてが読めるわけではない。未刊であった『セミネールXIX』の刊行は2008 年の5月ごろとされていたが、何らかの理由で延期された。未刊行のセミネールについては、いわゆる「海賊判」の存在が知られているが、普通の読者が簡単に読める状況ではない。私は最近ある尊敬する友人に勧められてジョアン・コプチェクの『<女>なんていないと想像してごらん』(鈴木英明、中山徹、村山敏勝訳:河出書房新社、2004年)を買ってきて読んだ。私がコプチェクの論文を初めて読んだのは、Janet Bergstrom編の論文集Endless night,cinema and psychoanalysis,parallel histories,University of California Press、1999に収められた論文「泣くという行為、その発明と反演劇性」であった。(この論文は『<女>なんていないと想像してごらん』に収められている。)コプチェクのこの著作では、ラカンの「セミネールXⅢ」も論じられている。しかし、このセミネールも未刊であり、海賊判を探して読むが、インターネットに頼るほかない。研究所のT君が、検索の方法を教えてくれたが、持主と同じように老朽化した私のPCでは、アクセスできない。ラカンは非常にわかりにくい。しかし、ラカンへの関心は次第に高まっている感じもある。向井雅明は「思想」2008年9月号から「ジャック・ラカンの思想変遷」という論文の掲載を始めた。向井雅明のこのラカン論はきわめてわかりやすい文章で書かれていて有難い。(もちろん疑問の点がないわけではないが、連載が終った段階でコメントしたいと思っている。)2007年に刊行された立木康介の『精神分析と現実界』(人文書院)も、ラカンに関心を持つひとたちのあいだでは高い評価がされている。それは立木康介がラカンにまともにぶつかっているからである。先月のこのブログでアップした「無反応の時代」で、私は岩波書店の「無反応」を批判したが、それと同時に大澤真幸の言説に対する悪口も書いたつもりであった。実際に私はあのブログの文章を読んだひとたちのうちの数人から「大澤さんは本当にそう思っていたのでしょうか」と質ねられた。それは私の知るところではないが、ふくろうが「飛ぶ」のと「鳴く」のでは大違いである。ミネルヴァ書店の一面広告を最近の新聞で見たが、そこでもヘーゲルのことばが引用されていた。その大澤真幸に『逆説の民主主義』(角川ONEテーマ21、2008)という新書版の著作がある。そのなかで大澤真幸は、ラカンの「セミネールVI」に言及している(P.51)。このセミネールは、「ハムレット」を論じたもので、「ハムレットの欲望は、母のガートルードの欲望」であるというテーゼを展開している。ラカンのセミネールのなかでも、私が特に注目しているもののひとつである。(このブログにしばらく前にアップした拙稿「二つの論文の行方」で論じた二つの論文のうち、A・B両氏によって「ボツ」にされた「ラカンの記号空間」は、ラカンのこのハムレット論も重要な材料としている。) しかし大澤真幸はラカンのこのハムレット論の中心からかなりずれた(無関係ではないが)「節約」という論点でラカンに言及する。ラカンは「節約」がマルクス主義経済学で見逃されてきた概念だと指摘しているが、大澤真幸はそのことに限ってラカンを援用している。ラカンを引いてくる必要がどこにあるのか。「装飾としてのラカン」という本稿のタイトルはそのことを言っている。また大澤真幸はラカンのこのセミネールを英訳から引用しているが、実際にはそれは原文の後半を訳したものに過ぎず、しかも重要な部分に欠落がある。京都大学には原文を収めた「オルニカル?」のバックナンバーがあるはずである。大澤真幸はラカンの専門家ではないから、そこまで求めるのは酷であろうが、以前に感じたことで、まだ書いていない「おはなし」を記しておきたい。ラカンの三領域論は、アメリカの哲学者C.S.パースの記号論とつながっていると考えるアメリカの研究者がいる。そうでなくても私はずっと以前からパースに関心を持っていて、1980年代から刊行され始めた年代順のパース著作集(「全集」ではない!)を買い続けているが、この著作集の完成は21世紀の半ばごろになるから、私がその全巻の完成を見ることは不可能である。しかしパースに多少の関心を持つ者ならば、この著作集と少なくとも二巻から成る論文集を手元に置いておかなくてはならない。一昨年に雑誌「大航海」がパース特集号を組んだとき、私がパースに関心を持っていることを知っていたらしい編集長は、私にも論文を依頼してきた。雑誌が発行されて送られてきたので、主なものに眼を通したが、前田英樹の論文がパースの翻訳だけを使って書かれていることを知ってビックリした。前田英樹は丸山圭三郎に師事した優秀な言語学者であり、優れた映画論もある。言語学を専門とする前田英樹がパース論を書くときに翻訳のテクストだけですませるということに、私はどうも納得できない。立教大学にパースの著作集がないわけがないではないか。もっとも最近のアカデミシャンの著作や論文を読むと、読んでもいない著作を参考文献として並べているばかりか、「これについては何々を参照せよ」と偉そうに書いているケースが気になる。「参照せよ」というのは、おそらく cf.の訳語であろうが、「参照せよ!」という命令調は「失礼」ではないかと私は思う。 9月上旬の晴れた日に、横須賀市立美術館に出かけて「ライオネル・ファイニンガー展」を観た。その催しに関連して考えたことがあるので次回に書くことにする。(2008年9月16日)

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