宇波彰現代哲学研究所

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日本の「ラディカル派」の非正規労働の問題に対するあまりの反応の鈍さ 前編

(本稿は昨年9月「社会理論学会」での報告の論旨を一部加筆してまとめたものである。同会の『社会理論研究』第9号2008年に掲載予定であり、同編集部の了解にもとに転載させていただいた。)

昨年9月社会理論学会で「イタリアにおける非物質的労働の議論-フォーディズムからポストフォーディズムへ」というタイトルの報告をおこなったが、それは単にネグリ等のイタリアにおける非物質的労働の議論の紹介をするにとどまらず、その議論が日本で苛烈な形で常態化している「非正規労働」(「ワーキングプアー」に総称される派遣労働(とくに日雇い派遣)、無保障の非正規雇用)の事態に対する示唆的視点を与えられるのかを探ることに含意があった。
私の報告は、ネオリベラリズム(注:私はこれを市場原理に基づいた「自己責任」と「個人成果主義」を行動原理とする風潮と定義する)が席巻する今日の状況にあってSergio Bolognaセルジオ・ボローニャ(注:プレカリエタの状況に抗する専門誌『Posseポッセ』の主要論客にして労働問題の専門家)やEnzo Rullaniエンツォ・ルラーニ(注:ヴェネチア大学の企業経営戦略の教授)等の自営労働lavoro autonomo論の労働主体の能動性(活力)に注目してネオリベラリズム-非正規労働の常態化に対抗しうる手段を見出すことに最大の眼目があった。彼らはイタリアのオペライスタoperaistaの「(賃)労働の拒否」と賃労働に縛られない労働の自律性(「自律的労働lavoro autonomo」)という労働観(思想的潮流)を、ハート・ネグリの『〈帝国〉』に見られるような「今日の資本主義の変容とそれに伴う労働の変容は基本的に不可逆的傾向、つまり押しとどめることのできない傾向」(もちろんその傾向を構造的な問題として批判している)という認識と結びつけて独自の「自営労働」論を展開する。この傾向とは、私なりに要約すれば「今日の資本主義の変容の要因として、企業の短期的収益追求による、資本回転率の加速化と買収・合併を伴う再編成、「情報革命」による生産(事務)過程における「モジュール化」-水平分業・垂直分業が基本的に指摘できる。それに伴い生産(事務)過程はますます外注・下請け化され、雇用(労働)は非正規(労働)化されている」(「分断状況を超えていくために」アソシエ21ニューズレター2007年8月号拙稿より)傾向を指している。ただ、彼らはその傾向を単に否定的ではなく「情報革命」(ネットワーク化)に見られるような「脱テリトリー化」(リゾーム状態)の展開(状況)を両義的契機として捉え、それを労働主体の能動的契機(可能性)にいかに転化しうるのか、その中軸として「非物質的労働」の概念を据えているところに、いわゆる「ネオ・オペライスタ」共通の問題意識がある。
私にも多分にそういう認識があって、したがって、ネオリラリズムの跋扈する状況に対して「被抑圧者」を、被害者意識に充ちたルサンチマンとして、あるいはどこかの政党のように自分たちを正義の側に常に置くような二項対立的図式(正義-非正義)に基づきその被害者として仕立てるのではなく、逆にこの不可逆的状況のもとで、その中から労働主体の能動的契機をいかに見出していくのか、という思いがある。この方が、楽天的かもしれないが、大体において楽しいということも動機である。この点では、イタリアは日本とは政治的・社会的風土がかなり違うのか、楽天的な面はありながらも、イタリアの「非物質的労働」の議論は社会をポジティブに変革する契機(構想力)を孕んでいる。「もっともこれらのポジティブな特徴は、逆説的にもネガティブな展開と表裏一体であるのだが…」(ハート・ネグリ『マルチチュード』より)。そうした発想に基づいて、ともかくボローニャとルラーニの議論を取り上げたのだが、それらは従来の「サヨク」の認識パラダイムを「逸脱」してかなり大胆であり、古典的な「サヨク」論者の批判をモロに受ける面も持ち合わせている。
ハート・ネグリは「非物質的労働」に代表される現在の労働の特質として「柔軟性」「可動性」「不安定性」の三つの特徴を挙げるが、ボローニャとルラーニにあっても共通してこの認識はあり、今日では存在そのものが不安定であるという両義的認識に立脚してそれを逆手にとってプレカリエタに抗する戦略を現に構想している。ニューエコノミーに対してボローニャは「ニューエコノミーは、労働に対して大きな全般的陰謀であるかのような、左翼が口にする単なる「反革命」などではなかった。逆にマルクスがこの用語に付与した意味で真の資本主義革命で、前の時代とは比較にならないほどの方法で資源を活性化させた大革命である。ただ「失われた」ものだけを生産するモデルとしてポストフォーディズムを捉える見方は、間違っている。この見方だと、状況を回復するために必然的に規制の法律、法制的手段、公的管理の介入(例えば生存最低所得の導入)に訴えることになる」(ボローニャ)という評価を与える。ここでは、ニューエコノミーの登場は労働主体の自由な労働選択を可能にしているとすら捉えられる。ルラーニは、第二世代の自営労働lavoro autonomo di seconda generazione(認知的労働lavoro cognitivo、対人(福祉等)サービス労働)に対して次のような見方をする。「この契約の形式の実行(注:どのタイプの労働を契約(選択)するかという問題)は、ある人にとっては、社会的弱さと不安定性の形式として、他の人にとっては、確かに、労働市場における自分の力、自分の能力、自分の時間・お金の処分が自由にできる顕著な徴となる。主体に関するこうしたカテゴリーに対して、自律性の意味の特異性を強調するために、[自己の選択に基づいて]種々の仕事を掛け持ちする非正規(雇用)労働者lavoratori parasubordinatiは「第二世代の自営労働者lavoratori autonomi」と呼ばれてきた」(ルラーニ)というように、第二世代の自営労働(とりわけ認知的労働lavoro cognitivo)を「労働市場における自分の力、自分の能力、自分の時間・お金の処分が自由にできる顕著な徴」として捉え、労働市場における労働主体の自由な(柔軟な)選択の可能性を強調する。同時に「これまでの就労上の安定性の条件は変容し、労働者に対してより不安定性を有するポスト(職)を放置することになるが、その一方で状況次第では、以前は予期しなかったイニシャティブの機会と自律性の空間をもたらすことになる。この二重性が「固定ポスト(職)」の終焉に伴い、終身契約[正規雇用]労働は、単なる労働の社会società del lavoroではなく、「諸労働から成る社会società dei lavori」(労働は一律的規準でもはや定義されず、多様である)と呼ばれるものによって特徴づけられる」(ルラーニ)というように、「固定ポスト(職)」の終焉に伴い、終身契約[正規雇用]労働だけが唯一の有利な労働選択の形態ではないことを強調する。これらのポジティブな認識は共通して認知的労働の主導的役割の認識と相俟っている。また、ルラーニの表現を借りれば、「プレカリエタとはイタリアがDNAで持ち合わせているものである。400万の企業。家族3人の企業。リスクをかける1200万人の市民。月の終わりに帳尻を計算する。イタリアは定義上、不安定precariである。安全な立場などはほとんどない」(ルラーニ)。プレカリエタを逆手に取る戦略が成り立つ客観的素地がここにあるといえる。

(続く)

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